――――――――――――――― その笑顔が見たいから。
パソコンの画面を眺めながら、一縷は今までの人生の中で一番深いと思うため息をついていた。
「はぁー……」
胃の中からも押し出すようにした息は、限界まで吐き出してやっととまる。
そうしてからディスプレイに表示された数字をしばらく目を細くして眺めた後に、カウンターの上においた本の数を「いち、にぃ、さん……」と声に出しながらゆっくりと数えた。
「……じゅうに」
並べられた本は二列。どれも同じ本で、ハードカバーのそれは全部で14冊。だがパソコンに表示されている数は14冊。
画面に表示されているのはデータ管理上の在庫数で、一縷の前にある12冊が、現物のある在庫数。
データと現在庫に2冊の差。それの意味するところはと言えば答えは単純。単純ではあるが、大問題だ。
「……やっぱ盗られたんかな……あああ……」
頭を抱えながら一縷はがつんと額をカウンターにぶつける。
在庫の数が合わない原因はいくつか考えられる。
ひとつは、一番最初の在庫登録の時点で間違えている可能性。だがこれは前回の棚卸で数が合っていたから可能性は低い。
ふたつめは、乱丁本などで返品交換があった可能性。
データ上の商品管理は在庫登録とレジの売買の登録で行われるため、データを通さない返品交換があれば、当然データの差は出てくる。
だがその場合も、担当の人間に乱丁本が預けられるはずで、交換があった様子もないからその可能性も低い。
そして在庫数が合わない理由の中で、最も可能性が高いのは、万引きだ。
そのほかに棚の隙間に入っているなどの原因も、ごくごくたまになくはないのだが、ハードカバーの本が入る隙間があるとはあまり思えない。
「……にさつ……にさつでー……ぜいぬききゅうせんろっぴゃくえん……」
はぁあとため息をついて計算したのは、この損失を埋めるために必要な売り上げだった。
1冊盗られた場合、穴を埋めるために必要な売り上げはその3倍だと言われている。今回は税抜き1600円のハードカバー2冊だったから、9600円ぶん。
それがいかに大変な事なのかを思うと、もうため息しか出てこない。
たかが一冊と思うことなかれ。たかが一冊、されど一冊。頭を悩ますその一冊。
「いっそ見本作るかな……」
それがいいかなと、ため息と共につぶやいて一縷は立ち上がる。
在庫の本をカウンターの下に隠して、のろのろと手を伸ばしたところには、ダミーのパッケージを作るための透明なケースがある。
べりっと接着面をはがすと、ビニール面がはがれてその中にカバーが入るようになっている。そこにカバーを入れて見本品として棚に置いて、それを持ってきた客にはレジで保管している商品を渡すのだ。
「……やらないと絶対とられる。また盗られる……」
はぁ、と呟いたのは、ここ最近こんな被害が続いているからだった。
普段ならば月に一度あるかないかのそれが、ここの所は一週間に2、3度の割合で発生している。
一番ひどいのはコミックスで、その次に文芸書。そして文庫に雑誌。
あまりにひどいからとこのダミーを発注して使う事になり、コミックスの売れ筋新刊は全部ダミーで様子を見る事にした。念のためにと発注してあった文芸書サイズのダミーを、やっぱり使う羽目になってしまったと一縷は嘆く。
本当ならやりたくない処置だ。だがこれも仕方なし、と店長と話し合って決めた。
「はぁ。なんでこんな大型書店みたいになってんだよ……」
俺の好きなちっちゃな本屋さんはどこへ行ったと、そんな事を思いながら一縷はさらにため息を漏らす。
万引きする人間なんてこの世界から滅びてしまえと、恨み言をもらしたくもなるというものだ。
ちっちゃい『本屋さん』はほっこり温かい感じが一縷の理想だと言うのに、見回す店内はなんだか大型『書店』のマニュアルこんもりのような殺伐さに見える。あれはあれでいい所があるとは思うのだが、この店はやっぱり『本屋さん』であって欲しいと思う。
「ああ……もうほんとに滅びろ……」
清く正しい商売人の苦労を返せ。
そんな風に思いながら一縷は泣く泣くダミーを売り場に出しに戻る。
いい加減にしてくれと心の中で叫びながら、秋坂が出勤してからの時間は全て、在庫確認のための簡易棚卸で終わったのだった。
* * *
珍しい恋愛のテンションに浮かれていた罰か、と一縷は思う。
簡易棚卸をしてから三日。
「ああああ……」
ディスプレイに表示された数字を見たとたん、まただよ、と一縷は床に崩れ落ちた。
「……また?」
あの温厚で笑顔しか見せなかった店長の表情ですら、さすがに曇ってしまっている。
今日は、先日ダミーを出した商品とは別の商品の在庫が合わない。
「またというか、ほぼ連日何かしらなくなってます」
いい加減にしてくれと、本当に心からの言葉を呟いて一縷はもう癖になりかけているため息をついた。
全部の商品をダミー化するわけにもいかず、いたちごっこのような状態が続いていて、正直言ってもうお手上げ状態だ。
売れ筋の商品は全部ダミーにしているから被害はないのだが、必ずと言っていいぐらいに、毎日何かひとつがなくなっている。
全部の商品を毎日チェックできる訳ではないから、もしかしたら被害はさらに大きいかもしれない。
「……棚卸、週一に増やしたほうがいいかもしれないっすー」
もう嫌だとちゃぶ台をひっくり返したくなるような現状で、どうやったら防げるかと一縷は頭を抱えた。
短期間で何度も棚卸をするのは正直言って骨が折れる作業だし、できる事ならやりたくない。それでもやらなければ被害は広がる一方だし、特定も難しくなる。
「こんな事初めてだよ。こんな小さい本屋でよくやる気になるね」
さすがの店長も眉を寄せて、どうしようかと悩んでいる。
店員が常にひとりは中に居る店で、よくもまあ盗みを働く気になったものだと思うのは、一縷も同じだ。
最近はそのスリルがどうのとかで、万引きを娯楽の一種のように遊び感覚で行う輩も居るらしいから、もしかしたらそれなのかもしれないし、別の理由があるかもしれない。
だがそんな理由を知ったところでどうにかなる訳でもなく。
「……俺そんな理由教えてもらうより万引き犯がこの世からなくなる薬が欲しいです」
「同感」
店長も一縷も連日の万引きで精神的な疲労が酷かった。
万引きのひどさで店をたたむ本屋も多いのだ。このまま放置していればそうなりかねないと、店長の悩みは一縷の苦しさを越えるに違いない。
「……しょうがない、ちょっと苦しいけど人員増やすか」
被害が相次ぐ状態で人件費を増やすのは苦しいのだが、それで万引きがなくなればいいのだと店長は笑って言った。
その判断が吉と出るのか凶と出るのかはわからないが、現状ではそれしか方法がなく、次のシフトから考えてみるよと店長は言った。
「とりあえず現状は、怪しいお客様がもしも見えたら必ずマークする事。声をかける時は誰かふたりで、と言う事かな。何事も身の安全を最優先で」
「はい」
たかが万引きでそんなに警戒の必要があるのかと思われるかもしれないが、数年前には万引き犯を追いかけて命を落とした人も居るのだから侮れない。
安全第一でねと店長は苦笑して、一縷と同じように癖になりつつあるため息を吐く。
深い息を吐く店長に気をつけてと言われてわかりましたと答え、一縷は本気で万引き犯なんて消えてしまえと呪詛のように心の中で繰り返した。
* * *
今週に入ってため息は何度目だろうと、虚ろな目で一縷が考えたのは、大学の校舎の中での事だった。
単位のためだけにとったさして興味がある訳でもない授業の中では、良い事でも悪い事でも、余計な事ばかり考えてしまう。
ぼうっとペンを回しながら考えていたのは、ここ連日の万引きの事だ。
(……なぁんで見つけらんないかな)
ここ最近は、後にまわせる仕事は後に回しまくって万引き犯を発見しようと目をひん剥く勢いで見張っているというのに、全く以って見つかる気配がない。
一縷が仕事をしている時間に万引き犯が現れていないのかもしれないが、こちらが警戒している気配を見せれば、発見とまではいかなくても牽制にはなるだろうと思っている。
「……はぁ」
それでもやっぱり、つかまるまでは悩みが絶えないのはしょうがないことで、ため息は耐えない。
何度も何度もため息をついては考えごとに没頭する一縷の横には須々木が居て、授業の最中ちらちらと一縷を見ていたのだが、それにも気づかないまま一縷はひとり、他人から見れば奇妙としか思えない表情と行動を繰り返していた。
「いっちるくーん、授業は終わりましたがなんかお悩みごとですかー?」
ようやく一縷が須々木の存在に気がついたのは、そんな風に話しかけられたからだった。
「……えぁ?」
考えに没頭するあまり、授業が終わっていた事にも気づいていなかった。
時計を見れば、授業が終わってからすでに十分は経っている。
「えぁってなによえぁって」
「あ、ああ……須々木」
「どったのさ、ここ最近ため息ばっかついちゃって。恋のお悩み?」
一縷くんにもついに春がきちゃった? などと下品に須々木は笑ったが、そんな冗談に付き合っている余裕が一縷にあるはずもなく、一縷は再びため息をつく。
「ちょっ……なんだよそれー」
ため息ってひどくね? ひどいよね? と須々木は泣き真似もしたけれど、黙殺してやった。相手をしたところで今は須々木が望む反応を返せる自信はないし、何より疲労が増すだけだ。
「……一縷本気で大丈夫か? マジでやばそうじゃねぇ?」
やばくない? といきなり本気の顔になって須々木が問いかけてくる。
あまりの反応のなさに、これは冗談で済ませるような問題ではないと悟ったのかもしれない。
「正直お手上げだ」
重低音の重苦しい声で呟いた一縷の言葉に、須々木の表情も曇った。
「俺に話すか?」
楽になるなら話していいぞと言う須々木に、一縷は首を左右に振って答える。
話して楽になってしまいたいと言う気もするし、もしかしたら対策を一緒に考えてくれるかもしれないとは思うのだが、いかんせんこの男は口が軽い。
「お前口軽いからダメ」
きっぱりと理由も告げれば、ひでえなと、さほど気にしていない様子で須々木が返してくる。
須々木がそんなに軽い人間ではない事は知っている。色恋に関しては全く信用のならない彼だが、この話はしても黙っていてくれるとは思う。だが話してしまうのは何か甘えのような気がして、一縷にはできなかった。
「まあ別にいいならいいけどよ。あんま無理して溜めすぎるなよ?」
「んー、まあ大丈夫だろ。最悪の事態になったらなったで、その方がいいのかもしれないし」
「どう言う意味?」
「まあ、心配する必要がなくなると言うか。そんな感じで」
事態が最悪までいたれば、逆に打つ手が出てくる。
中途半端な状態が一番悩みの原因なのだ。そうなったらそうなったで、動きが出なくもないからなんとかなると一縷は言った。
「んん? 俺にはよくわからんけど、とにかく大丈夫なんだな?」
「そうそう。大丈夫。ダメになったら相談する」
「おし。それなら俺に迷惑にならないようにがんばれ」
「そーする」
ありがとよと、話を始める前よりはいくらかましになった顔で笑った一縷は立ち上がり、帰り支度を始める。
またこれからバイトで、出勤すればまた簡易棚卸をしなくてはいけない。
さっさと捕まってしまえと思うのはよくない事だとはわかっている。
万引き犯の逮捕は現行犯が原則で、その思考はまた起きろと言っているも同然だからだ。だがそれでも、早くこの騒動が何かしらの形で決着をつけられないものかと思ってしまう。
はぁ、とため息をつきながら、いやだなぁと一縷は思った。
それでも現状維持のままではいられない。
「……あの店なくなったら俺住むところなくなるよ」
『店員と店長』という関係だからこそ、あの家に住む事を許してもらえたのだ。だから店がなくなってしまえばクビも同然。それは困る。それに別の理由だって、ある。
「……うし。まあがんばろう」
なるようになれだ。
そんな風に考えたその日、事態は急展開する事になる。
それを知らぬまま、一縷は重いため息を吐きながら帰るために足を動かした。
* * *
「ただいまー」
この家で暮らすようになってから、店に入る時の挨拶がそうなってしまった。
おかえり、と店長に言われるから「ただいま」と答えるのが癖づいて、それからはずっと、誰が相手でもただいまと言うようになってしまっている。ちなみに今日の相手は秋坂と店長。
「あ、おかえりなさい」
「一縷くん、おかえり」
ふたりに迎えられながら再度「ただいま」と答え、鞄を置いた一縷は店長へと近づいていく。
店長の手には、棚卸に使うハンディが握られていて、もうすでに棚卸を始めているようだ。
ハンディでバーコードを読み込んで、冊数の確認。そして現在庫との照らし合わせ。
ジャンルごとにそれを行って、データと現在庫の確認を行う。
盗られたかどうかの確認も大変で、たかが本一冊でも損失は莫大なものになるのだと、どうか理解していただきたいものだ。
「俺がやるはずだったのに、すみません」
「いえいえ。俺の担当だけ済ませておこうと思っただけだよ。悪いけど一縷くんのぶんまでは手が回らないので、よろしくお願いします」
「了解。っつかもうほんとそろそろ終わりにしたいっすね」
「そうだね。でもこうやって確認してれば、何時頃にやられたかわかると思うよ」
「はい」
狭い店内、時間を決めて確認をとっていけば、大体の犯行時間は予測できるだろうと店長は言う。複数犯でなければひとりの行動できる時間など限られているだろうから、そこさえわかればもう少し手段も増えてくるのだ。
「とりあえずしばらくは注意しようね」
もしもだめだったら、プロに頼む事も考えるからと店長は言って、作業に戻る。
疲れた顔で笑った店長のそれを痛ましく思いながら、荷物を置いていきますと一縷は部屋に戻り、すぐにまた仕事のために店に戻ってくる。
その後は店長の棚卸を引き継いで作業を始め、ただひたすらバーコードを読み込んでは確認という作業を繰り返した。
そして日が沈み、帰宅ラッシュの時間がやってきた時の事だ。
「……?」
帰宅ラッシュの客の中、ふと目についた少女に一縷は違和感を覚え首をかしげた。
ぎゅっと拳を握り締めて、何かを決意したような表情。
それはこの店に来るある種の客と同じようで、まるで違っているようにも見えた。
(……いつものか、それとも……?)
縁結び本屋さんなどと言うあだ名をつけられるだけあって、縁結び目的でこの店にやってくる客も多い。
そんな子たちはたいてい少し挙動不審で、お目当ての人を見つけた瞬間にぱっと顔を赤らめて、うつむいたり唇を噛んだり手を握ったり開いたりとかわいらしいものなのだが。
ふっと少女に感じたもの。その違和感に一縷が戸惑っていると、その違和感を裏付けるかのように声がした。
「一縷くん」
名を呼ばれ振り返れば、店長が小さく頷いた。
怪しいよと言う表情をほんの一瞬だけ見せた後、店長はさりげなく少女の後を追うようにして店内を移動していく。
一縷も仕事をするフリで、店長とは逆の方向から少女に近づいていき。
(……あ)
やるな。
そう思った瞬間、少女の手は、握り締めていたコミックをさりげなく制服の内側に忍ばせる瞬間を一縷は目撃した。
(あちゃあ……)
まじかよ、と思いながら、一縷は苦虫を噛み潰したような複雑な表情になった。
いっそ早く捕まれとは思ってしまったけれど、まさか本当に来るとは思っていなかったから驚いた。
普通を装って、だがそそくさと店を出ようとする少女が、本当に店の外に出るのを待ちながら一縷は声をかける準備をする。
店内で声をかけるのでは万引きは成り立たない。
店の外に出た時点で窃盗が成立して、声をかけ捕まえる事ができるのだ。だから少女が一歩外に出た瞬間に、一縷はその肩を押さえながら声をかけた。
「ごめんね、ちょっと来てもらっていいかな?」
テレビでよく見る万引きの特集そのまんまだなと、苦笑せざるを得なかった。
びくりと震えて振り返った少女の顔は蒼白で、まるでこちらが悪いことをしているかのように思えてくる。
それでもここで退くわけにはいかないのだと、笑顔を浮かべながら少女を店の奥に行くよう促し、中へ連れ戻す。
「ひとりで平気? 何かあったら内線で呼んでいいから」
「はい」
一縷のすぐ後ろに居た店長は、秋坂にちょっとだけよろしくねと笑って、店の奥、居住スペースがある方のドアを開けて一縷と少女を手まねいた。
少女を先に歩かせ、後ろからゆっくりとついて歩く一縷の耳に、小さな嗚咽が聞こえてくる。
だったらやらなければいいのにと思うしかできない。
いくら泣いたところで少女が悪い事には変わりないのだから、一縷の中には同情よりも疲労と呆れが溜まっていく一方だった。
* * *
お会計してないよね、と店長に問われると、あっさり少女は盗った商品を出してきた。
テーブルの上に出された本はコミック一冊。
420円ぐらい小遣いでやりくりできる金額だろうに、どうしてこんな事すんだろうなと、一縷の目は遠くなる。
「名前は?」
「……」
しくしくと泣いている少女は、店長の問いかけに答えようとしない。
だんまりを決め込む少女を眺めながら、一縷は目を細めて店長の言葉を待った。
(……お嬢様学校か)
制服を見て、それがこの付近ではわりと金持ちが通うとされている学校のものだと気がついて、一縷はなんだか泣きたくなった。
お嬢様学校の、オカネモチな生徒が万引き。
生活がどうのとかではなく、遊び半分で行ったと言うのならこっちはたまったもんじゃない。
その後も店長が名前を聞きだそうとしたり色々したのだが、少女はだんまりを続けたまま何も言わなかった。
十分ほどしてさすがの店長も諦めて結局警察を呼んだが、少女が何も言わないのはそれでも変わらずで、そのまま警察署に向かう事となり、責任者である店長も同行する事になってしまった。
「しばらく戻れないと思うから、ごめんね」
「大丈夫です。店長も、無理しないで」
疲れた表情で行ってくると告げた店長に向かって、こちらは大丈夫だからとできるだけ安心させるように告げて一縷はうなずいた。
結局一縷の前での少女は一言も話すことはなく、泣いているだけだった。
よくもまあそんなに長い間泣き続けられるものだと思いながら、その背中を見送った一縷は深々とため息を吐き出す。
「……あんな女子高生がやるんですね」
いつも笑顔でいる秋坂も、さすがに強張った表情をしながらそんな事を言った。
まずは交番につれていかれて、その後警察署に連れて行かれるのだそうだ。その後の事はよくわからないが、結構な時間戻ってこられないらしいと店長は言っていた。
「恐ろしい世の中になったもんだ。……迷惑千万だよ。ったく」
「……先輩?」
きょとんとした顔で秋坂に首をかしげられて、一縷はなに、と問いかけた。すると秋坂は、ちょっとびっくりしましたと答える。
「なんか、迷惑とか、そう言う事言う先輩初めて見たんで」
「……ん?」
「仕事の時の先輩って、にこにこしてるじゃないですか。だからちょっとびっくりしました」
「……ああ」
秋坂に言われて、そう言えば仕事ではこんな不機嫌顔を見せた事はなかったなと気がついた。
客に対しては常に笑顔を心がけていたし、これほどまでに気分を害されるというそれ事態が珍しい。
「……うんまあ、今回はさすがにね」
「俺も色々思うところありますけど、なんか、やるせない感じします」
「やるせない?」
どう言う意味だと問えば、秋坂は小さく苦笑して答えた。
「いいトコのお嬢さんみたいじゃないですか。お金は多分あるんだろうし、それなのにああ言う事しちゃうのって、なんか悲しくないですか?」
顔だってかわいかったし、恵まれているように見えた。それなのにあんな事をして人生を棒に振って何が楽しいのだろうと秋坂は言う。
「なんか、ああ言う子が出るような世の中になっちゃったのかなって、なんかちょっと複雑です」
やだな、と呟いた秋坂はそのまま仕事に戻る。
その横顔を見ながら、一縷は思った。
(……俺ってヤな奴)
秋坂の方がよっぽど人ができている。
「秋坂くん、いい子だね」
「……なんですかそれ?」
「ん? 俺なんかよりよっぽど人間できてるなあとね。尊敬します」
「先輩にそれ言われると嫌味に聞こえます」
「なーんで」
「自分の胸にきいてくださーい」
さて仕事仕事と笑いながら、秋坂はリスト片手に雑誌の抜きを始めてしまう。
もう聞く耳持たずと言う態度に苦笑しながら、一縷も仕事に戻り、ほんの少しだけ、今も彼女と向かい合っているだろう店長を思った。
(大丈夫かな……)
ただ一言、それだけを思って外を見る。
過ぎた事だと、笑いながら帰ってくるといいのだが。
* * *
店長が戻ってきたのは、閉店間際の時間だった。
事件が発生したのが遅かったせいもあるのと、やはり警察に行っても、少女がだんまりを通したからだったようだ。
「ただいま」
穏やかに戻ってきた店長を見て、まずほっとした息が出た。
それからおかえりなさいと告げて、清算の手を止めて店長を迎える。
「ごめんね遅くなって。秋坂くんは?」
「珍しく仕事片付いたらしいんで、勝手に上げちゃいました」
勤務予定の時間内に仕事が終わる事は滅多にないと言っていいのだが、今日はなんとかキリのいい所までこぎつけたと秋坂は笑っていた。
ここのところずっと残業ばかりの秋坂は明らかに働きすぎで、時間調整の意味も含めて早上がりさせたと言えば、店長はそれでいいよとうなずく。
「うん、ありがとう。ごめんね」
「こっちはいつも通りでした。店長は、大丈夫ですか?」
「ああ……うん、ちょっと疲れた、かな……」
気落ちした様子の店長に、一縷は首をかしげる。
ただの万引きの対応でこれほど疲弊するとは思えず、何かあったのかと思っていれば、小さく微笑んだ店長が力なく言った。
「あの子、いじめられてたんだって」
小さな声で呟かれた言葉には、「え」と返すしかできなかった。
穏やかな声で告げられた事実は、彼女が学校でいじめに遭い、そのいじめの一環で万引きをさせられていた事。もしバレても絶対に口を割るなと言われていたらしいこと。これからどうなるかを想像するだけで怖いと少女は泣いていたのだと言う事。
それらを教えられた一縷の眉はぎゅっと寄って間に皺を作る。
「それを聞いたら……なんだかね……」
疲れたよ、と店長は言った。
こちらの被害も甚大で、だからなのか店長は同情の言葉を告げる事はなかったけれど、大きく息を吐き出して本棚の端によりかかる。
ふうと吐き出された息は本当に疲れているようで、一縷はなんとも言えない気分を味わった。
「……その子結局どうなったんですか?」
「んん、うん。結局警察の人が持ち物検査して親御さん呼んだよ。その後はまあ色々聞いてね。解決すれば、いいんだけど」
こっちの手続きはもう終わったから、その後については何もわからないと店長は力なく首を振った。
そんな店長の様子を見ながら、一縷の頭の中には秋坂の言葉がよみがえる。
―――なんか、やるせない感じします。
多分店長も同じような気分を味わっているのだろう。けれど一縷は違っていた。
「……俺は、許せそうにはないです」
「え……?」
ぽつりと呟いた言葉に、店長が疲れた顔のまま一縷を見る。
どう言う意味だと問いかけてくる店長をまっすぐ見たまま、一縷は思ったことを口にした。
「いじめの被害者だろうがなんだろうが、やってることは窃盗で犯罪じゃないですか。そこに同情の余地はありません。ましてや彼女は店長にも俺にも迷惑をかけた。怒りこそすれ、かわいそうだなんて思う事は俺の中ではあり得ません」
いつもの一縷だったら、その中にほんの少しの同情があったかもしれない。
だが今回ばかりは許す事ができなかった。
目の前に居るこの人に、こんな顔をさせて。
(……被害者だから何でもしていいってか?)
そんな理屈が通るものかと一縷は思う。
「……一縷、くん?」
「店長にも秋坂くんにも嫌な想いさせて、そんな人間の事を可哀想だなんて思えるほど俺聖人君主じゃないです」
そんなできた人間ではないし、そんな人間になりたくないとも一縷は思う。
大切なものを傷つけられて怒らない人間なんて、嫌だ。
そう思っての言葉を目を瞠りながら聞いた店長は、その後ほっとしたように小さく微笑んで言う。
「手、開いてくれるかな? 両手」
「……え? ああ、はい」
突然の言葉にわけもわからないまま一縷は手を差し出す。
その上に、店長はきつく握り締めて血の気がなく真っ白になった手――多分ずっと握りしめていたんだろう――を置いた。
そっと開いたその瞬間に血の気を帯びて赤くなった手にほっとしながら、なんだろうと一縷は思う。
「手、握って。ぎゅっと」
「……こう?」
「そう。そのまま持ってて」
「……え?」
何を、と問おうとする前に、店長はふいと背中を向けて、カウンターへと手を伸ばす。そこからハサミを取った店長は、その先端を一縷の握った手と手の間に入れて、ちょきんと、何かを切るような動作をする。
「……あれ?」
その瞬間、何かぷつんと糸が切れたような感覚があって、その後本当に糸が切れたかのように力を入れて握っていた手が離れた。
なんだこれはと思っているうちに、もういいよと言う店長の声が聞こえ、拳を開く。開いた手のひらにはもちろん、何もなかった。
「……店長?」
なんですか今の。そう問いかけるより早く、店長の白い手が一縷の手を握り締める。顔はうつむけたまま、何かをこらえるように震えているのがわかって、一縷は言い知れない不安を抱く。
そんな一縷に、店長は小さな声でつぶやいた。
「ごめんね」
「……え?」
「本当はこんな事、したくないんだけど。俺だけじゃ、だめだから」
「何が……?」
「信じなくて……いや、信じてくれない方がいいのかもしれないけど。もうあの子、ここにはこないから。絶対」
「え?」
うつむいたまま、顔を上げようとしない店長は必死に何かをこらえているようだった。
震える手と声が痛ましく、だが何が起こったのか全くわからない一縷にはかける言葉がない。
握られていない方の手が自然と動いて、店長の肩へと向かうが、その途中でためらったように止まってしまう。それをしていいのか、そんなためらいが一縷の中にはあった。
どうしたらいいだろうと、途中で止まった手をそのままに葛藤していると、店長がまた小さなかすれた声で言う。
「……一縷くんは、いつも何も聞かないね」
「いつも……?」
「うん、いつも。今の事も、きみは俺が何をしたんだとか、そう言う事きかないね?」
てっきり泣いているかと思っていたのに、顔を上げた店長の表情には穏やかな笑みがあった。それでもその笑みは幸せだとか、そういったプラスの感情からきていない事ぐらいは理解できる。
ぎゅっと握ったまま、店長は一縷の手を離そうとしない。その手が小さく震えたままなのは、きっと気のせいではないだろう。
「店長は、聞いてほしいですか?」
「……どうだろう? 聞いて欲しいと思う時もあるし、思わない時もある」
「今は?」
「よくわからないね。でも多分、聞いたら一縷くんはきっと困るだろうし、迷惑だと思うよ」
静かな声で告げた言葉に、何か違和感があった。
どうして、と反射で思った後には、するりと口から言葉がこぼれる。
「なんで、そんな決め付けるんすか」
告げてからぎり、と歯軋りをした。
何か嫌なものがこみ上げてくるのを感じながら、一縷はなんとかそれを抑えようと拳を握って、しかし次の言葉にその努力は砕け散るようだった。
「……そうだなあ、俺が、いきなり言われたらきっと困るし、迷惑だからかな」
にこ、と力なく笑った店長。その声は小さくて力がない。
どうして、とまた思う。
「そんなの、店長と俺とは、違うと、思うん、ですけど」
なんだろう、この変な感じは。そう思いながら一縷は一言一言、考えながら告げていた。
店長は何かを諦めてしまっているように見えた。話しても無駄なのだと、そんな風に考えているように見える。
そんなこと聞いてみなければ判断できないだろうに。それなのに。
「……俺、店長のそう言うところ、あんまり好きじゃないです」
ぐっと握った拳は白くなっていた。そんな事にも気づけないまま一縷は静かに、言葉に篭る感情を押し殺すようにして告げ、そして返ってきたのは静かな声だ。
「うん。ごめんね?」
小さく笑っている店長の表情を見ていられない。
目を閉じながら、軽く首を振って、一縷は言った。
「それでそうやってあやまるのも、嫌です」
「うん。でも、ごめんね……」
静かに俯く店長は、一体何を考えているのだろう。
腸が煮えくりかえるとまではいかないけれど、何かがこみ上げてくるような不快感に耐え切れず―――けれど、それ以上に嫌なものが一縷にはあった。
「――……でも何もできない俺が一番、嫌いです」
「……」
ぐっと拳を握り締めた一縷はそれ以上は何も言わず、中途半端に放置していた清算作業に戻る。
売り上げを袋につめて金庫にしまって鍵をしめて、清算表に記入して終了。手際よくそれを終わらせた一縷は、呆けたように立っている店長の前をすり抜けて、放置してあった仕事を片付けにかかる。ほんの五分ぐらいで終了して戻れば店長はまだ固まったように立ったままで、けれど一縷が小さく息を吐き出せばびくりとおびえたように反応した。
「……夕飯、休憩中に作っておいたんで食いませんか。疲れたでしょう?」
「一縷くん……?」
言うだけ言って、背を向けた一縷におびえたような声が届いて、振り向かないまま来ないんですかと告げれば、小走りに追いかけてくる。
一言も話さないままたどり着いたテーブルには、ラップにつつまれ食べられるのを待っていた夕食たちの姿がある。
温かいご飯を茶碗に持って、向かいの店長に差し出せばありがとうと言うけれど、店長の顔はこわばったままで、それでも一縷は何も言えなかった。
(……なんで)
なんで怒ってんだろ。そんな事を一縷は思う。
店長相手に怒っているのか、それともあの万引き少女に怒っているのか、よくわからなかった。そもそもこれが怒っている状態なのかどうかもよくわからない。
ただ、ひとつだけ。
(なんで諦めるかな、店長)
自分に対して、何かを言う以前に諦めてしまっているような態度の店長を見ているのが、とても嫌だとだけは言える。
少なくとも自分は、何かを言われて困らない自信はないけれど、迷惑だと思わない自信はあるのに。
目の前で黙々と、少しずつではあるが夕食を食べている店長は、うつむいたままだ。
自分が怒っている事に気がついて、店長が何も言えなくなっているのはわかるけれど、何を言ったら八つ当たりにならなくて済むのか一縷にはわからなかった。
(……なんか、俺って信用ないのかな)
そんな事を考えながら、一縷も黙々と食事を口に運んでいく。
いつもはおいしいと思えるはずなのに、今日は全然味がわからない。
諦められるのが悲しいと思うよりも、今考えたように『信用されていない』のかもしれないと言うそれが、一番ショックだったのだとふと気がついた。
ずっと昔から、それこそ一縷がまだ客だった時代から数年の付き合いで、それなりに気心が知れていると思っていた。
ここ最近はおしかけにしても同居をしていて、少しずつ店長に近づけていたかと思っていたのだけれど、そう思っていたのは自分だけだったのだろうか。
そんな風にずどんと地の底まで沈みかけた時だ。
「……おいしい」
「!」
聞こえるか聞こえないかの境目のような小さな控えめな声が聞こえてきて、一縷は目を見張る。
ふと店長の手元を見れば、皿いっぱいにあったおかずの半分が消えていて、本心から言っているのだとわかった。
(あ……味わかる)
その瞬間から味がわかるようになって、今日のはちょっとしょうゆが多すぎたなと他愛ない事を考える。そんな一縷の口元には笑みが浮いていて、自然と言葉は沸いて出た。
「店長」
「……うん?」
「俺、店長が何も聞いてほしくないなら聞かないし、聞いてほしいなら聞きます。でも、何も言わずに俺に迷惑だとか、そう言う事言わないで下さい」
「……一縷、くん?」
「言えない事情があるならそれでいいです。でも、俺にとって何が迷惑だとかそう言う事は、店長が判断する事じゃなくて俺自身が判断する事だから。だから、俺がどうとかそう言う心配するのはやめてください」
そんな事で悩んで『一縷くんのためだから』とか、そんな理由をつけて何も言われないのが一番嫌だ。だからそれはやめてくれと一縷は頭を下げる。
「……一縷くん」
「俺、なんでもかんでも許せるほど器でかくないけど、それでもある程度の事は聞けるし、我慢もできます。ましてや店長のことなら、尚更。だからそう言う心配、しないで下さい。諦めたり、しないで下さい」
早口でそれを言い切って残った飯をかきこむと、噛むのもそこそこに飲み込んで一縷は立ち上がる。
食器を台所のシンクに突っ込んで、テーブルについたままの店長に、一縷は続ける。
「片付け、明日やりますから食器そこに入れておいてください。俺今日はもう寝ます。おやすみなさい」
「……あ、え……ああ、おやすみ、なさい」
好き放題言った後は店長の顔を見る事ができなかった。
一縷のこの行動こそが迷惑だと思われて、もしかしたら最悪クビになるかもしれないし、そうでなくても多分関係はぎこちないものになってしまうだろう。
それでも言わずにはいられなくて、一縷はまるで逃げるように部屋に戻っていった。
もう泣きたい。そんな事も考えながら飛び込んだ部屋で、頭を抱えてうずくまる。助けてくれと叫びたくてたまらず、だがそれもできずに、体育座りの状態で膝の間に顔をうずめておかしな唸り声を上げた。
「ああああああああ……」
考えてみればこれが始めての文句だ。
仕事の面では小言やら文句やらあれこれ言いまくってきたけれど、店長の人間性だとか、そういったものに何かを言うのはこれが始めてで、後から後から後悔が押し寄せてくる。
「ばかばか俺のばかやろう……!」
あんな事言って、店長絶対引いた。そんでもって明日顔を合わせる自信がない。どうしよう。
誰か俺と代わって―――いややっぱりやだから代わらないでくれ。
大体なんだってこんなことになったんだ。あああの万引き犯のせいか。
(……ちくしょ、ほんとに大迷惑だ。何してくれたんだこんちくしょう)
頭を抱えながらしばらく部屋の中で転げまわり、そのあとぴたりととまったあとにいきなりがばっと起き上がる。
どこを見るでもなくぼうっとした後再び頭を抱え、そして一縷が出した結論は。
「よし、寝よう」
だった。
「こんな時は悩んだってしょうがないんだ。寝よう」
呟いた後、ばさばさと服を脱ぎ着替えて布団に入る。
ぼすっと音を立てて体を放り投げるようにしてベッドの中に倒れこんで、手探りで電気を消して布団をかぶり、どうでもいいから早く寝ようと言い聞かせて一縷は目を閉じた。
寝られないかと思いきや、以外にあっさりと瞼は落ちてくる。
自分が考えていた以上に疲れていたらしく、布団のぬくもりを感じればすぐに意識はぼやけはじめた。
(……おれじゃ、たよりないかなあ……?)
そりゃそうだよな、なんて思ったのが最後。一縷の意識は眠りの海に攫われてしまう。
もうちょっと頼りがいのある『大人』になれないものだろうか。
そうだったらきっと、こんな事になりはしなかっただろうに。
自分の青さを歯がゆく思いながら眠りについた夜は更けていく。
そしてその日、不思議な夢を見た。
* * *
ぽつんとひとり、一縷は店の中に立っていた。
淡いカンテラの光に照らし出される店内はオレンジ色をしていて、いつも居るはずの店なのに、どこか別の場所のような気がする。
周りを見ても、そこは少し前まで仕事をしていた店の中だ。内装も、入っている商品も変わりがない。
ひとつ違う事は、照明がすべてカンテラに変わっている事だ。
オレンジの温かな光が店内を照らし出していて、何かアンティークのような空気をかもし出している。
『……なんだ?』
ぽつりと呟いた声が店の中に反響していく。もちろん本当の店の中だったらそんな事はないから、これは夢なのだと気がついた。
だからなのか、店の中には一切の音がなく、恐ろしいほどに静かだ。
そしてその店の中に、よく知っている人の姿を見つけた。
『あ、店長……』
店の中に店長が居る事は当たり前だったから、夢の中に店長が出てくる事にも疑問は持たなかった。
いつもの日常を夢に見ているだけなのだろうと思いながら、一縷は慣れた店内を歩いてカウンターに向かう。
店長の綺麗な銀髪は、カンテラの明かりに照らされて金髪のように色をつけていた。さらりと落ちる髪を、夢の中でもきれいだなと一縷は思う。
なぜか歩いても足音はしなくて、そのせいなのか店長は一縷に全く気づかない。その事を少し残念に思いながらその前まで近づいた一縷がその肩に手を置こうとした瞬間だ。
「……嫌われてしまったかなあ……?」
ぽつりと呟く声が聞こえて、店長の肩を叩こうとしていた一縷の手は途中で止まってしまった。
『店長……?』
思わず口をついて出てしまった声に、しまったと思うが店長は反応を返してこない。それどころか全く聞こえていない様子でため息をついている。
「……でもこれがいいのかも、しれないな」
ぽつりと呟いたその声は、一縷が怒る原因となった店長の声と同じものだった。諦めを多分に含んだ声。
なんでそんな風に諦めてしまうんだと、また怒りに似たものが募っていく。
『て……』
「ごめんね、一縷くん。きみがすごく、大事なんだ……だから言えないよ……」
店長、と呼びかけようとした声にかぶさるようにして店長の声が聞こえ、息が止まるかと思った。
店長の頬には光るものが伝っていて、それは顎を伝って手に落ちていく。
ぽたりと落ちるそれを見て息が詰まった。
その瞬間に、自分の事しか考えていなかったのだと思い知って後悔に襲われる。
何も教えてもらえないから駄々を捏ねる子供みたいだ。店長の気持ちも知らずに、簡単に諦めるなと勝手に腹を立てて、店長の葛藤も知らないで我侭を言って。
(……ばかみたいだ)
簡単になどという事ではなかったのだろう。
店長には店長の事情があって、簡単に、なんてそんな問題ではなかっただろうに。
『店長、ごめんなさい……』
小さく呟いたその言葉に反応してなのか、店長が振り返った。
そして艶やかに微笑んで言う。
「ああやっぱりここに呼んだのは、きみか」
うれしそうに笑ったその笑顔にこそ、本当に息が止まった。
息を吸い込んでそのまま吐き出せなくなる。そして―――。
―――出て行け。
何もわからないまま、一縷はばちんと弾き飛ばされるような衝撃を味わい、思わず目を閉じて、そしてまた開くと。
「……あぇ?」
そこは間違いなく自分の部屋で、視界には天井が映った。
全身びっしょりと汗をかいていて冷たく、ひどく息があがっていて、何が起きたんだと一縷は跳ね起きる。
外を見ればちゅんちゅんと鳥の鳴き声が聞こえてきて、時計の針は午前6時。
ついでに思いっきり涎をたらして寝ていたらしく、顎のあたりがびしょびしょになっていた。
「うげ……」
気持ち悪、と小さく感想を漏らしながら立ち上がって、着替えを手にしつつ洗面所に向かう。歯と顔を洗ったあと着替えて、いつもの日課である朝食作りに向かおうと台所に足を進めて、いつもと違う光景に一縷は首をかしげた。
「あれ……?」
台所に人影。しかもガスコンロの前で何かやっていて、ぐつぐつと音がする。いい匂いもしていて、思わず一縷は目を擦ってしまった。
「……て、店長?」
思わず呟いてしまったのは、そこに居たのが店長で、しかも料理をしていたせいだ。
一縷はこの家に着てから店長が料理をしている姿など一度も見た事がないし、彼が料理をするというそれすら想像した事がなかった。
だから目を丸くして驚いていれば、振り返った店長が笑う。
「おはよう、一縷くん」
長い髪を括っておたま片手にそんな事を言う。
握られたおたまがやけに似合うような似合わないような。
とても変な味の食べ物を口にした時のような表情をしながら、一縷は台所に足を踏み入れ、言った。
「おはようございます。っていうか、どうしたんですか店長」
一体何があったんだと首をかしげていれば、たまにはねと店長は笑う。
「あんまり料理したことないから、おいしくないかもしれないけどね」
作ってみましたと笑った店長が示したテーブルの上には、朝食が用意されていた。
数日分用意されている一縷が作った浅漬けに、焼き豆腐に卵焼き。
用意されているのはひとりぶんだけで、一体どうしたのか首をかしげていると、店長はお椀に味噌汁をよそってテーブルに置いて、その向かい側に座る。
「……店長? あの……?」
一体どうしてと問おうとしたが、その前ににこりと微笑んだ店長の表情に言葉がとまってしまう。その笑顔が夢の中でみたものとそっくりだったからだ。
思わずごくりと喉を鳴らして言葉に詰まった一縷に、店長は言う。
「一縷くんにはとても感謝してるのに、俺は何もしていなかったなと思って」
「……それは、俺が言う台詞です」
「そうかな?」
「です。いきなり転がり込んで、食事作るぐらいしかできないし」
店長家賃受け取ってくれないし、という言葉は飲み込んだ。それを言うとまた昨夜のようになってしまう気がしたのだ。
言ってしまえばまた爆発するような気がして、何も言えなくなる。そんな一縷に、店長は優しく微笑みながら言った。
「一縷くんが居るだけで、俺はとても救われているんだよ」
「え……?」
「きみが居るだけで、俺はここに居るんだなあって思えるんだ。だから、とても感謝してるんだ」
「どういう……?」
よくわからないと首をかしげるが、それについての答えはなかった。代わりにと言うように、店長は頭を下げた。それに一縷があわてるより早く、店長は言う。
「ごめんね、きみに言えない事が俺には沢山ある。それでもまだ、ここに居てほしいんだ。こんな俺でもまだ許してくれるなら、ここに居て下さい」
お願いします、と頭を下げた店長に、そんなのと一縷は首を左右に振った。
胸が締め付けられたように苦しかった。
こんな風に店長に頭を下げさせたい訳ではなかったのだ。
ただ何も言わない店長に焦って、自分の存在は何の意味もないのかといらぬ不安を抱いただけのことだった。だから悪いのは自分で、決して店長ではないのに。
「……店長」
息が詰まる。けれど店長に何も言わずにいることもできずに、一縷はあえぐように目の前の人を呼んだ。そう言えば店長と呼ぶ以外にしたことはないのだけれど、いつか名前で呼ぶ事を許してくれるだろうか。
「俺、その逆だと思ってました」
「え……?」
「だって普通そうじゃないですか? 雇い主に楯突いて、機嫌損ねてクビになるなんて話、珍しくもないじゃないですか」
だから、何かあるなら絶対にそっちの方だと思ったと一縷は言った。
だがそれを思いついたのはたった今で、そう言えばやめるやめないの話は全く考えていなかったなあと思う。
明日からどうやって店長の顔を見ようだとかそんな事ばかりで、クビになるだとか、出て行こうだとか、そんな事は全く考えていなかった。
「そんな事、しないよ」
必死の様子で首を左右に振って答えた店長に、ひどく穏やかな気持ちで笑いながら一縷は続けた。
「……俺の方こそ、すみませんでした」
「え?」
「店長にも色々理由があるのに、なんかつっこんだ事言っちゃって。俺ただのバイトなのに」
「あ、いやそれは……」
「これだからデリカシーないとか言われるんだ。あの、もう言ったりしないですから。俺のほうこそ、ほんとにすみません。あと、クビにしないで下さい」
お願いしますと頭を下げたのだが、答えは返ってこなかった。
もしかして怒ったんだろうかと思いながら、そろそろと顔を上げてみれば、ぽかんと口を開けた店長の顔が映る。
そしてなぜかいきなり、店長は笑い出した。
あははは、と声を出しながら腹を抱えて笑った後、笑いすぎて涙の浮いた目を拭いながら店長は一縷に顔を向ける。
「……っはは、なんで俺たち同じことお願いしてるんだろうね?」
「ああ……まあ、確かに」
「ばかみたいだね」
くすくす笑いながら店長はまた俯いた。何度か目を擦っているような様子が見えて、もしかしたら泣いているのかなと思ったのだけれど、何もできなかった。
何をどうしたらいいのかわからずに一縷が困っていると、店長がふっと顔を上げて笑う。
「まあ、とりあえず仲直りという事だね」
「……これって喧嘩、ですか?」
「簡単に言えばそうじゃないかな?」
くすくす笑いながら店長は目尻に浮かんだ涙を拭った。ああやっぱり泣いてたんだと思いながら、でも笑ってくれたからいいかと思う事にした。
「……まあ、そっか」
「お互いごめんなさいもした事だしね。とりあえず、食べてくれないかな?」
もう昨日の事はいいでしょうと笑うから、一縷はまだほかほかと湯気をたてている味噌汁のお椀を手にとって啜ってみる。
いつもの自分の味とは少し違うのが不思議で、だがそれでも骨身に染みる味だった。これが店長の作るものの味かと思えば感動もひとしおで、自分が作ったものの何倍もおいしいような気がした。
だが店長は、唯一味噌汁だけは自分の分も用意して味見して言う。
「……やっぱり一縷くんの作った味噌汁の方が美味しいや」
ごめんねと苦笑した店長にむかって、一縷はぶんぶんと音をたてそうなぐらいにかぶりを振って答えた。口の中に味噌汁を入れたままだったので、それを飲み込んでから言う。
「美味しいです。すっごく」
「……そう? それはよかった」
うれしいなあと笑う店長の顔になんだか後光が差しているような気がする。いや気のせいだけれど。
(……なんだかなあ)
自分が店長を大好きなのだと思い知らされて、苦笑するしかない。
何でもかんでも特別視して、その人が作ったものならなんでも美味しいだとか、きれいに見えるだとか、そんな事はまやかしだとか幻想だとかそんな類のものだろうと思っていたのに、見事に自分がそれにはまっているとは。
(ま、いいか……悪くないし)
ある意味これが初恋という奴なのだろうと一縷は思う。
今までに恋だと思っていた事が、子供のままごとにしか思えないぐらいに、今の一瞬一瞬が強烈でたまらない。
目の前に居る人が本当に好きだ。どうしたらいいんだろう。
「不思議だねえ……」
「え、あ、はい? 何が?」
「おんなじ材料使ってるのに全然味が違うって不思議だなあと思って」
「ああ……ちょっと入れる量が違うだけで違っちゃうから」
「入れるタイミングとかでも違うみたいだね。料理って奥が深い」
すごいねと笑いながら店長は味噌汁を啜った。
しばらくは無言で食事が続き、一縷が全部食べつくしてごちそうさまと両手を合わせると、店長はとてもうれしそうにお粗末さまでしたと答えた。
「おいしかったです」
「よかった」
にこっと笑った店長の顔は本当に幸せそうで、これが見られるならもう文句は言うまいと一縷は決意する。
聞きたいことは山のようにあるけれど、きっとこの人に今それをぶつけても困らせるだけだ。それなら、こうやって笑顔を見られるようにする方を一縷は選ぶ。
あとはもう少し自信をつけて、いつかこの人に自分の気持ちを伝えられればいいと思う。まだ、無理だけれど。
「今日って入荷何がありましたっけ?」
「ん? 目ぼしいものはないかな。大変なのは明日だね」
ひとりで大丈夫だよと店長が言うから、一縷は素直にその言葉に甘える事にする。
「じゃあ今日一限からなんで、お願いしていいですか?」
「はいどうぞ。明日は朝からシフト入ってるよね?」
「はい」
「じゃあ明日はこき使うので、どうぞよろしく」
「こちらこそ」
がんばろうとお互い気合を入れて、食器を片付けた後に一縷は荷物を取りに自室へ戻ろうとする。あっという間に戻ってきた日常が、当たり前のような、ほっとするような。
そんな一縷を、店長が呼び止める。
「一縷くん」
「なんですか?」
「……ありがとう。一縷くんで、よかったよ。昨日のことも、ずっと前からも、これからも」
言われた言葉に一縷は一瞬目を瞠り、その後すぐに笑みを浮かべてうなずきながら答えた。
「はい。俺も、店長が店長でよかった」
じゃあ行ってきますと挨拶して、いってらっしゃいという声を聞いた後に一縷は部屋に戻っていく。
部屋に溜まっていた重苦しい空気は、ドアを開けると同時に霧散して消えて、次に帰って来る時には、きっといつも通りに一縷を迎えてくれるだろう。
いつも通りの用意をして、いつも通り大学に行って、いつも通りの授業を受けて、いつも通りに帰ってきて、いつも通りの仕事をする。
そんな事ができる幸せを味わいながら、一縷は家を出た。
ほんの少し歩いた後振り返って店を見ながら、いってきますと呟いてみる。
今日も一日、いつも通り。
何事もなく平和に一日が過ぎますように。
そして変わらず、店長の笑顔を見る事ができますように。
そんな事を思いながら、一縷は軽い足取りで大学に向かう。
いつかきっと、店長に言おう。そう心に決めながら軽やかに足は進んだ。
END