――――――――――――――― おかえりなさい。
何考えてるのアンタ! と氷川茜が店に殴りこみに来たのは、一縷が店番を始めて3日目、最終日の事だった。
店の中に入ってレジに居る一縷を見た途端叫んだ声を聞いて、お客さんが居ない時でよかったと心底思う。
(……すっかり忘れた……つもりでいたのに)
3日休んでしまえばさすがに茜も諦めるかと思ったのに、この女は店に乗り込んできた。いやはやそこまでの行動力は恐れ入る。なんだかでかい紙袋を下げてるし、これはもう逃げられないかと一縷は溜息をついた。
一縷のバイト先を彼女に教え、あまつさえ案内までしよった須々木には睨みをくれてやりながら、静かにしろと一縷は言う。
「頼むから店内で騒がないでくれよ氷川」
「……騒がれたくないんだったら勝手に休むんじゃないわよ」
「いやまずそっちが先に勝手したんだろうが。俺のこれは仕事だ」
「ただのバイトでしょ。アタシを誰だと思ってるの。誰だと」
仁王立ちする彼女はふんぞり返って言い放った。
後ろに立っている須々木が口の中だけで「出た、茜女王様」と呟くのが見える。
サークル仲間の間だけでなく、彼女を知る者が時折そんな風に茜を呼ぶのだが、いやはや的を射ているというか、そのままと言うか。
「お前がどう思ってようが、仕事は仕事だろ。サークルならともかく、外で我が侭全部通ると思うなよ?」
「な……っ! なにそれ!?」
「言った通り。バイトだろうが金もらってる以上仕事は仕事だ。お前だって仕事してるだろ。それぐらいわかれ」
すぱっと言い切れば茜はぐっと息を詰まらせ、その後ろに居る須々木はひゅうっと小さく口笛を吹いた。
「……とにかく、何も言わなかった俺も悪かった。それはちゃんと着てやる。もうすぐ交代のバイト来るから奥で待ってろ。そこのドア開けてまっすぐのとこが客室」
くい、と店の奥に目立たないようについているドアを示して言えば、ほらほらと須々木に押されて茜が入っていく。
入る直前、思いっきり茜に睨まれたが気にしない事にした。
茜のああ言う部分は問題だと思うから謝るつもりはないし、そもそも悪い事をしたのは茜の方だ。そこを曲げるつもりもないし、ましてや自分は「よろしく」と店長に頼まれた。
その信頼を裏切るつもりは全くない。
大学の友人と店長、どちらをとるかと問われたらきっと即答で店長を取る。
「……店長の方がカッコイイもんなぁ」
どれだけ一縷が説教していようが、彼がいなければ店は立ち行かないし、立派な社会人だ。
「遊び半分の学生とはやっぱり違うよなあ……」
こんな事で店長の凄さを実感する。
なんだかんだ言うけれど、あの人の実力は相当だと思う。何よりあの人は人を纏めて惹きつけるのが上手だ。
普段は決して口にしないけれど、あの人は一縷の憧れであるからして、その店長に頼まれた店の中での騒ぎは困る。
「いやそれ以前に公共の場で騒ぎ起こすのはどうなんだ」
サークル仲間はいい奴らだと思うけれど、ハメを外しすぎる部分にはどうしてもついていけない。
「……俺が老けてるだけか?」
あれは若さの特権という奴だろうか、と考えながら唸って、だがやっぱり違うよなと言う結論に至る。
「やっぱTPOは大事だ。うん」
そうやって頷いたところで、交代のバイトが店に到着した。
おはようと挨拶をすればきちんとおはようございますと返って来る。
(やっぱこれだよなぁ)
礼節は大事だ、と心の中で頷く一縷だった。
さてところで、一縷が客室まで足を運ぶと、案の定機嫌悪そうに椅子に座っている茜の姿があった。
須々木はと言えば、ご機嫌取りも早々に諦めてなにやら携帯電話をいじくっている。
「お待たせ、今なんか飲み物もって来る」
「おかまいなくー」
勝手さしてもらってますよーと画面から目を離さない須々木が応えて、茜はぷいと顔を背けてしまう。
(……駄々こねてるガキじゃあるまいし)
正直言うと茜のこの部分は悩みの種だ。
成城やらに住むようなお嬢様ではないが、それなりに金持ちの家で育ったおかげか我が侭な部分が多い。
自分が欲しいと思ったものは全部手に入ると思っているふしがあり、実際にそれをおしつけてくるのはこの店に殴りこみに来た事でもわかるだろう。
実行力もあって、人の上にも立てる人間に近いとは思うのだが、どうにもこの点がよろしくない。
台所の冷蔵庫の中から麦茶を出して、コップを持って戻ってから、また一縷は取って返す。
適当な茶菓子を見繕って機嫌を取ろうと言う魂胆だ。
(……饅頭でいいかな。というか饅頭しかないし)
先日なんとなく買ってしまった饅頭があったはずだと、ごそごそ棚をさぐり見つけ出して、皿に移して客室に戻る。
やっぱりと言うか、茜はまだ不機嫌顔をしていた。
「あのな、服の件はちゃんとやるから機嫌直せよ」
「……なによ、飴沼のくせに」
「は?」
「飴沼のくせに、大人ぶって」
「はぁ?」
むくれている理由はさっきの説教のせいだったかと、今更一縷は悟る。それに関しては全くこちらが悪いとは思っていないから、一縷は「なんだそれ」と言う顔しかできなかった。
「あっかねさまー、さすがにそれは俺もどうかと思いまァす」
ぽかんとした一縷の代わりに口を開いたのは須々木で、携帯をポケットの中にしまいこんだ彼は苦笑していた。
「須々木まで」
「あんね、一縷は理由もなく怒ったりしないし、お客さんいなかったとは言え、店の中で騒ぐのは問題だと思うよ。俺は」
「……ぅ」
「今だから俺も言っちゃうけどさ、氷川そゆ一方通行で突っ走るとこ直したほうがいんでない?」
「なに、それ」
「俺ら氷川の事好きだから一緒にいるけどさ、何でも許せるかって聞かれると無理なわけよ。所詮他人だし」
色々思ってる奴多いとおもうよーと笑う須々木に、そこまで言うかと一縷は思う。
だが色々鬱憤が溜まっているのはわからなくもない。その鬱憤をぶつけてしまいたいと思うのも。
もしかしたらこの男は茜の事を案じて言っているのかもしれないとも思ったのだが、さてどちらが正解か。
「わきまえるところはわきまえてくんないと、そのうち見限られちゃうよ? 俺とか一縷とかは別だろうけど」
ねー、とにっこり笑って言われて苦笑する。
この間は人を犠牲にして逃げたくせに、今日もまたひきずりこむ気か。
「……女装の件は引き受けてやる。学校休む事を言わなかったのは悪かったし。だけどああやって突撃してくるのはやめて欲しいな」
「親しき仲にも礼儀ありってな」
ウィンクして見せた須々木の顔と一縷の顔を交互に見てから、茜は俯く。なんどかスカートの裾を握り締めた後に、小さな声で「ごめんなさい」と彼女は言った。
「ん、上出来。氷川もカワイーとこあるじゃん」
純真ー、なんて須々木がからかうから、茜は顔を真っ赤にして立ち上がる。
「うるさい! あたしにだって分別くらいあんのよ! あと飴沼、今日はアタシが悪かったけどね、逃げたのあんただから、ちゃんと優勝して温泉旅行取ってもらうわよ。これは勘弁しないから」
「ハイハイ」
殊勝な返事があったものだから、もしかしたらコレは「迷惑かけたから」とかなんとかで取りやめにしてくれるかもと思った淡い期待は見事にぶち壊されてしまった。
まぁ茜らしいといえばらしいので、苦笑しながらうなずいてやる。
性根から腐っている訳ではないのだ。本気で嫌だと言えばやめてくれる。
さっき須々木に言われたとおり、多分一縷は彼女の友達を辞める事はないだろう。
結局のところ、そんな微妙な部分も(なんとかして欲しいとは思うが)まとめて彼女を好きなのだから仕方がない。
間違いを起こそうとしたらみんなで止めればいいだけのことだ。
……なんて格好いい事を考えている余裕はすぐに吹き飛ぶ事になる。
「ああもう、動かないでよっ! 次動いたら目ぇ潰すから覚悟しなさい」
「つってももう何時間この状態なんだよ……外暗くなっただろ……」
あの後すぐに、回復した茜に例のブツを着ろとせがまれた。いや、脅された。
直しが終わったからサイズを見たいといわれて着替えて、須々木に散々笑われて鳩尾に一発肘鉄をぶちこんでやった。
試着を終えた後普段着に着替え、それから一縷はずっと椅子に座ったまま動けずにいる。
そして目の前には真剣な顔をした茜。
その腰のポーチには、用途が全くわからないメイク道具がわっさわっさと刺さっていて、さっきから茜は一縷の顔をいじくりまわしている。
「……あんた化粧のノリめちゃめちゃいいわね。ムカツク」
むかつくと言うくせに、茜はわりと楽しそうにしている。時折鼻歌まで歌っているのだが、一縷にしてみれば動けないし顔にはぺたぺた色々塗られるしで最悪だ。
須々木はと言えば、これが始まって三十分ほどのところで見事に寝入った。この状況でなければ殴ってやるのに。
「なあ、当日もこんだけやるのか?」
さすがにメイクに1時間以上かけるなんてごめんだと思っていれば、あっさり「そうよ」と肯定される。
「……え」
「さすがに今日ほど時間はかからないと思うけどね。完璧に女の子に見えるように仕立ててあげるから、我慢しなさい。アタシの腕は本物よ?」
「……はぁ」
自信満々の笑みを浮かべる茜のその表情を見て、こりゃもうだめだと一縷は溜息をつく。
こうなった彼女はもう止まらない。誰にも止められない。
(……もうどうでもいいや)
住めば都、住めば都、地獄も住家と念仏のように頭の中で呟いて諦める。
人生諦めも肝心、慣れるが勝ちだ。
だがそんな風に諦めていられるのも今のうちだけだった。
起きてしまったのだ、最悪の事態が。
どさどさどさっと荷物が落ちる音を聞いたのは、メイクを終えた後、もう一度着なさいとメイド服を押し付けられて、嫌々それを着た後の事だった。
「おお、すっげ。氷川本当に天才だなぁ」
なんて感想を漏らしたのは須々木だ。馬子にも衣装だとか、これがあの一縷か、だとか感想を述べているが、肝心の一縷は鏡を一切見ていないから自分がどんな状態なのかわかっていない。
カツラまでかぶせられて、あれもこれもと色々されて疲れ切っていたのだが、店の方向から聞こえてきた異様な音に、一縷の疲れは吹っ飛んで自分の格好も忘れて駆け出していく。
「あ、ちょっ一縷待て待て待てっ!」
須々木の叫びも聞かずに、一縷は店に飛び出した。
何かあったら一大事と思って飛び出したのだが、そこに見えたのはほのぼのと話をしながら土産らしい箱を拾っている、バイトの秋坂と、店長の姿。
「ごめんね、まさか最後の最後で袋が切れるとは」
「店の中でよかったですねー、外で落としたら大変ですよ」
「うん、ありがとう」
お菓子の箱らしいものをいくつかカウンターの上に積み上げて、よいしょと掛け声をかけながら店長は抱え込んだ。
そうして家の中に入ろうと店の奥に目をやったところで、一縷と目が合う。
「……あー、ええと」
何故だか店長は非常に困った顔になり、扉の奥から現れた一縷に向かって首をかしげてこう言うのだ。
「一縷くんのお客様、かな?」
戸惑ったような声と態度で、初めて一縷は自分の姿を見下ろして、気がつく。女装したままだったと。
「うわああああああああああ……!」
悲愴な一縷の叫びは、店内に響き渡る。
一番バレたくなかった人に見られた。
そんでもってバイト仲間にも見られた。
最悪だ。
もう嫌だ、住めば都だなんて嘘だ。
これは何の罰だ。俺は何もしていない。
ああもう明日からどんな顔していれば。
そんな事を必死に考えていたら、唖然とした表情の店長が、ええとと再び口を開いた。
「一縷くん、だよね?」
首をかしげながら問われて、逃げたいと一縷は思う。
もうこの姿を見た全員の中から記憶を消去してやりたい。今すぐに。
「最悪だ……」
もう泣きたい、そんな風に呟いた一縷の後ろから須々木がやってきて、ぽんと肩に手を置いてくる。そして一言。
「ご愁傷さま」
友達やめない、なんて思った前言は撤回してやる。してやる。
と一縷は心の中で決意して、叫んだ。
「誰のせいだぁぁぁぁぁぁぁ!」
泣き声と怒り声と色々が混ざって、もう暴れてやろうかと言う勢いで、一縷は須々木の襟首を掴んで思いっきり揺さぶった。
ごめんなさいと須々木が謝るまで揺さぶりつづけて、はっと我に返った一縷が店長と秋坂の顔を見れば、まだふたりとも唖然としていた。
「……あー、ええと……おかえりなさい」
言う事が見つからず、とりあえずそう言ってみたら、店長の表情がぱっと明るく変化してうなずいた。
「ただいま。お土産買ってきたんだ。お客さん来てるならみんなで食べて。あと秋坂くんにもひとつ」
「あ、ども」
はいひとつ取ってと言われた秋坂が、店長の抱えている箱のひとつを取り上げる。
それを見た店長は、そのまま一縷に近づいてきて笑ってみせる。
「それにしても似合うね、どうしたの?」
問い掛けられて、一縷は涙目になりながら呟いた。
「やりたくてこうなったんじゃないですよぅ」
力なく呟いたその後に、ええとと困った店長は言った。
「うん。似合ってると思うよ? かわいい」
もうだめだ。一縷はそう思った。
END
可哀想な一縷くん。