――――――――――――――― 星空と花火と温泉と。
つーいた! と叫んだのは一縷だ。
長い間電車を乗り継ぎ乗り継ぎやってきたのは、吾妻線の長野原草津口駅。
電車を降りて外に出て、空気を吸い込めば、やはり都会とは違ってきれいな気がした。
まだ電車から降りただけでバスでの道のりが残っているけれど、とりあえずは駅に到着と言う事で。
「長旅お疲れさまでした、店長」
肩に下げていたバッグを一度地面に下ろして振り返った先には、いつも結んでいる長い銀の髪を下ろした店長が居る。
黒のハイネックを着た店長の肩にはその長い髪がところどころにかかっていて綺麗だ。
振り返った一縷の笑顔を見て、店長もおつかれさまと微笑む。
それだけでも来てよかったなあと一縷は思った。
この場所に来る事ができたのは、思い出すのも嫌なのだが、例の女装コンテストのおかげだ。
一縷が見事一位を取ったあれのご褒美が、一泊二日の温泉旅行ペアチケット。
あれを手に入れるのに一縷は男としてのプライドをかなぐり捨ててがんばった。あの時の俺よくがんばったグッジョブ。道中そんな風に不幸なあの時の自分をなぐさめながら、一縷は今この場所に立っている。
「一縷くんもお疲れ様」
鞄ありがとうと店長が礼を言うのは、彼の荷物も一縷が持っているからだ。
綺麗な見た目の店長が、顔に似合わず力持ちであるのはその目で見て知っているけれど、見た目が非力なこの人が重そうな荷物を持っていると、なぜかそんな事感じなくてもいいのに罪悪感を覚えて荷物をひったくるようにして持っている。
「そんなに重くないんで大丈夫です。それより早くしないとバス乗り遅れるから、はやくはやく」
「そんなに急がなくてもまだ時間はあるよ」
いそいそと荷物を抱えなおした一縷が、遠足ではしゃいでいる幼稚園児みたいに先をうながせば、店長はくすくす笑いながらゆっくりとついてくる。
「楽しそうでよかった」
「え? なんですかー?」
ふふ、と笑う声が後ろから聞こえたけれど、残念ながら結構な距離があいていたので店長が何を言ったのかまでは、一縷には聞こえなかった。
振り返って立ち止まり、間を縮めて何と言ったのか問いかけたけれど、店長は笑うだけで答えてくれない。
「てんちょー、何?」
首をかしげて問いかければ、なおも店長は面白そうに笑う。
「楽しそうだなって。一縷くん、はしゃいでるね」
「ですかね? うん、そうかも」
店長の指摘に、一縷は一瞬首をかしげた後に頷いた。
にこにこと笑いながらくるりと踵を返して再び歩きだして、数歩めのところで意識しないままに一縷は歩くペースを少しだけ落とす。
そうして店長の横につくとそのペースに合わせて歩を進め、だが何を言う事もせず、ふたりは静かにバス停へと向かう。
「そういえばねー、店長ー」
「ん?」
バス停にと到着したふたりはしばらく静かに待っていたのだが、ふと一縷は思い出した事があって語りかけた。
にこにこと上機嫌のまま語ったのは、ずっと忘れていた親との会話だ。
「俺ね、群馬で生まれたらしんですよ」
あはは、と旅行でハイになったテンションのままあっさりと告げると、店長が何故か驚いたように目を見開く。けれど店長へと視線を向けていなかった一縷はそれに気づかないまま言葉を続けた。
「途中で寄った高崎の病院だったらしいです」
「そうなんだ?」
「そうなんです。生まれただけなんで、全く覚えちゃいないんすけど」
今更のように思い出しました、と一縷は笑う。
思いだしたのは、小さな頃に母が母子手帳とへその緒を見せてくれた時の事だ。
――一縷はね、おかあさんの田舎で生まれたのよ。おかあさんと一緒ってすごいと思わない?
にこにこと笑いながら言う母の言葉が、いまひとつ一縷には理解できなかった。
なにがすごいのかわからないまま、でも母と『一緒』の事がひとつ増えて嬉しかったのをよく覚えている。
そんな母はもうこの世にはおらず、今まで忘れていたのが申し訳ない反面、店長がきっかけで思い出せた事が、なんだかとても嬉しかった。
「母さんがへその緒見せてくれて、すごいでしょって笑ってたんですよ。俺と生まれたところが一緒って」
「……そう。よかったね」
「はい」
穏やかな店長の声がやさしくて、何故か目じりが熱くなった。
返事の声が震えていたのは多分気づいているんだろうに、店長はただ何も言わず、一縷を見ようともしない。
「あ、バス来たね」
ふっと視界の端に入り込んできたバスの姿に一縷が気づくよりも早く、店長が指差しながら草津温泉行きだからあれだよ、と教えてくる。
はい、と返事をしながら一縷は鞄を持ち直して、ほんの一滴だけ流れた涙をぬぐった。
まさかこんな所で泣くとは思わなかったと、ちょっと照れくさく思いながらも感謝する。
(母さん、忘れててごめん)
でも思い出したから許して、と心の中で手を合わせつつ、一縷は近づいてくるバスへと視線を向ける。
楽しい旅行になればいいなあと、そんな事を改めて思った。
* * *
バスに乗ること約30分。目的地の草津に到着した二人は温泉宿へとたどり着き、荷物を置いた部屋でとりあえずくつろいでいた。
お疲れ様と頭を下げあったのがちょうどお昼時で、一縷の腹がぐうと音を立てる。
「あはは、おなかすいた?」
店長に笑われ気まずくなるかと思いきや、にぃっと笑みを浮かべた一縷は荷物をごそごそと探り、見つけたものを見せびらかすように上に突き上げるようにして取り出して見せる。
「じゃーん」
がさがさと出てきたのは白いビニール袋で、その中に入っていたのは赤いプラスチックの達磨。
「……?」
「だるま弁当です」
首をかしげた店長に、取り出しただるま弁当を見せてみる。
「電車っつったら駅弁でしょ。っつーわけで途中で買ってきました」
「ああ……駅でちょっと分かれた時のかな?」
「そうそう」
乗り換えの最中に少しだけ店長と別れ、店長を待たせた時間があった。その時にこれを購入したのだと笑ってみせると、店長はほんの少し複雑そうに笑う。ほんの少しだけ、残念そうな。
そんな笑顔に気づいてか気づかずなのか、にこにこと笑ったままの一縷は再び荷物を探って巾着を取り出した。
「んで、店長はこっちです」
はいどうぞと手渡したそれを、店長が広げる。
中から出てきたのは黒漆の弁当箱。
「……あれ? これって」
「あ、家にあったの勝手に使いました。店長はご当地弁当食えないから、一応俺お手製ってことでご勘弁下さい」
俺だけいい目見るなんてことしませんよと笑いながら、一縷はいそいそと部屋に備え付けてあるお茶を用意する。
「……あけていいかな?」
「はい? 開けなきゃ食えないじゃないっすか」
何言ってんのと笑って、一縷は急須から湯のみにお茶を注いで店長に差し出した。さっさと開けろと店長に促しつつ自分もだるま弁当の蓋をうきうきと飽ける。
「おー、うっまそー」
かぱっと開いた弁当はテレビの特集と全く同じもので、なぜかそれに感動しながら割り箸を割った。店長はと言えば、恐ろしいぐらいにゆっくりと弁当箱の蓋を開けている。
おそるおそると言った様子で開かれた弁当箱の中身は当然の事ながら店長仕様だ。店長が気に入っていた豆腐のハンバーグに、青菜のおひたしエトセトラ。つまりは普段の食事とあまり変わらないメニューだが、一応今朝がんばって作った。
「お昼はでないって聞いてたし、他で食べるってのも考えたんですけど、駅弁食べるの俺夢だったんで」
店長にも付き合ってもらおうと弁当持って来ましたと、ちょっと言い訳みたいに言っても店長からの反応はない。
なぜか店長は蓋を持ったまま動かないのだ。
あれ? と首をかしげた一縷は、固まったままの店長の目の前でひらひらと手を振ってみる。
「店長?」
「……えっ、あ! ああ、ご、ごめん。い、いただきます!」
おーいと声をかけると、はっと我に返った店長があわてて両手を合わせてから箸に手をつけ始めた。
一体なんだと思いつつも、目の前のだるま弁当に想いを馳せていた一縷は、特に何を気にするでもなく、両手を合わせてから弁当を食べ始める。
「……おいしいね」
ふわりと、まるで花が咲く瞬間みたいな笑みを浮かべた店長が、一番嬉しい感想をくれた。
少し照れながら、もごもごと口を動かし入っていたものを飲みこんで、一縷は答える。この人のこういう所が本当に好きだ。
「いつもと大差なくてすみません。思いついたのが急だったんで、何入れるか考える暇なくて」
急ごしらえで作ったものだから、あまり時間のかかる料理は作る事ができなかった。
青菜のおひたしは胡麻をちょっとしかすれなかったし、豆腐のハンバーグにはいつもより入っている野菜が少ない。それでもそこそこアレンジをきかせて、いつもはやらないような花のにんじんが入っていたり、ちょっとは気合を入れてみたりもした弁当だ。
ただ、自分の中で手抜き感がするのは否めない状況で、ほんの少し眉を下げて言ってみれば、ううん、と店長は笑う。
「一縷くんの味だ。おいしいよ」
「えっと、そっすか……」
「うん。嬉しい。ありがとう」
にこにこぱくぱくと弁当を食べる店長の姿に一瞬見とれて、数秒経ってからはっと我に返って一縷は慌てて食事を再開した。
最初はあんなに旨かった弁当の味が、何故かよくわからなくなっていて、なんでだろうともぐもぐ咀嚼しながら考えて、答えが出た。
(ああ……驚いてんのか、俺)
びっくりして味がわからないなんて初めてだ。
そんな風に思いながらぱくりと口に運んだ弁当は、やっぱり味がよくわからなかった。
* * *
ところで、と一縷が切り出したのは、弁当を食べ終わってから数十分後の事だった。
各々食後の休息を取って、店長は旅館の中のおみやげ屋を見てくると言って出かけ、戻ってきた後、ふたりでお茶を飲んでいるのが現状。
「店長が行きたいって言ってた温泉なんですけど」
「うん?」
「バスの本数がめちゃくちゃ少ないんですけど」
「ああ、うん。俺も調べてびっくりしました」
「あ、調べたんすか」
「そりゃまあ、言いだしっぺですからね」
全部一縷くんに丸投げしたりしないよ、とこれは大人のしたたかな笑みを浮かべながら店長はポケットから何かを取り出した。
「さてこれは何でしょう?」
店長はくすくす笑いながら、指先に取り出したものをひっかけてくるくると回す。
ナンバープレートのようなものがついたそのリングにもうひとつついているものは。
「あ」
もしかして、とつぶやいた一縷に、考えているので多分正解ですと、今度は悪戯っ子みたいに店長は笑った。
「レンタカー?」
「その通り。近くにお店があるって旅館の人に聞いたから、借りてきました」
ちゃり、と音を立てて店長は回していた鍵を掌に収める。
お土産を見てくるにしては遅いと思っていたのだが、まさかそんな事をしていたとは。ぽかんとした表情を浮かべる一縷に、悪戯が成功してとても満足したような表情を浮かべた店長が、これで行こうねと言う。
まさか自分が迷っていたことを店長に実行されるとは思っていなかったから、驚きに固まったまま、一縷はつぶやいてしまう。
「店長免許もってたんだ」
いや、持ってるかなとは考えたけれども。
実際この店長が車を運転する図が想像できなくて、どっちだろうと唸ったりしたのだが。
「あはは、まあしばらく運転してなかったからペーパーに近いけどね」
「や、多分俺よりマシです。うん」
だって俺とってから殆ど運転してないもんと告げれば、どっちもどっちじゃないかな? と店長は笑って答えた。
「まあとにかく足は確保したので、行きましょう」
にこにこと笑いながら嬉しそうに鍵で遊ぶ店長の姿を見て、珍しいなと一縷は思った。
(ほんとに行きたかったんだよ、な? これは)
受身ばかりの店長が、こんなに行動的になるのも珍しい。はしゃいでいると言ってもいい店長の姿に、すごく行きたかったんだなと思い一縷はふっと笑みを浮かべていた。
いつも一縷の「憧れの大人」を体言しているような店長が、子供みたいに楽しそうにしてくれているのは見ていて嬉しかった。一緒に来てよかったと思えて、一縷の顔には自然と笑みが浮かぶ。
「車、少しお金かかるけど家の近くにあるお店に返せばいいんだって。だから帰りは車にしようか」
「……へ? あ、いやでも道わかんなくないっすか?」
「ん? まあ大丈夫。地図見ればなんとかなるよ」
カーナビもついてるし大丈夫でしょうと店長は笑って、鍵を再びポケットの中に戻した。
「……うーん、なんか不安だけど、まあ、いいか」
「大丈夫ですよ。店長を信じてください」
それが不安なんだけどと思いつつ、楽しそうな店長に水をさすのもどうかと思ったので一縷は口をつぐむことにした。
足も確保できて時間を気にする必要がなくなったため、ぐだぐだと2時間ほどを旅館でなまけつつ過ごしたのち、ふたりはようやく出かけた。
まずはお土産と、うきうきする店長と草津を歩きしっかり温泉饅頭を買い込み、車に乗って移動を始める頃、だんだんと夕方へと向かって日が落ち始めた。
助手席に座りつつ、カーナビに頼って目的地の尻焼温泉へと向かいながら話すのは他愛もない事ばかりだ。だがそれが楽しい。
「何年も運転してなかったって思えないなあ」
窓を開けて、流れる風を感じながらふと呟くと、店長がどきどきしてるよと返してくる。
大きな通りからだんだんと細い道に入っていくにしたがって、周囲の車の速度はみるみる上がっていくから恐ろしい。
「なんでみんなそんなに急ぐんだろうねえ……?」
「あはは、すげぇ……」
絶対あれ70キロ以上でてる、と思いっきり自分たちの乗る車を追い越していった車を眺めながら、こっちは安全運転でいこうねと言う言葉に、ぜひそうしてくださいと一縷はうなずいた。
慣れはすごいと思うが、何もあんなにがんばらなくてもいいだろうに。
「おおらかな人が多いと思ったけど」
運転にそれは比例しないのかなと店長が言うから、どうなんでしょうねえと一縷はまったり答えた。
周囲からくらべればだいぶゆったりと、交通ルールを守りつつ約40分。
言い方は悪いのかもしれないが、田舎だなあと思うような自然たっぷりの景色を眺めつつ、たどり着いたそこは目的地よりもだいぶ手前の駐車場。
温泉まではここからさらに歩かないといけないらしく、昔の人は車なんてないだろうによくがんばったなあと思う。
それでも入りたいと思えるような場所なんだろうかと、どきどきしながら。
「……こ、これは、なんつーか」
「あはは、都会っこには辛いかなー?」
「なんで、店長は平然として、られ、るんですか」
「さあ?」
どうしてだろうねえと笑う店長は、ずんずんと坂道を笑顔で上がっていく。
髪を風になびかせながら歩く背中を眺めつつ、なんとか辿りついて開けた視界に、一縷は口を閉じるのを忘れて呆然とした。
「……うわぁ」
湯気出てる。
それが温泉を見た一縷の第一声だ。
川を堰き止めるようになっているそこからは湯気がたっていて、その隣は本当に川だ。
「なんつーか……すごいなあ」
「だから来たかったんだよ。行こうか」
るんるんとスキップでもしそうな機嫌のよさで、店長はさっさと行ってしまう。
辺りはすでに暗くなっていて、川の傍の道は歩きにくい事この上ないのに、店長の足取りはあぶなげなく楽しそうだ。
「うおっと」
小石に躓きつつたどり着いたそこには誰かいると思っていたのに、誰もいなかった。
湯気の立ち込める川岸には着替えをするような場所などなくて、そういえばそうだったと思ってももう遅い。
ばさばさと音が聞こえて横を見た瞬間に、一縷はばっと視線を目の前の温泉に急いで戻す。
(……や、やばいやばいやばい!)
ナニソレー! と何かのCMみたいに頭の中で叫んだのは、ほんの一瞬見た光景に動揺したからだ。
いやまあ、当たり前ではあるのだけれども。
「一縷くーん、入らないのー?」
一縷が動揺している間にさっさと温泉に浸かってしまった店長が、ひらひらと手を振っている。
はやくおいでーと手を振っている店長を見た瞬間、血の気が引いた。
(……ここで、脱げと)
いや別にどうってことない、はずなのだが。
(あ、いや別にやましい訳では)
ふるふると首をふりながら、一縷はひらひらと揺れる白い手を眺めた。
何と言うか、本当に店長はどこもかしこも白くて時々ぞっとする時がある。
綺麗すぎるものが怖いと言うのはこう言う感覚なのだろうかと思いながら、ごくりと喉を鳴らした一縷は、催促してくる店長の声に意を決してばさばさと服を脱いだのだった。
* * *
脱いだからと言って特に何があるはずもなく、お湯につかりながらふたりは夜空を見上げていた。
「すっげーなぁ……」
都会では決して見ることのできない星の数に、驚きと感動を覚えた一縷が口にしたのは、センスの欠片もないような一言だ。
だがこれが一番自分の頭の中の感動を表してくれる言葉だと思ったのだ。
満点の星空と、都会の空気の中で暮らしている限りは縁のない言葉そのものの空を見上げながら、来てよかったなあと思う。
「綺麗だなあ……」
同じようにぼんやりと夜空を見上げていた店長が、独り言なのか話しかけてきているのかわからないような声でつぶやいた。
そうですねえと同意した声も、聞こえているのかいないのかよくわからない。
返事はなく、それでいいと思うでもなくただぼんやりと空を見上げる時間が続いた。
川の流れる音を聞きながら、眺める空は綺麗だった。
嘘偽りなく、お世辞もなく綺麗だと思った。本当に綺麗だと思った。
もしかしたら今まで生きてきた中で五本の指に入るぐらいに感動したかもしれない。
(あー……)
本を読み漁ってきたくせに、こう言う時に出てくる感想が「綺麗」しかないのはどうなんだろうと思いつつ、まあそう思ってしまうものはしょうがないと思いながら、両手ですくった湯を顔にかける。
ばしゃばしゃとお湯をかけて見渡した周囲は自然そのものと言った感じで、俗世を離れたような気さえするのは、行きすぎなのだろうけれど。
(なんか店長が横に居ると別世界って感じなんだよなぁ……)
つくづく店長は人間離れした容姿の持ち主だと思う。
長い髪は頭の上でひとつにまとめられて見えるうなじが、何かよろしくないものを呼び寄せるような気がしないでもないが、きっとこの人は笑顔ひとつでいなしてしまうのだろうとも思う。多分自分がその第一号なんだろうなとも。
「てんちょー」
「はいー?」
「露天風呂っていいっすねー」
「そうだねえ」
「星もきれいですねえー」
「そうだねー」
「おんなじ関東なのにこうも違うんだなあって」
「んー?」
「なんか切ないと言うかー、いいなあと言うかー……」
「そうだねえ……もうちょっと綺麗だといいなあとは、思うよ」
その後はゆらゆらとお湯につかりながら、あったかいねえだとか、きもちいいねえだとか、ぼんやりと独り言の応酬のような会話をした。
何分入っていたのか計っていなかったからわからないが、普段の自分の入浴時間を考えると多分倍以上の時間浸かっていたと思う。それでも飽かず話を続けたい気分ではあったのだが、さすがに体がもうだめだとのぼせはじめた。
「あー……」
「さすがにもう出ようかー……」
「ですねぇー……」
まったりした気分でいるせいか、いちいち語尾が伸びた。
出ようかと話をしているくせに体は動かず、一縷はほんの少し顎を引いて、口元をお湯につけてぶくぶくと泡を立てた。
その横で、さすがに限界が来たか店長が上がる音がした。
「綺麗だねえ」
うっとり、と表現するのが相応しいような、溶けそうな声で呟いた店長は、一縷の答えを待たずにさっさと出て行ってしまう。
ぶくぶくぶく、とお湯に顔の半分を沈めたまま答えた言葉は「そうですね」だ。
店長が着替え終えたのを見計らって上がってから、さっさと服を着て帰ることにした。
さすがに夏真っ盛りだと、夜でも暑い。
だが都会のように嫌な暑さではなく、不思議なものだと一縷は思いつつ、今度は楽な坂道を下った。
「明日はどこに行こうか?」
「んー、おみやげも買っちゃいましたしねえ」
どうしましょうか、とほんの少しの間沈黙が続いて、その後ぽんと店長が手を叩いた。
「あ、そうだ。湯もみの体験しに行こうか」
「湯もみ?」
「よく草津の特集とかやるとやってるよ。こう、長い板持ってお湯をかき混ぜてるあれ」
ほらこう、と店長は両手で板を持っているようなそぶりを見せて、なんどかそれを裏返したり戻したりするような動作を見せた。
「草津よいとこ一度はおいでーって、ね」
知らない? と問われた後数秒頭の中をひっくり返してみたけれど、よくわからなかった。そのままを伝えれば、じゃあやっぱり体験しにいかないとねと店長は笑う。
「経験は大事だよ、一縷くん」
くすくすと笑いながら先を歩く店長の背中を追いつつ、一縷は「はあい」と先生に説教された子供みたいな返事をした。
アクティブな店長はとても珍しく、なんとなく自分のペースが乱されるような気もするが、不快な感覚ではない。むしろ。
(たまにはこう言うのもアリかな)
そんな事を思った一縷の顔には自然と笑みが浮かび、ほんの少しだけ歩くペースを速めて店長の横に並んだ。
ちょうど横に立って歩き始めた頃、坂道の横手から「どーん」と音が鳴って空が光った。
ふっと見上げてみれば、そこには打ち上げ花火が色とりどりの花を咲かせている。
「きれいだねえ」
その光景に足を止めて見上げた店長の声は、花火の音にまぎれて途切れ途切れにしか聞こえなかった。
だが何を言っているのかはすぐにわかって、空を見上げながら一縷は頷いた。
「きれいですねえー」
すっごいなあと笑いながら、五分ほど花火見物をしてまた歩き出す。
来てよかったなあとしみじみ思いながら、あと少しだけ、車までの距離が伸びてくれないかなと、そんな事を思った。まあ、伸びるはずがないのだけれども。
「それで、湯もみ体験が終わったらどこに行こうか?」
嬉しそうに話す店長に向かって、美味しいものが食べたいと笑いながら一縷は歩く。
いつの間にか店長を追い抜いて、しばらくして振り返った先には店長の笑顔がある。
(なんかいいなあ)
家は同じだから一縷があの家を追い出されない限りは一緒に居る訳だけれど、こうやって一緒に居る時間は、普段とは別の何かがあるような気がした。
それはとても心地よくて、できればもうちょっと長くこうしていたい気もするのだけれど。
「あー……明後日帰ったら何がありましたっけー……?」
「ええと、女性誌? 確か」
「もうそんなかぁ……やだなあ、帰ったら現実が待っている」
「あはは、まあ魂の休息を取った後は現実に戻らないとねえ」
「なんすかその魂の休息って」
「あれ? 言わない? 温泉は魂の休息ですよ」
「あー……言われてみれば」
そんな感じ。と納得しながらうなずいて、だが再び思考が現実に引き戻されてしまう虚しさよ。
「楽しい後は地獄かぁー」
「まあなんとかなるでしょう。一縷くんも居るし、秋坂くんだっているし」
「店長もね」
帰ったらとにかくがんばるから、とりあえず今日明日は楽しみましょうと笑って、そうしているうちに車へとたどり着いた。
帰ったらおいしいご飯とふたりでうきうきしつつ、蒸し暑くなっている車の窓を開けて風を呼び込みながら発進する。
楽しい時間があともうちょっと続くのが嬉しかった。
END
温泉については色々フィクションが混じってます。
落ちが全くない旅行でした。