――――――――――――――― 本人だけが。





 飴沼一縷は更衣室の中で色々な事と格闘していた。
 数週間前に約束した女装コンテストへの参加。今日はその当日である。
 そして更衣室に連れ込まれた一縷は、その手にあるものをものすごい形相で見つめ、溜息をつく。
 手にしているのは黒と白の生地で作られた、長いスカートのワンピース。いわゆるメイド服なデザインのそれは、一応一縷の性別を考慮してか、大幅に足を隠してくれるデザインになっていた。
 隠してくれるのはいいが、これはこれで踏んでしまいそうで心配なのだが、まあそこはがんばるしかないのか。
 足元には黒く高いヒールのパンプス。先が尖っているのは足先を絞め殺されてしまいそうだと恐怖して必死に首を振り、丸いものに変えてもらえたのだが、高いヒールだけはやめてもらえなかった。
 なんでと問えば、その方が綺麗に見えるからと、これを用意した、そして全ての原因である氷川茜は答えて、絶対に変えないからと宣言されてしまって、一縷は肩を落とす。
 そもそも、なんで自分がこんな事になったのか未だに納得がいかない部分がある。
 やると宣言してしまった以上はやるけれど、元々自分に非はなかったのに。
「……終わったら焼肉おごらせてやる」
 畜生と呟いた一縷は、再度手にあるメイド服を見下ろして
「……もう知るかっ」
 ここまで来てしまった以上はどうにもならないからと覚悟を決めて、今着ている服を脱ぎ始めた。





 *   *   *





 ところで一縷にはその姿を絶対に見られたくない人が居た。
 もうしっかり家で試着していた姿を見られているのだから、もう見られても同じような気がしなくもないが、二度と見られるのはごめんだと思う相手が居るのだ。
 そしてその相手が、見事に会場に姿を見せている事を一縷は知らない。
「……おじゃましまーす」
 ぽつりと呟いた店長は、帽子の中に髪を隠してサングラスをかけ、いつもとは違うファッションで変装して客席の中に紛れ込む。
「見つからなければいいよね」
 きょろきょろと辺りを見回した店長は、悪戯をする子供のように笑って言い訳をする。
 きっと一縷に見つかったら怒られるから、ここに来た事は絶対の秘密だと心に決めながら、まだかまだかと一縷の姿を探して視線をうろつかせた。視線をうろうろさせながら
(女の子の一縷くんもいいかもしれないなぁ)
 などと頭の中で考えてしまったのは、先日目撃してしまった女装姿の一縷を思い出したからだ。
 あの時の一縷は奈落の底に落ちたかのような表情をしていたけれど、似合うよと笑ったあの時の気持ちは嘘ではない。だってかわいかったのだ。女の子だよと言われても納得してしまいそうなぐらいに。
(うん、一縷くんならなんでもいいか)
 結局のところ、性別は彼にとって何の問題でもないのだ。
 飴沼一縷という人がいいと思うだけであって、彼でも彼女でも一縷であるならなんでもいい。本当に。
(……変かな?)
 よく変だ変だと言われるけれど、どうして変だと思われるのかはよくわからなかった。散々言われ続けたから自分が変だという自覚はあるけれど。
 そんな事を考えながら店長は自分の足元を見る。
 そこに見えるのは、きっと他の人には見えないものだ。
 できれば自然に繋がってほしい、縁という名の糸。
(……時間はたくさんあるからね)
 いくらでも待つよと店長は笑い、今はまだ誰もいない舞台を見る。
 早く出てこないかなぁと考える自分は、やっぱり他の人とどこか頭の感覚がずれているのかなあとぼんやり思う。
 ついていけないと言われた事もあるし、そのせいで遠巻きにされていた事もあった。
(でも一縷くんが普通だから……)
 時々自分も『普通』なんじゃないかと思ってしまう事がある。
 相当におかしいのだと言う自覚はあるのだけれど、一縷の前に居るとあまりに自然すぎて、自分はおかしくなんてないんじゃないかと思ってしまう。
(……気付いてくれないかな)
 一縷の前だと笑顔になってしまう自分の事に、気がついてくれないかなと思う。
 考えるだけで自分を幸せにしてくれる彼が、自分の事で幸せになってくれないかと、思うのだ。





 *   *   *





 うわぁ。と言うのが一縷の最初の感想だった。
 裏方にある広い一室に本日参加する全員が集められて最後の説明が行われているのだが、準備を終えた男子どもが一同に会するこの場所は、なんとも言えない空気に満ちている。
(……気持ち悪ぃな)
 それは自分も含めての感想だ。
 熱気むんむんの部屋の中にいる女装男ども。これ以上ないぐらいに気持ちが悪い。
 いや、そこそこ顔に自信のある連中がでてきているのだから、見た目女の子に見える奴もいなくはないのだが、それでも男は男だ。
(……なんかこう、違うんだよな)
 別に男が女の格好をするのをとやかく言う気はないが、できれば自分の前には出てきてもらいたくないと思う。
 女の子の服は、女の子のためにデザインされて、女の子のラインに沿ってできているものだからして、男が着るとどうしても不恰好に見えて仕方がない。
(……ラインが、こう)
 と思ったところで、自分はこんなラインフェチだったのかと唖然となる。
(いやいやいや、女の子のために作られたものは女の子が着るべきだって話だよ。うん)
 誰かのために作られた服は、その『誰か』が着るべきなのだと思う。
 いや、決して着るなと言いたい訳ではないのだけれど。
(……やっぱり女の子の方がいいって、絶対)
 いくら似合っていても、むさ苦しい空気の消えないその部屋で、げんなりと一縷は溜息をついた。
 つまりは自分が着たくないだけの話だったりするのだが。




 そしてコンテスト本番。
 舞台の袖に全員出演順に並ばされて、一縷は出番を待っていた。
 舞台に立って名乗りを上げて、ひとことふたこと司会の質問に答えればいいらしい。
 踊ったり歌ったりしないだけマシだと思いながら、一縷は気を紛らわせるために明日について考える。
(朝は……味噌汁とゆかりおりにぎりと浅漬けでいいか……で、新刊発注明日FAX送らないとで、昼は野菜炒飯とかでいいかな)
 最近ちょっとずつ色々食べられるようになってきたと店長は笑っていたが、そんな曖昧な状態で色々食ってもいいのかと一縷は不安だ。
 とりあえず先日作ったふりかけは食べても何もないらしいから安心した。これで倒れたとか言われたら一生後悔するに決まっている。
(っつーか店長のアレって一体なんだろうな……なんかアレルギーみたいだと思ったけど違うっぽいし)
 泡吹いて倒れるなどといったのは本当らしい。だが普通のアレルギーとはどうも違う様子だ。
 今更のように症状を色々と調べてみたのだが、アレルギーで起きるショック症状に泡を吹いて倒れるというのは見当たらず、蕁麻疹や嘔吐などが多かった。
 店長の場合はそうではなく、いきなり倒れて数時間後に回復するとの事だ。アナフィラキシーが起これば生死に関わるというらしいし、それもおかしな話だ。
(……というかあの人、なんだろ)
 色々と謎の多い店長を、不思議に思うことは多々にある。
 それでもあまり言いたがらないからずっと黙ってはきたけれど、一縷の感情面で、なんだか見過ごせなくなってきている気がする。
 一緒に暮らしているのだからちょっとぐらいはと思う気持ちもなくはない。
(もうちょっと教えてくんないかな)
 そうしたらもっと色々できる事が増えるのに。
 そこまで考えたところで一縷の名前が呼ばれ、その思考は中断される。
 ここまできたら何が何でも温泉旅行。
 魔法の言葉を呟きながら、一縷は舞台への一歩を踏み出していく。
 カツカツと鳴るヒールの音が不思議で仕方がなかった。






 飴沼一縷さん、という司会の言葉を聞いてどきりとした。
 まるで自分が舞台に立つかのような緊張を感じて、店長はぎゅっと手に汗握って固唾を呑む。
 舞台の袖から現れた一縷は、先日みたあの黒いワンピースに白のエプロンをつけた姿で、長い黒髪のウィッグをつけての登場だった。
 これ以上ないぐらいに完璧にこなしてやると、先日茜に向かってそう宣言していた通り、堂々と歩くその様子は女の子の格好をしているくせに、なんだかやたら格好いい。
 ほうと溜息をついたのは自分だけではなくて、周囲に居た何人かの女性がキレイと呟くのを聞いてなんだか嬉しくなる。
 一縷くんは中身からして綺麗だからね、と心の中で笑った店長は、やっぱりいいなあと思った。
 お名前と年齢をどうぞと言われて、一縷が目の前のマイクに向かって口を開く。
『飴沼一縷、21歳です』
 裏声で喋る参加者も多い中、一縷は全くの地声だ。
 それが一縷らしいなあと笑っていると、ふとその視線が自分の方向に向いてきて、店長は慌てる。
「うわ」
 慌てて帽子のつばを下げて顔を隠して俯く。
 今日は目立つ髪も隠してあるし、いつもと服装も違うし、それでどうにかなるだろうと考えながら、店長は上目にちらりと一縷の様子を窺う。
 一縷の傍までやってきた司会の大学生が、今日はどうして参加を決意したんですかーと問い掛けると、にっこりと一縷は笑ってみせながら答えた。
『女友達に強制参加させられました』
 女装趣味ではないですよ、と笑いながら答えた一縷の笑みが怖い。
 完璧な笑顔ではあるのだが、一縷の性格を知っている店長からすれば、却ってそれが怖かった。
(一縷くん機嫌悪いなあ……)
 こんな状態で見つかったら怒られる。そう思いながら店長はもう少し帽子を深くかぶって、それでも一縷を見るのだけはやめられなかった。
 ステージの上では司会がうんうんと頷いている。
『なるほどなるほど。では着てみた感想は?』
『裾踏んづけそうで怖いですねー、あと化粧に1時間かけられて疲れました。こんな事を毎日できる女の子を尊敬します』
 あはははと笑って答える一縷は、右手でスカートをつまんでひらりと翻す。こんなにだぼだぼだとほんとに踏んづけそうなんですよと言った声には、なんだか実感が篭っていた。
『ははぁ、確かにそれは同感です。では最後に、温泉旅行、手に入れたら誰と行きます?』
『そうですね……友人にぶん取られる可能性が高いのですが、できる事ならいつもお世話になっている人にゆっくりしてもらいたいです』
 問いかけに答える一縷の言葉に目を見開いた店長は、顔を隠すことも忘れて一縷を凝視した。その言葉の相手が自分を示しているかもしれないと思った瞬間に、頭が沸騰したかと思う。
 だが、そんな沸騰は次の瞬間一瞬にして冷却されて、さらに凍りつく。

 目が合ったのだ。一縷と。

「あ……」
 ばちっと合ってしまった視線に、どちらも驚いてしまう。
 平然としていればばれなかったかもしれないのに、驚いた表情を見せてしまったから、こちらを見ている一縷の表情には驚きの後に『あれは店長だ』と確信している表情が浮かぶ。
 だが反応を返す事もできないまま、司会に促されて一縷は舞台袖へと戻っていく。
 踵を返す直前『店長』と動いた一縷の口元を店長が見逃す事はなく、失敗したと店長は両手で顔を覆った後、店長はそそくさとその場を後にした。
 逃げるように、とはこのことだ。





 *   *   *





 コンテストの結果は、羞恥を耐え忍んでがんばった一縷の優勝で終わった。
 一縷よりも綺麗な女装男子は居たのだが、どうも一縷の『作らない』返答が功を奏したらしい。
 見た目は女の子なのに男らしい、というのが人気の理由だったと、一番最後の結果発表の際に言われたが、あんまり嬉しくはなかった。
 温泉旅行のチケットを無事手に入れる事ができ、応援に来ていた須々木と茜は大喜びで着替えを済ませて外に出てきた一縷のもとに駆け寄ってくる。
「一縷! おまえすげーなあ!」
 きゃっきゃと須々木と茜がはしゃいでいるのも頭に入らず、一縷は俯いてぶつぶつと何事かを呟いては、いやいやと首を振る。その頭の中は、先ほど見た店長と思しき人物についてでいっぱいだった。
 そんな一縷の様子に気がついた須々木が、首をかしげて問いかける。
「んん? おおーい、一縷くん?」
 どしたの? と覗き込んだ先、須々木はぎょっとして、一歩後ずさる。
「……来た? いやいやいやそんなまさか……や、でもあれは絶対……でも店は? 見間違いか? いやでも目が合ったしあれは絶対」
 ぶつぶつと呟いている一縷の様子にただならぬものを感じつつ、おおいと須々木は声をかけた。
「……何言っちゃってるの一縷くん? もどっておいでー? 戻ってこないと抱きついちゃうぞー?」
 茶化しつつ、女のカッコしてるならお前の事抱けるとかなんとか物騒な事を須々木が言っても一縷の反応はない。
 目を見開き、ぶつぶつと呟き続ける一縷は不気味だ。
「一縷ちゃーん、お願いだから戻ってきてよー」
 ボク寂しいよーと泣き真似してみても反応はなし。
 いよいよ本格的に虚しくなりながら、須々木は一縷の肩をゆっさゆっさと揺すってみるが、やっぱりこれも反応なし。
 一体どうしちゃったのと首をかしげるも原因は不明で、これは放っとくしかないかなあと思った瞬間、一縷はがばっと顔を上げて茜に向かって呼びかけた。
「氷川」
「な、なに?」
 明らかに様子のおかしい一縷に、さすがの茜も怯えた。
 ずいっと顔を近づけられた茜は一歩後ずさり、一縷を見上げる。
「なあ、この後なんでもするから―――」
 それに続いた言葉に茜も須々木も目を見張り、だが一縷の気迫に何も言わずただうなずくしかできなかった。
 その返答を聞いた一縷は、茜の手から封筒をひったくり、満面の笑みを浮かべて帰路に着く。
 そんな一縷の変貌に、どっかおかしくなったのかと、茜と須々木は首を捻るった。



 *   *   *





 幸いだったのは、会場から店までが近かった事だ。
 逃げるように帰ってきた店長は、いつものように店の入り口から入るのではなく、自宅の玄関から家の中に入って着替えてから店の中へと戻った。
 いつもは一縷が居る時間だったが今日は例のあれに参加という事で、本日のアルバイトは秋坂が代打で来ている。
 1時間だけ休憩をもらって例のあれを見学しに行ったのだが。
「……あ、店長おかえりなさい」
 動揺の去らないまま店へと戻ってきた店長に向かって、何もしらない秋坂が笑顔で迎えてくる。小さな声でただいまとつぶやきカウンターの椅子に座ると、店長は両手で顔を覆って呻いた。
「なんかありました?」
「ああ……ええと、多分しばらくしたら一縷くんがもどってくるかなぁと、思うので」
「……? 先輩?」
「ええと、多分俺怒られると思うので、ほっといて下さい」
「……はい?」
 わけわからん、と首をかしげる秋坂の反応は最もだと思う。
 だがそれ以上説明する元気もなく、店長はカウンターの上に突っ伏す。
 帰ってきたら怒られるだろうなあと思うのに、顔中が熱いのはどうしてだ。なんだか嬉しいのは何故だ。
(……って)
 がつんとカウンターに額をぶつけながら、会場で目の合ったあの状況を思い出す。
 目が合った。その事実に店長は浮かれていた。
 会場内は広かったのに、それなりに客も来ていたというのに、あの状況で目が合い、しかもそれが自分だと一縷はわかったようだった。
 怒られるとわかっていても、それが嬉しい。
(……これだから)
 ぐだぐだになってしまうのだ。
 今日だって本当は行くつもりなかったのに。
(もうだめだ……)
 好きすぎてどうしよう。
 がつがつと額をカウンターに打ち付けて秋坂に怯えられながら、頭を冷やせと言い聞かせる。
 とりあえず今は、ちゃんと一縷に怒られることだ。そうすればきっと頭も冷えるから。
 そんな事を考えながら、店長は一縷の帰宅を待つ。
 その間は全然仕事が手につかなかった。





 *   *   *





 一縷は店の前まで辿り着き、そして小さく深呼吸する。
 メイクもウィッグもとって、今の一縷は『いつも』の飴沼一縷に戻っていた。だがなんとなく化粧の匂いが取れない気がして落ち着かない。それをなんとかしようとの深呼吸だ。
 落ち着け、と思いながら店の中へ入っていくと、目の前に居たのは代打を頼んでおいた秋坂だ。
「……あ、先輩おはようございます」
「おはよう。あとおつかれ、代打ありがとな」
 急でごめんなと謝りながら秋坂の横を通り過ぎて、なぜかカウンターで突っ伏してる店長の前へつかつかと歩み寄る。
 服装は変わってしまっているから、もしかしたらあそこで見たのは店長ではないかもしれないが、とにかく。
「店長」
 呼びかけながらカウンターに音を立てて手を突くと、店長は「はい」と大人しく返事をして顔を上げた。
 何かを覚悟しているような表情に、やっぱりあれは店長だったなと一縷は確信して、問い掛ける。
「来ましたね」
「……はい」
 大人しく頷いた店長はそのままうな垂れてしまう。
 一縷が嫌がるだろうと思っていたのだろう。実際この人にだけは見られたくないと思っていただけに、一縷はそれを否定できない。
 どんな言葉をかけようかと一縷が一瞬迷い何か言うよりもさきに、店長は体ごと一縷へと向き直り、頭を下げてくる。
「ごめん」
 ごめんなさいと頭を下げてきた店長の姿に、そこまでされるとなんだかこっちが悪者になったような気分になるなあと思った。一縷が溜息をつくと、その音に小さくびくりと店長が震える。
 そんな様子から、店長は自分が怒っていると思っているのだと知る。
 そんなことはないんだけどなぁと思いつつ、これから言おうとしている言葉が多分店長の想像しているものとは全然違うだろうと考えたら、なんだか自然に笑みがこぼれた。
「もういいです」
 笑いながら告げた言葉は本心だ。
 もちろん店長が居たことには驚いたし、やっぱり見られたのは恥ずかしい。
 それでも一縷は店長を怒る気にはなれなかった。
 一縷が嫌がるとわかっていても見に来た店長が、ほんの少しだけ我が侭な部分を見せてくれたようで嬉しく思ってしまったからだ。
(この人本当に何も言わないから)
 聞き分けがよすぎるのも逆に不安だ。
 にこにこ笑顔でいられるだけなのも、褒められるだけなのも、過ぎれば不安へと繋がっていく。だからたまには不満だとか、我が侭を言ってもらいたいのだ。
 そして今回のこれは、ちょっとした店長の我が侭のようで嬉しかった。
「……え?」
 怒らないのかと不思議そうに顔を上げた店長に向かって笑いながら、はい、と一縷は封筒を差し出す。
「なに?」
「俺の戦利品」
 受け取ってくださいと、一縷は店長の手を取って封筒を渡した。
 その中身は、一縷が体を張って勝ち取った温泉旅行のチケットが入っている。
 舞台の上で質問され、答えた言葉を店長も聞いていたはずだ。

 出来ることなら、お世話になっている人に。

「……これは一縷くんのじゃないか」
「だからです。俺店長にお世話になりっぱなしで何も返せてなので」
 だからもらってくださいと笑えば、店長はぽかんと目を瞠って何も言わなくなってしまう。
 封筒を渡された手が小刻みに震え、どうしたんだと問いかけるよりも早く店長はその場に崩れ落ちてしまい、一縷は慌てた。
「ちょっ、店長!?」
 大丈夫ですかと問い掛けると、大丈夫じゃないと言う答えが返ってくる。その声にはさすがの秋坂も心配して駆け寄ってきて、だが店長は何も言わず震えるだけだ。
「店長?」
 再度声をかけると、やっと答えが返って来る。
「……いや、大丈夫。……大丈夫なんだけど大丈夫じゃない」
「は?」
 わけわからない言葉を返して顔を上げた店長は、なぜか泣きそうな顔をしていて、ぐすっと鼻を啜った後に言う。
「ど、どうしよう」
「……はい?」
 何がだと、一縷と秋坂ふたりして問い返せば、こんなの、と言いながら店長は一縷が渡した封筒を示してくる。
「こ、こんなのもらったの初めてで、どうしたらいいのかわかんない」
 泣きそうな顔の店長はそんな事を言い、続けて「温泉だって」と秋坂に向かって言う。
「……ああ、はいはい。よかったっすね、店長」
 なんだ喜んだだけかと、店長の奇行っぷりには慣れ切っている秋坂は安堵の息を吐き出して仕事に戻っていってしまう。
 残された一縷はこんな反応を示す店長をどう扱っていいのかわからず、戸惑うばかりだ。
「ええと、店長?」
「……はい」
 ぐすぐすと鼻をすする店長に向かってといかければ、以外と素直に返事があって安心する。
「一応言っておきますけど、俺怒ってないですよ」
「……本当に?」
「いや、黙ってこられたのはちょっと不満ですけど。もう見られてるんで今更って気もするんで」
 恥ずかしいですけど怒りはしませんといえば、明らかにほっとした様子で店長は立ち上がる。よかったと呟く口元には笑みが浮かんでいて、いつもの笑みに安心したような、ちょっと残念のような。
「でもごめん。一縷くん嫌だったのに」
「じゃ、それ俺も連れてってください」
 それでチャラにしますから。
 にっと笑って一縷が言うとなぜか店長は目を瞠り、その後またふらりとよろけてしまう。
「えっ!?」
 なんだその反応はと思いながらも一縷はよろけた店長を受け止めて、頼りなく寄りかかってくる店長が笑っているのに気がついて何がなんだかわからなくなった。
(やっぱりこの人の考えてる事はよくわからん)
 内心でやれやれと溜息をついてから、一縷は大丈夫ですかと店長に声をかけて椅子に座らせる。ごめんと何度も呟く店長は、けれどやっぱり言葉のわりに笑っていて、まあ嫌われたのではないなと思う。
 そして椅子に座って、数分経ったころに店長はぽつりと言った。
「……うん、わかった。一緒に行こう」
 温泉一緒に行こう、と店長に言われ一縷は微笑んだ。
「はい」
 これで少しは恩返しできるだろうか。
 できるかどうかはまあ置いておいて、店長が幸せそうにしてくれたからいいかなと思う事にした。
 恥ずかしい思いをして勝ち取った戦利品。
 それだけの事をした甲斐があったかなと笑って、だがもうこんな事はこりごりで、二度とやらないと心に誓う。




 そして一縷の心情も知らぬまま、店長の頭の中は初めて誘われた旅行の事でいっぱいになっていた。
 店を休まないとだとか、何を持っていこうだとか、何かお土産を買いたいなだとか。
(ああ、でも一縷くんと一緒じゃ渡す相手があんまりいないか)
 店にバイトに来てくれる子と、あの人と、あとは一縷の友達ぐらいかと考えながらにやける。
 それからちょっとだけ悔しいなぁと店長は思う。
(やっぱり一縷くんに幸せにしてもらってばっかりだ)
 少しは自分が彼の事を幸せで笑わせてあげたいのに、いつも自分はもらってばかりだ。それが悔しい。
「店長?」
 にやける自分に向かって問いかけてくる一縷に、なんでもないよと答えて立ち上がる。
「さて、仕事しないと」
「あ、じゃあ俺も」
「一縷くんは今日お休みですよ」
 手伝います、と言おうとした一縷を制して笑い、今日は大人しく休みなさいと言う。
「あ、そうでした」
「今日はゆっくり休んでください。ご苦労さまです」
「じゃあ夕飯作って待ってますんで」
 時間になったら来てくださいと言う一縷にうなずいて返すと、秋坂とひとことふたこと会話した一縷は、店の奥にひっこんでいく。
「いいなあ、温泉」
 ぱたぱたとはたきをかけながら秋坂が羨ましそうに呟くのを聞いて微笑み、じゃあ次があったら秋坂くんと行こうかなと呟くと、なぜか秋坂は首を左右に振る。
「や、いいです。そんな事したら俺先輩に殺されそう」
 怖いんでいいです、と少し顔を青ざめさせた秋坂に、意味がわからずなんでと問えば
「いやだって……ああ、ええとー……色々あるんすよ。色々。ところで怒られなくてよかったですね」
 何故か言葉を濁して答えた秋坂はそう笑って、うんと頷いた返答を聞くと「あっちにほこり発見」とかなんとかわざとらしく言ってカウンターの死角へと隠れてしまう。
 なんだそれはと思いつつもそれ以上問うことはできず、仕方なく店長は自分の仕事に戻っていった。


 そんな店長が秋坂の言葉の意味を理解する日は来るのかどうか。


「恋は盲目ってこの場合も当てはまるんかな……?」


 カウンターから見えない死角で秋山が呟いた言葉を、店長も一縷も知らない。
 本人たちだけが、その微妙な関係の変化に気付かないまま。
 ゆっくり、そして速く、時間は過ぎる。





 END






秋坂くんだけ何かを悟るの巻。