――――――――――――――― 人心、変化しても変わらず。
来月の空いている日はいつですか。そうお伺いを立てられたのはつい昨日の事だった。
そんなこんなで、スケジュールとにらめっこをしつつ、一縷は溜息を吐いていた。
「……失敗したかな」
そんな事を呟いたのは、一縷がつい先日気がついてしまったからだった。
何にって、店長を好きだと思う自分にだ。
(……俺の気の迷いとかじゃないよな? っつーか俺ってこんな奴だったっけ?)
店長も男だとかそんな事がどうでもよくなるぐらいには、好きだと思う。憧れではなく、恋愛の意味でだ。
そんでもってあの顔を見れば嬉しくなるし、朝飯をおいしいと言われれば舞い上がる。
よく考えてみればそれまでの行動にもその気持ちの片鱗はあって、だからなのか、一縷の頭の中には恐ろしいほどにすんなりと馴染んでしまっていた。
あまりにも馴染みすぎていて、一瞬これが恋と呼べるものなのかどうか不安になる事すらあって、その度にどうなんだと自分に問いかける。だが何度考えても、答えは同じだ。
(テンション高いというか、舞い上がってるというか)
本当に自分はこんなキャラクターだったろうかと一縷は腕を組んで考えてみる。
元々あまりテンションの上がり下がりがなく、どちらかというと物事を冷めた目で見て、平々凡々が一番いいとかなんとか言っているのが普段の自分だったはずなのに、いつの間にか店長の前ではにやけているし、何かひとこと言われるだけで舞い上がり沈没していく自分がいる。
(……初恋に浮かれる子供か俺は)
そんな突っ込みを心の中で入れても状況は変わらない。むしろ現状を一番よく表す言葉かななどと納得しながら、一縷は来月のスケジュールへと視線を移す。
お伺いを立てられたのは、先日の思い出したくもない例のアレで手に入れた温泉旅行ペアチケットがあったからだ。
無自覚でいた当時、じゃあ一緒に連れてって下さいなどと冗談めかして言ったあの言葉を、店長はきちんと守ってくれるらしい。
一縷の日程に合わせて店を休みにするから教えてくれと言われて、現在一縷はスケジュール表とにらめっこしている、という訳だ。
(……あんまり早すぎるとだめだし、こっちは新刊発売日だし)
本屋の予定も考えつつ決めるとなると、日程は本当に限られてくる。それこそ新刊の発売は土日祝日以外は全部あるし、プラス雑誌の集中発売日もある。そのラッシュに当たらないようにしないとと考えていると、それこそ一ヶ月のうちにちゃんと休める日など殆どないに等しくなってくる。
来月の発売予定表ともにらめっこをして決めたのは、来月の中旬の2日間。
決めたはいいがその時の事を考えるとだらだらと冷や汗が流れてくる。
(……温泉、おんせん……オンセン)
そして一泊。
「…………」
たらりと背中を汗が伝っていった気がするのは気のせいではあるまい。
まあつまりが一縷も平々凡々なれど男な訳でありまして。
人畜無害などとサークル仲間には言われていたりもするのだが、そこそこそれなりに欲もある訳でありまして。
「……っだあああああ!」
自覚したばっかりでお泊り旅行などと言われたらそれこそ想像をしない方がおかしいとでも言いますか。
部屋の中で叫んだ一縷は、がしがしと頭を掻いてからぜぇはぁと肩を上下させて息をする。
(俺こんなキャラじゃないって。つかそんな下半身と直結してるような人間じゃねぇよ!)
かつて付き合った女の子相手でもこんな風になった事などない。
そりゃあそれなりに体のオツキアイというものもした事はあるが、最中はまあ置いておいて、普段はそれほど盛っていた訳でもないし、むしろ淡白なほうだったのだ。
「……な、なんだこれは」
いやいや、いきなりそんなお泊りだとか言われて驚いているだけだ。
「って……あれ?」
なんかおかしいぞと一縷が首をひねったのは一瞬。
そもそも毎日『お泊り』な状態である事に気がついて、がったんとイスから転げ落ちた。
「……っ」
なんたる不覚。そんな事にも気付けないとは。
「……明日からどんな顔すりゃいいんだ、畜生」
転げ落ちた体勢のまま両手で顔を覆った。呻いた所で何かが変わるはずもなく、しいんと静まりかえった部屋の静けさが返って気まずい。
「……あほか」
ひとり漫才を繰り広げてどったんばったん物音立てて、そんな現状を考えていると段々頭が冷めてきた。
落ち着いた状態で一呼吸おけば、のぼせていた頭は完全に冷える。
下らないなぁと思ってしまえば浮き上がった気持ちなどもう完全に静まって、一縷は手を離して天井を眺めた。まだ起き上がる気にはなれない。
「いつもどおりで、いいかな」
いつもどおりの関係が楽だし、いつもどおりの店長に惚れたのだから、いつもどおりでいいだろうと思う。
ぼうっと天井を見上げていれば、とんとんと軽くドアがノックされて開く。ひょいっと顔を見せたのは店長だった。
「一縷くん、何か音が聞こえたけど―――……って、大丈夫?」
ひっくりかえった一縷の姿を見て、何をやっているんだと言う顔で店長が首をかしげた。さらさらと肩を流れ落ちる髪がきれいだ。そういえば昔から一縷は店長の髪が好きだった。きれいだなあと何度も思って、触りたいと思った事も何度か。
「あー……大丈夫です。ヤマシイこと考えた天罰ですきっと」
「……やましいって、それはまた素直だね」
くすくすと笑いながら店長は一縷の部屋に足を踏み入れ、ひっくりかえったままの一縷に手を差し出してくる。その手を取って起こしてもらいながら、あははと一縷は笑った。
「どうも」
助けてもらった事に礼を言いながら椅子を直す。
その間、机に広がっていたスケジュールと発売表を眺めて、決まった? と問いかけてきた。
「あー、ええとですねー」
スケジュール帳を手に取り、一縷は来月中旬の土日を指し示す。
「ここか、こっちのあたりがそんなにでかい物の発売もないんでいいんじゃないかと思います。その前は芥川と直木があるじゃないですか文藝春秋とオール讀物。その次になると女性誌がばっかばっか出てくるし」
「ああそっか、来月もう8月か」
「そっかとか言わないで下さい。気ぃ抜けるなあ」
「ごめんごめん。なんか最近日付感覚なくて」
「さすがに俺でも覚えてるんで芥川と直木は忘れないで。頼むから」
がっくり肩を落として言えば、ごめんなさいと店長は笑う。
まあこんな店長なのはいつもの事だからもう慣れたと言えば慣れたのだけれども。
「あ、で話戻しますけど、俺の授業の事もあるんで、来月だったらこっちの方がいいかなあと。どうですか?」
「うん。じゃあそれで臨時休業とってシフト組みます。何かあったらまた相談するから」
「はい」
「それじゃあ明日もまたお仕事よろしくお願いします」
「こちらこそ」
ぺこりと頭を下げあって、おやすみなさいと挨拶する。
気がつけば時計の針はもう日付の変わる時刻を指していて、そろそろ自分も寝ないと思った瞬間に欠伸が出た。
「なんか疲れたな」
悩まなくていいことを悩んだおかげでどっと疲れがでてきた。
ふあーと伸びをしながら欠伸をすれば瞼はすぐに落ちてきて、ベッドの上に飛び込めばすぐに開かなくなる。
「……あー……朝飯、どうしよ」
意識がなくなる直前に一縷が考えたのは、いつもとなんら変わる事のないそんな事だった。
どろりと溶け落ちる意識の中何かを見たような気がしなくもなかったが、そんな事を考える余裕もなく一縷は眠りに落ちていった。
明日もいつも通り、食事をして笑って仕事して学校行って、そんないつも通りの生活が待っている。
眠る一縷の口元には笑みが浮かび、ささやかな幸せを味わい噛み締めていた。
END