――――――――――――――― 出発進行前倣え!
クローゼットの中から出した着替えと少量のタオルを詰め込んで、残りは財布とお風呂道具を入れれば準備は終了。
これといって髪をセットする事もしない一縷の旅行準備は簡単だった。
他にやることはと言えば、行く先の下調べだが、あまり調べすぎても失敗するだけだと、そこそこで済ませてある。
(温泉なんて修学旅行以来だなぁ……)
そう言えば団体でクラスごとに風呂に入ってはぎゃーぎゃー騒いだ記憶があると、温泉に対する一縷の思い出とはそんなものだった。
行き先は草津。温泉地で有名なあの場所にあるホテルの無料チケットを手に入れるのに、聞くも涙語るも涙な顛末があったのだけれども、そこは語れば涙なので割愛するとして、温泉旅行は純粋に楽しみだ。
「あ、そうだバス」
時刻表だけ調べておかないとと携帯を取り出して一縷は検索を始めた。
行き先は草津だと知った店長が、一箇所だけ行きたいと指定した場所があるのだ。
『草津……? あ、じゃああそこに行きたいなあ』
『あそこって?』
『ええと……なんだっけ、あ、そうそう、尻焼温泉』
自然の川を堰き止めて作った温泉らしいと、店長は笑って言っていた。
尻焼ってまたすごい名前だと思ったのだが、どうも痔の治療にいいとかで、最初は尻だけ浸かる温泉だったからそんな名前がついたのだとか。
(ケツだけつかるとか……どんな体勢)
名前の由来を見た時に考えたことがまずそれで、ちょっと想像してみて吹いてしまった。いやいや湯治に来ている人にとっては大問題なのだから笑うなとなんとか笑いを治めて、その後に店長の言葉を思い出した。
『景色がいいって言う話なんだよ。川が温泉だなんてすごいよね』
尻焼温泉は、川の中に温泉が湧き出していてその川を堰き止めて露天風呂を作ってあるという話だ。
自然の川に境目ができたような温泉は広く、ちなみに無料で、自然の川をただ堰き止めているだけなのでついたてもなにもない混浴、だそうだ。
一度行ってみたかったんだと笑って言うから、じゃあせっかくだし行きましょうという話になり、今回の旅行の一番の目的は尻焼温泉となった訳だった。
かちかちと携帯を操作しながらバスの時間を調べてみると、出ているのは大体2時間に1本。さてどうしようかと唸った一縷は、ペーパーだけど車を借りたほうがいいのだろうかと考える。
「……免許取ってからいいとこ4回……いや3回? なんだけどな」
18で免許を取って、車を運転した実績がそんな回数だ。そんな自分が田舎道を運転して果たして大丈夫だろうかと唸り、最終的にはやっぱりバスの方がいいかもしれないという結論に至る。
何せ相手は山の中だ。細い道は怖い。事故る自信だけはある。自慢はできないけれど。
「まあいざとなったら時間潰せばいいし。最終的にはタクシー呼べばいいし。うん」
それがいい。そう納得してから、ふと一縷は首をかしげた。
「……そういや店長って免許持ってるんかな?」
あの不思議店長は、いつまで経ってもよくわからないままの謎の人だ。
食べ物の好き嫌いは必要に迫られて知る事ができたけれど、それ以外となると、やっぱり未だ謎のままだ。
一緒に暮らしていると言うのに、あの人に生活臭みたいなものを感じられないのはどうしてだろう。
「……なんか、時々人形みたいというか……いやそれもちょっと違うか」
綺麗すぎると現実離れしてしまうものなのだろうかと一縷は思う。
あそこまで綺麗だと、人形のような印象が強くていまいち現実味がないのかもしれない。
そんな事を考えながらも、人形という言葉は少し違うような気がした。
確かに店長は一見すると人形のように綺麗ではあるのだけれど、なんというかこう、人形みたいに作り物めいた綺麗さではなくて、もっとこう、なんというか。
「……ああ、あれか」
ひとつだけ当てはまる言葉を見つけて、一縷は納得する。
少し前に喧嘩のようなそうじゃないような、微妙な一夜を悶々と過ごしたあの時、朝食を作ってくれた店長に後光が射して見えたような、気がした。
(神々しいっつーのかな)
さすが自称カミサマ。などと、悪い意味ではなく思いつつ、「神々しい」というその言葉が店長には一番合っていると一縷は思う。
キリストだとか仏陀だとか、そういった宗教の象徴のようなそんなに大きなものではないけれど、あの人にはある意味カリスマのようなものがあると思った。
カミサマと言われて、正直な話そんなものが居るのか居ないのかわからない一縷には素直に信じられないが、店長が神様だったらいいなあと思ったりもしている。
(店長が本当に神様だったらなんか癒される気がするなぁ……)
それだったら神様が居るのもいいかもしれない。そんな事を一縷は思う。
「……まぁカミサマより店長がいいけど」
そんな手の届かない所に居る人より、近くで笑ってくれる店長のままがいいなあと一縷は思う。
だって好きな人が遠くに行ってしまったらやっぱり寂しいじゃないか。
そんな事を思いながら、携帯のフリップを閉じて充電器にさしこみ、一縷は鞄を閉じる。
明日は待ちに待った旅行だ。
もしかしたら遠足前の幼稚園児みたいにわくわくして寝られないかもしれない――なぁんて思いもしたけれど、いざベッドに寝転がってしまえばころっと一縷は眠りについていた。
* * *
さて、そんなこんなで翌日だ。
店のシャッターは下りたまま、その手前に一縷と店長は立っていた。
「なんだか使い古した感じの鞄だね。一縷くん」
そんな事を言った店長の視線は、一縷の肩に下がっている旅行鞄に注がれている。
いまどきの学生が使っているものに比べると、だいぶ古めかしいデザインのボストンバッグ。使い古した感も相まって、見た目はだいぶ古ぼけた感じだ。
「ああ、お古なんです。父の」
なんとなく愛用しているその鞄は、昔父が使っていたものだ。
どこへ行くにもこれを使っていたというその鞄は、息子に受け継がれて同じように使われている。
「……一縷くんのお父さんか……どんな人だったのかな」
「んー……大雑把で家に帰ってくるとなんにもしない典型的な父親タイプだったんですけどねー。なんかいざ思い出してみると、いい事しか思い出せなくて」
頷きながら答え、笑ってみせる。
父がなくなってからもう何年も経っていて、今ではもういい思い出しか出てこない。鞄は家を出る時にもらった。それからなんとなく新しいのを買う気にもならずにこの鞄を使い続けている。
いい父だったと思いますと答えれば、そう、と店長は満足したように目を細めた。
「いい家族を持ってるのは良い事だね」
「そうですねー。無くしてからやっと気づくんですけど」
「そうだね。持っているとそれが当たり前になってしまうから」
でもその良い事に気がつけただけでもいいんじゃないかなと店長はうっすら微笑んだ。そんな笑みに、ほんの少しだけ好奇心がうずいた。
そして二人で旅行というそれに浮かれていた一縷は、ついつるりとその好奇心を口に出してしまった。
「……店長の家族は、きっといい人だったんですね」
ふっと笑って何気なく呟いたその言葉に、店長は目を丸くして一縷を見る。その驚きっぷりに、何か悪いことを言っただろうかと一縷はあわてて、けれど何を言ったらいいのかもわからずに途方に暮れる。
(……やべ、地雷踏んだかな)
旅行前だと言うのにそれはまずい。どうしようと思っていると、店長はほんの少しだけ悲しそうな顔で笑って言う。
「一縷くんがそう思ってくれるなら、うれしいな」
そんな事を言いながら笑われて、そうですかと一縷も小さく笑って返した。それしかできなかった。
(……なんかスルーされた? 嬉しいってのは嬉しいけど……やっぱ地雷かな)
これからは家族の話はやめとこうと決意しながら、一縷は自分の荷物のついでに、店長の荷物もひったくる。
「あ、自分で持つよ?」
女の子みたいに扱わなくてもいいのにとくすくす笑いながら、それでも店長は一縷の好きにさせてくれた。
実際店長は男だし、毎日毎日本がぎっしり詰まった箱を2、3箱平然とした顔で運んでいるから力があるのも知っているが、何せ外見が外見なもので。
(仕事はいいけどオフで重いもの持ってるとなんかなぁ)
悪い事をしているような気分になってしまうのは、一縷の勝手だ。
そんな意味不明な罪悪感から店長の荷物をひったくるのを好きにさせてくれる店長に、すみませんとありがとうを同時に心の中で呟きつつ、一縷は歩き出す。
「とりあえず着いたらホテル行って、その後例の温泉でいいですかー?」
「ああ、ええと、とりあえず、はい」
「了解です。まあとりあえずという事で」
笑いながらとりあえずと繰り返すのは、まあ着いてから色々考えればいいんじゃないと、そんな適当すぎる旅行計画のせいだ。
一応ガイドブックやらネットやらで色々調べはしたものの、やっぱり現地で気の向くままが一番いいんじゃないかという結論に至った。
行きたい箇所はとりあえず店長が言っていた温泉。
最終的にはそこにさえいければいいと言うのが、今のところ二人の目標だ。
「はいじゃあ出発進行ー!」
「進行ー!」
あははとまるで子供みたいに楽しそうに笑いながら、ふたりは歩いて1分としないうちに着く駅へと向かう。
足取りは軽く、これからの事を考えるふたりの顔には笑みだけがあった。
END
旅行にいくどー! な回。
珍しく露骨に次回へ続く、なノリで今回は終了。
次回は草津に到着です。