――――――――――――――― すぎるいちにち。
過ぎる時間は切なく、とても大切だ。
過ぎた時間は戻らず、だからこそ一秒一秒大切に、とても大切に生きている。
何もかもを捨てて逃げ出したからこそ、その時間は大切で、そして申し訳なく、全てに言いたい事がある。
何気なく言う事のできる言葉だけれど、きっとこの想いの全てを込めて言う事はきっとない。
今この時間と、この場所と、この世界と、目の前に居るわずかな人に向けて言いたい事がある。
そして今までにはなかった望みがある。
だからこそ今こうして、私は笑っているのだ。
昔の自分には考えつかなかったような、今の人生。
失う事がわかっているからこそ愛しく、手に入れる可能性があるからこそ楽しく、手に入れられない可能性があるからこそ不安でもある。
未来が見えない人生はとても不安で恐ろしく、愛しく切なくそして何より、自由で広がって見える。
両手を広げてもなお届かないその未来に、私の手は届くだろうか?
今はただ、何よりもすぎていくいちにちが愛しい。
笑って、泣いて、怒って。そんなささやかな事ができる日常が、こんなにも幸せなのだと、どれだけの人が気付いているだろうか?
目の前に居る人が大切で、笑っていてくれるただそれだけが、これほどに大切で愛しい。
これがどれだけ罪であるか、私はよく知っている。
それでももう、私は戻る事などできない。
「……もどりたくは、ない」
ぽつりと呟く言葉は小さな部屋の中で消えていく。
こんなにも温かく幸せな日常がある。それは昔から知っていたけれど、手に入れてしまった今、手放せる訳がなかった。
温かいのだ。とてもとても。
できることなら、離したくない。
* * *
はぁ、と一縷は仕事場で深い深い溜息をついていた。
ダンボールの中に入っているのは本日の入荷商品たち。その箱の伝票を目にした一縷は、ふっとカウンターに視線を向ける。
カウンターの上には電話が見える。家の回線とは別の、店専用のFAX兼用の電話。今まさにFAXが届いている最中で、ぴーっと音を立てて印刷が終わる。
「……おし」
いっちょやりますかと気合を入れて手に取ったのはその電話と、出版社取引名簿と書かれた本。それからカウンター内に置いてある、印鑑や朱肉の入った箱だ。
箱の中に入っている番線印を確認して、ふたは開けずに受話器を取る。
「えーと……し……し」
電話帳から探した電話番号をプッシュして受話器を耳につける事数秒。
ぷっぷっと聞こえるプッシュ音の後に聞こえたのはコール音ではなく、プーップーッという電話中を示す音。
「……ちっ」
聞こえてきた音に舌打ちして、一縷はリダイヤルでもう一度かけなおす。聞こえたのはやっぱり電話中の音。何度も何度もそれを繰り返して、もうすぐ二桁になろうと言うところでもう一度深く溜息をついて受話器を押した。
その後ろからくすくすと笑う声が聞こえてくる。
「撃沈?」
笑っていたのは店長で、店の奥で本を抱えていた。
「ぜーんぜん繋がりません」
少々お待ち下さいにすらならない、と苦笑しながら一縷は箱に戻る。
「ったく、電話回線もうちょっと増やせっつの」
とある有名出版社は電話が繋がらない事が多々にある。
まあ大きな出版社になれば注文電話が殺到するから当然の事なのだけれど、これだけ繋がらないと文句のひとつも言いたくなるものだ。
「まあまあ、人手不足なんだよきっと」
殺気立ってるねぇと笑いながら、そんな一縷に怯える気配もなく店長は淡々と仕事を続けている。
この店長は人の不機嫌だとか全部まるっと受け止めてしまうような部分があって、一縷の苛立ちすらも受け止めて丸めて角をなくして返してくるから敵わない。
「そりゃしょうがないですけど。だったらもっと配本増やせっつの。一冊で足りるか一冊で」
怒りをそがれてはぁ、と溜息をつきながら、一縷が手にしたものは最近売れっ子のハードカバーだった。
人気の本は注文が殺到するから、当然小さい本屋に回ってくる量は少なくなるのだがまさかそれで足りるはずもない。小さい本屋でも売れるもんは売れるのだ。そりゃあもちろん売り上げは店舗の大きさに比例してしまうけれど。
「っつーか一番最初の追加発注30で出したのに……1冊って。いちって。切るにしても限度があるでしょう」
人気の商品は追加発注をかけても希望したぶんだけ入荷する事はあまりない。出版社で調整をかけられて、酷い時は今のこの状況になる事だってざらにある。
30分の1ですかとがっくりと肩を落とした一縷は、しかしあきらめずに再び受話器をとる。がんばるねえと店長に微笑まれながら、再びリダイヤルで電話をかけ始めた。
「弱小本屋さんの宿命だねえ」
これぞ格差社会と笑う店長の言葉に、受話器を耳におしつけながら一縷は答える。
「店長も暢気に言ってないで。売り上げの問題ですって」
店長よりもアルバイトの方が売り上げの心配してどうすんだと言えば、なるようにしかならないよと店長は答えた。努力はするが、諦めも時には肝心なのだと。
「まあしょうがないじゃない。今度出版社さん来たらお願いするから」
プーップーッとなる音にもめげず、店長と会話しながら一縷はひたすらリダイヤル。
「ついでに初回配本も増やしてくださいって言って下さいよー、っつかランク上げてくださいってお願いして下さい」
本の入荷は、本屋のランクによって冊数が決まる出版社も多い。そのランクをひとつ上げてくれるだけでもだいぶ違うのだ。
そうしてくれるのならどんなに楽かと一縷は思う。
「大体ウチ結構売れるのになんで初回がこんなに少ないんすか」
「小さいからね」
しょうがないね、と笑う店長は結構暢気だ。
検品を終えた商品を出すために立ち上がる店長を見送って、一縷はひたすらリダイヤル、リダイヤル。そしてやっとコール音が聞こえてくる。
(お、つながった)
少々お待ち下さいというアナウンスが聞こえて、一縷の顔には笑みが浮かぶ。それを見た店長がぐっと親指を立てたのに対して同じ仕草で返し、一縷は電話が繋がるまでの間を今か今かと待つのだった。
発注も終えて、新刊も出し終わった後一息ついていると、おつかれさまと声がする。
振り返ればはたきを持った店長が居て、その手には返品する本が山積みにされている。
「手伝いますか?」
「ううん、大丈夫」
顎まで届きそうなほどの山と積んだ商品をどさりと台の上に乗せると、店長は空いたダンボールを拡げてほいほいとそこに商品を放り込んでいく。
その作業をしながら、店長は最近はどうですか、と問い掛けてきた。
「……はい?」
なんの事だと首をかしげれば、学校、と答えてくる。
「大学、楽しい?」
穏やかに問う店長の声に、何が聞きたいんだろうと思いながら一縷はとりあえず答える。質問の意味するところはわからなかったが、とりあえず平和だと。
「ああ……まぁ、はい」
「俺には話せない?」
特に何もないんだよなあと思っていたら微妙な返事になって、その答えに店長は眉を寄せて首をかしげる。
なんだかそれにおかしな罪悪感を覚えて、一縷は首を左右に振った。
「あ、いやそんな事はないです。というか、特出した何かがある訳でもないので普通にやってますとしか」
言い様がないと言うか、と言えば、楽しんでるんだねと言われ、それにも首をかしげるしかない。
「……楽しい? うーん、いや、まぁ、楽しいか」
脳裏にひらめいたのは、常にいいことなしのサークルの事だ。
授業は特になにもないし、大学生活で特出した出来事と言えばあれしかないだろう。で、それを考えてみると『楽しい』と表現するには御幣があるというか、そうでもないような気もするような。
「この間来たお友達…ええと、須々木くん?」
「ああ、はい。どうかしたんですか?」
あってるかな、と首をかしげながら問われて一縷は頷く。
そう言えばこの間奴が来た時、店長は須々木とそれなりに仲良くしていたような、いなかったような。
それを思い出してなんとなく微妙な感覚に陥っていると、そこに店長の言葉が返ってきて一縷ははっとした。
「いや、仲がよかったなと思っただけだよ。いいなぁと思って」
俺にはああ言う友達いないからと笑った店長に、じゃあどういった友達ならいるんだろうかと思ったけれどさすがに問う事はできなかった。
いいなぁと笑う店長の言葉は、なんとなく本心から出たものだろうなと感じた。しみじみ、と言う表現が似合うような口ぶり。
「そうですか? 単なる腐れ縁ですけど。あいつと一緒に居ると俺ばっかり貧乏くじでなんか嫌なんですよね」
はぁ、と須々木の事で溜息をついた数は何回だろうとふと数えてみる。だが最近の事を思い出しただけで両手の指を越えたので諦めた。
「須々木くんが一緒に居ると?」
何が起きるのかなと問われたので、苦笑しつつ一縷は答える。
「……何と言うか、犠牲にさせられるというか」
つい最近の出来事で一番と言えば、サークル仲間たちに一斉に見捨てられて女装をさせられたあれだろう。しかもその女装姿をこの店長にまで見られた。一縷の人生の中で最大の汚点だ。
「ふうん」
「……まぁ、そこまで悪い奴でもないんですけど」
それは奴がここに来た折の出来事でもわかるだろう。
行き過ぎた茜の事を止めて、きちんと叱ったりするから一縷は須々木の事を嫌いにならずに済むどころか、結構好きだったりするのだ。それで見捨てられた事が帳消しになるかと問われれば答えは『否』だが。
「だからずっと友達?」
「まあ、はい」
うなずくと、ほんの少しだけ店長の周りの空気が変わったように一縷は感じた。
(……あれ?)
なんだか機嫌が悪いような、いつも通りのような。
だがそんな風に思ったのも一瞬で、手元に視線を落とした店長が「あ」と呟いた。
「これ返品期限切れだ」
「……あー、じゃあ了解取るんでこっち下さい」
手を差し出せばほいっとその商品が差し出される。
「うん、お願いします」
いつもと変わらぬ笑顔で商品を渡してくるから、多分一縷の勘違いなのだろう。この店長は滅多なことで機嫌を悪くしたりしない。特に一縷の前では笑ってばかりで、一縷は店長のこの表情意外をあまり目にしたことがないのだ。
(それもなんか情けないような……雇い雇われでも仮にも一緒に住んでる訳だし)
居候の立場ではあるけれど、やっぱり同居な関係なのだしフレンドリーにいきたいと言うのが一縷の考えだ。
この建物の1階の表に店があり、その奥と上にあるフロアは居住スペースだ。
以前に色々あって住処をなくした一縷が元々のバイト先だった本屋の店長に泣きついて、あっさりOKされて住み込みで働くようになって早数ヶ月。未だに笑った顔以外をあまり見られないというのは、なんだか他人行儀な気もしてくる。
(そりゃ暗い顔ばっかりよりは全然いいけど……)
たまにはちょっと悩み相談とか、そこまではいかなくても、何か一縷の生活態度に文句だとか出てきてもいいような気がするのだが。
と、そんな事を考えていたらどうも店長の顔を凝視していたらしい。
「ん? どうかした?」
「あ……いや、なんでもない、です」
一縷の視線に気付いた店長ににこっと笑われて、どきりとしながら慌てて首を左右に振る。
「うん? 本当に?」
「本当に。いや、店長かっこよくて惚れ惚れするなぁと」
慌てながらも本音を呟けば、なぜか店長は一瞬目を丸くして
「……またまた」
お世辞言ったって何も出ないよと笑いながら、本を詰め終えた店長はそれを抱えて店の奥にひっこんでいってしまう。
その後ろ姿を眺めながら、一縷は珍しく店長に対しての溜息をついた。
店長に対しての文句などないに等しいのだけれど、ほんの少しだけ。
「……もうちょっと、なぁ」
なんだかこう、もうちょっと近づけないものかと思うのだ。
店長は笑顔を浮かべてくれているけれど、それが他人に対して気を張っている表情なのではないかと思う事がある。
なんとなく、バリアーを張られているような気がしてしまうと言うか。
「なんかなぁ……うーん」
せっかく一緒に暮らしているわけなのだから、もう少しこう、怒ったりわがまま言ったりとか、そんな部分で仲良くしてくれてもいいだろうにと思うのだが。
「まぁ……そのうちでいいか」
時間はある訳だし、と頷きながら一縷は仕事を再開させる。
一縷の背後で山積みになっている補充の商品がつまったダンボールを見て溜息をつく。
箱の中に入っている本たちは分別もされておらずぐちゃぐちゃだ。それをより分けて品出ししなくてはいけない。それから次の日の新刊のスペースを用意したり発注したりと、本屋さんは以外と忙しい。
「……補充より新刊回してほしいんだけどなぁ」
切実な願いは、多分この本屋で仕事を続ける限り叶う事はないのだろう。本屋なんてそんなものだ。所詮この世は弱肉強食。
一縷の小さな呟きは、本屋の埃にまみれて消える。
一縷が溜息を深々と吐き出して居る頃、店長は店長で大変だった。
ダンボールを運び込んだ部屋でなぜかうずくまり、耳まで赤くなっている。
「ああもう……あれはそう言う意味じゃないって」
あんなちょっとした事でこんな風になってしまうとは。
ぶんぶんと首を振ると、長い銀髪が肩にひっかかってすべりおちる。
白い肌も、美貌の店長と言われるその顔も、今の状態では形無しだった。
「……でもまあ、ちょっとは喜んでも、許してくれるかな」
何しろ長いことこんな状態な訳なのだし、とひとりごちて、へへ、と店長は表情を緩めて笑った。
実のところ一縷の前で笑顔しか見せないのは気を張っている訳でもなく、ただにやけているだけなのだが、それに一縷が気がつくかどうかはさっぱりわからない。
「もうちょっとだけ、がんばろうか」
これのおかげでもう少しはがんばれそうだと笑いながら、赤くなった耳に手を当ててぱしんと叩いて、店長は立ち上がる。
「うん。がんばれ」
にっこりと笑うその表情はいつものものに戻って、店長は一縷が居る店内に戻っていく。
廊下から見える先には、黙々と仕事を続ける一縷の背中が見えて、店長の表情にはまた自然と笑みが浮かんだ。
* * *
この日常が何より大切で、何より愛しく、何より切なく、何より怖くもある。
願わくば、少しでも長くこの時間が続くように。
それからあと少しだけ、もう少しだけ距離が近くなるといい。
今は見えない糸の先が、彼に繋がり解けなくなればいい。
静かに静かに時間は過ぎていく。
今はこれが精一杯の、一縷と店長の日常。
ゆっくりゆっくり、ほのぼのと時間は過ぎていく。
今はこれで満足で、それでもちょっと先を望んでしまう。
そんな、日常。
END
『鱗ボーイズ』様の四周年記念ノベコンに参加させていただきました。
投稿した作品に大量加筆修正しました。
ノベコン時期(8/1〜8/31)の募集お題『嫉妬』にも
ほんの少しだけ絡めてみたり遊んでました。
ちなみに一縷が電話をかけまくっていたのは新○社。