――――――――――――――― 着物と笑顔と





 吾桑貴裕は、それはそれは深い溜息を吐き出していた。
 頬はげっそりとやせこけて、目の下には隈ができている。
 外見がウリの仕事をしているとは思えないような変貌っぷりに、さすがの同居人、浅生浩隆も多少うろたえているようだった。
「……おいおい、マジで大丈夫か? タカ」
「大丈夫、だと思いたい……いや、大丈夫。うん」
 地獄はもう終わったから大丈夫だと、まるっきり大丈夫には見えない顔と口調で暗示のように呟いて、貴裕は立ち上がろうとしてよろけた。
「っと。ほら、ダメじゃん、寝なよ」
「……うー、うん……そうする」
 さすがにもう眠くてしょうがないから、大人しく浩隆の肩を借りて寝室へと向かう。いつもならそうして部屋に入る時は、かなり濃密で淫らな空気をどちらも纏っているのだが、今日はさすがにそうもいかなかった。
 ベッドの中に沈むようにして潜り込んで、ものの数秒で眠りに落ちる。
 連日の疲れに全てを奪われて、何も考えられず貴裕の瞼は落ちていった。



 貴裕がこんなに疲弊したのには勿論訳があった。
 それと言うのも、彼が所属している事務所の所長にこんな事を言われたからだ。
『はい、次の企画書ね』
『……またアレですか』
『そう、アレ』
 にこっと笑った所長は、一見どう見てもやり手のビジネスマンで、びしっとスーツを纏ったいい男、なのだが。
『第一弾が予想以上にヒットしちゃったの、嬉しいわー。だから第二段もという訳なのよ。で、タカちゃんの評判も良かったから続投でお願いしたいの。できるわよね?』
 如何せん喋り方がコレであるからして、マトモなビジネスマンとは口が裂けても言えない。
 ついでに言うと、彼らのお仕事はAVを作る事で、この場合のAVと言うのはオーディオ・ヴィジュアルではなく、アダルトビデオの方だ。
 しかも貴裕の場合は男性同士のAV作成がメインであり、大抵が受け入れる『ネコ』と呼ばれる立場にある。
 最近は色々あったおかげで売れっ子になり、仕事が結構な頻度で入り込んでくる。貴裕の名前だけで売れるようにはまだなっていないが、そのうちその名前だけで売れるようにもなるだろうと言われている。
『……できなくはないですけど』
 貴裕にしてみれば仕事なのだから拒む理由などない。
 それでもなんとなく腰が引けてしまったのは、以前『第一弾』を撮影した時に、ちょっとしたハプニングというか、失態を晒してしまったせいだった。
 あまり思い出したくない事だったのでなんとなく視線を反らしてしまい、そのこともしっかり把握済みの所長は、あのねと続けた。
『しばらくヒロちゃんのお相手はタカちゃんだけにするから、できないかしら?』
『え……?』
 どういう意味だと所長に目を向ければ、なんとなく申し訳なさそうな顔をした所長と目が合う。
『前回、色々あったでしょう?』
『そ、れは……俺のせいで』
『んん、でもね、純情って大事よ? いっくら体売ってお金を得る仕事って言ってもね、ココロなくしちゃったら無意味だと思わない?』
 そう思わない? と問いかけてくる所長は、この業界ではかなり異質だろうと貴裕は思う。
 決して無茶な仕事はよこさないし、何よりも男優や女優の気持ちを優先してくれる。
 貴裕が今同居(というか同棲)をしている相手の浩隆も同じ事務所に所属しているのだが、その彼と付き合いますと宣言した時も、あっさりOKしてくれたりするような人なのだ。
『はぁ……』
『前の時はね、ワタシの配慮が足りなかったの。ごめんなさい。だからね、しばらくヒロちゃんはタカちゃんと一緒にすることにしたの。幸いアナタたちが組むと売れるじゃない?』
『……売れ、ますか』
『売れるのよぉ、これが。どっかの掲示板の感想拾ってきたら、本当の恋人みたいーって。本物だからこそだけど』
 んふ、と笑った所長の目がぎらりと光る。
 売る事に関して妥協をしない所長は、損はしないだろうと踏んだ上でそんな提案をしたようだ。
『だからね、タカちゃんも安心してちょうだい?』
『や、あの……あの時はちょっと生で見て驚いただけなんで、気にしないで下さい』
 前回の撮影で起きた一騒ぎと言うのは、なくてもいいようなシナリオの都合上、浩隆が別の女性とセックスしている現場を目撃しなくてはならず、いざそうなった時に貴裕が号泣してしまったというものだ。
 今までも散々浩隆は仕事で別の女と寝ていたと言うのに、いざその現場を目撃すると言うのは初めての事で、らしくもなくただ呆然とした後、泣き崩れてしまった。
 その時のアレコレのおかげで、周囲にふたりが付き合っていた事がバレてしまったり撮影が一時中断されてしまったり、当初の予定と全く違った内容のものが出来上がってしまったりと色々あったのだが、まあなんとかなって今でもこうして仕事ができている。ありがたい職場だ。
『やーねえ、気にするわよぅ。でもね、こちらもお仕事だから色々注文つけるわよ?』
『はい。それはお好きに』
『んふ。だからタカちゃん好きだわー』
 にやり、と笑った所長の顔は、思い出してみると悪魔の笑いに見える気がする。
 そうして一ヶ月、タカは地獄を見るハメになったのだ。

 企画書によると、今度の貴裕の役どころは歌舞伎一座の女形で、浩隆がその一座の座長と言うものだった。
 座長とトップスターの禁断の恋。いいわよねぇー。なんて語尾にハートマークをつけながらうっとりと呟いたのは所長で、貴裕にはそのよさがどこにあるのかさっぱりわからなかった。
 そして貴裕は、より本物『らしさ』を追求するために、あろう事か本物の歌舞伎一座に放り込まれたのである。
 どうもその一座の座長が所長の知り合いだとかで、AVの仕事であると知っているにもかかわらず、座長はふたつ返事で貴裕の修行を許可してくれた。
 歌舞伎の基本中の基本から、着付け、化粧の仕方、カツラの使用方法、果ては本物の舞台稽古までつけさせられて、一ヶ月の間に一年は過ぎたのではないかと思うほど、貴裕は疲弊した。
 ほんのちょっと、すねかじり程度の期間でしかないのに座長の教えは厳しく、何か間違いをすれば容赦なく叱られ、時にはぴしゃりと足を殴られたりもした。
 鬼のような修行期間、だが座長は厳しいだけではなく、がんばっていると褒めてくれたりもしたから続ける事ができた。
 最後の日は、すねかじりの貴裕に、ほんの少しの間舞台というものを経験させてくれて、とても充実した日々だったと思う。
『これを機に、興味を持っていただけると嬉しいです。今度ぜひ観にいらして下さいね』
 最終日、そう座長に笑ってもらい、途中で仲良くなった役者にも送り出してもらって、なんだかとても誇らしく思えた。
 ただ与えてもらった技術を、これからAVなんぞに使うのだと思うとなんだか複雑で、そんな想いを抱えつつ帰ってきて、倒れるようにして眠りこんだという訳だ。





 泥のように眠った後の朝は快適だった。
 ちゃっかり隣に潜り込んで寝ていた浩隆の額をぺしりと叩いて起こし、朝食を食べる。
 今日明日は丸々オフで、明後日になればまた慣れ親しんだお仕事の再会だ。
「それで? 感想は?」
「んん、いい経験だったよ。疲れたけど」
 炊きたての白飯をぱくつきながら、浩隆の問いに答えれば、昨日はびびったと返ってくる。
「帰ってきたときすごい隈だしな。痕つかないといいな」
「ついてても今回は誤魔化せる。きつかったけど、楽しかったよ。座長さんいい人だったし」
「どんな?」
「俺が根を上げそうになってもさ、ちゃんと浮上させてくれたりとかな。あと手を抜いたりしなかったし」
「そか」
「歌舞伎って奥が深い。一ヶ月とかじゃなくて、ちゃんと勉強してみたかったなあ」
 演技力など皆無に等しいのだが、それでも楽しくて、プロにはなれずともきちんと勉強してもっと楽しめるようになってみたいと零せば、浩隆はむっとしながら首を振った。
「それはだめ」
「なんで?」
 いつもなら貴裕の要求の殆どを呑んでくれると言うのに、今回だけはむっとした様子で、どうも気に入らないらしい。どうしてと首をかしげれば、食事の手を止めて浩隆が見つめてくる。
「一ヶ月も会えなくて俺しんどかったのに、それ以上とか勘弁しろよ」
「ああ、そういう事か」
「うん、そゆ事。だからやめてね」
「別に本気じゃないって」
 くすくす笑えば、本当に勘弁しろよ、と複雑そうな顔で言われる。
 わかったわかったと軽く受け流しながら、その実喜んでいる貴裕の心の裡を、浩隆は一体どれだけ知っているのだろうか。




 ねえねえこれ着てみてよーと浩隆に差し出されたのは、一体どこから持ってきたのか女物の振袖だった。
 しかも綺麗に一式揃っている。
「……こんなものどっから?」
「所長に頼んで買ってもらったんだよ。この間の事もあるし快く引き受けてくださいました」
「……は?」
「今度の女形だって言うじゃん? 先に見たいなあとね」
 笑いながら言う浩隆の言葉が、まともではないことなどすぐにわかる。
『あの事』に対して所長に非はないし、ましてや所長がこんなに高そうな着物を買う理由もどこにもない。
「……お前、何した?」
 あんまり聞きたくないと思いながらも問い掛けてみれば、にやりと笑う浩隆が逆に問い掛けてくる。
「ききたい?」
 問われ、貴裕は反射で首を振ってしまった。
 なんだか聞いてはいけない事のような気がする。聞いたら恐ろしい目に遭うような気がする。
「じゃあ、聞かない方がいいんじゃない?」
 笑って言われてこくこくとうなずいた。
 浩隆はにこにこ笑っているのだが、こんな風にどこか寒気のする笑顔を浮かべる時にはなにかとんでもない事をしでかしている事が多い。
 かかわりたくないし、聞いてしまってそのケツを拭かなくてはならない状況になるのも嫌だ。
「そっちはきかないけど……いくら?」
 これ、と示した着物は、とにかく高そうだった。
 一座の衣装もとにかく豪奢で値が張りそうなものが多く、これもそんなものと同等ぐらいに見えたのだ。
「えっとねぇ、―――万円?」
 思わず自分の脳内で値段の部分にピー音が重なってしまった。
 いや、もう聞くまい。聞きたくない。
「……俺に、袖を通せと?」
「うんそお。ついでに着物プレイとかは俺の夢」
「……」
 にこにこと笑う浩隆と、広げられた着物を何度も見比べる。
 着物プレイと、言うか。このピー万円の着物を前にして。
「俺お前の感覚ってよくわからない……」
 頭がくらくらする、と言えば大丈夫かと心配された。
「ちなみにこれは借り物か?」
「借り物だったら着物プレイとか言えないだろ」
 ではちゃんと買ったという事か。所長が。
「お伺いしますが、着物プレイとは?」
「やーだなあタカくん。着物プレイっつったらやるこたぁひとつでしょうに」
 ほらほら時代劇とかでさぁ昔さぁ、とにたにた笑いながら言われて、こいつは本当にバカじゃないのかと思う。
 要するにアレだ、帯をひっぱってくるくるほどくアレをやりたいと言うのだろう。
「あ、もちろんその先もコミでね」
 なんて言ってくるから、もう怒りも通り越して呆れの溜息しか出てこない。
「……俺なんでお前と付き合ってるのかな?」
 頭を抱えてぽつりと呟く。それは浩隆に聞こえないように、口の中だけで言うつもりだったのだが、しっかりと声に出ていたようだ。
「好きだからに決まってんだろ」
 何言ってんの、とあっさり返されて嫌になってくる。
 そのあときらきら輝く目で見られて、結局折れるのは貴裕の方だった。
「……一回だけだからな。あと、汚すなよ」
「はいはーい」
 嬉しそうに答える浩隆に向かって盛大に溜息をついてみせながら、貴裕はばさばさと着ている服を脱いでいく。
 仕事柄人前で脱ぐのが当たり前になっていて、もう恥じらいがどうのとかどうでもよくなっているから、色気も素っ気もない脱ぎ方になる。だがどうも浩隆はそんな貴裕の脱ぎ方が好きらしい。どうもよくわからない思考の持ち主だと今更のように貴裕は実感する。
「なあなあ、ワンセット買ってもらったはいいんだけど、コレ何」
 帯と着物はわかるらしいが、襦袢の事までは知らないらしい。
 指差ししながら問われて、基礎の基礎しかわからないが貴裕は知っている限りで答えてやった。
「これが肌襦袢。着物の下着みたいなもん。で、こっちが長襦袢。肌襦袢の上に着る。で、最後に着るのが着物」
「っへー……」
「聞きかじり程度だけどな」
「着付け自分でできるようになったん?」
「……できなきゃ今着られないだろうが」
「そうでした」
 不躾な質問してすみません、と笑って頭を下げた男を横目に、ここ一ヶ月の間に仕込まれた着付けを済ませていく。
 その様子を浩隆は楽しそうに見ていて、時折茶化されながら着付けを終わらせれば、おおーと感動したように手をたたかれた。
「すっごいなぁ、タカ。本当にできた」
「……できなかったら俺の一ヶ月は何のためにあったんだよ」
「うんうん、よくがんばった」
 かーわいーと笑いながら抱きつかれて、帯が崩れると貴裕はつきはなす。せっかく苦労して結んだものなのだから、たとえ女物だろうとできてすぐに解くのは悲しすぎる。
「でもさー、着物ってなんかあれね、手出しできない感じ」
「?」
「何枚も何枚も重ね着してさ、完全防備って感じ?」
「……ああ」
 まあなんとなくわかるかなと思いながら、襟元を直す。
 その手元を見てごくりと浩隆の喉が鳴ったのを見て、手出しできないんじゃなかったのかと笑ってみせれば、意地が悪いなと呟かれた。
「着物ってうなじがエロくていいよな」
「こら、言ってる傍から盛るな」
「ちゃんと着てると完全防備だけどさあ」
 こうするとすごいエロくなるよねと言った浩隆は、貴裕の着物の合わせに手を入れて、広げるようにしてくる。
 鎖骨の全体が露わになるほどに広げられて、貴裕は焦った。
「こ、こら、本気でしゃれにならないから」
 離せ、と言っても離れる気配がない。というかむしろくっついてくるこの気配は。
「……っばか、やめ」
「いーじゃんいーじゃん」
「こ、着物、汚れるだろ……!」
「気にしない気にしない」
 あはははと笑いながら、浩隆は現れた貴裕のうなじにすいついて、さらに着物を脱がせにかかる。
「……っ!」
 中に入った手が胸の辺りをまさぐって、いい加減洒落にならなくなってきたと思ったところで。
「……!!」
 裾から入り込んだ浩隆の手に、目を見開いた貴裕は両腕を振り上げて叫んだ。
「この、いい加減にしろーっ!!!」
 久しぶりの怒声は部屋全体を震わせるかと思うほどに響き、振り上げた両腕は見事に浩隆の顎にヒットして尻餅をつかせて呻かせた。
「ひでぇなあ」
「誰のせいだ誰の! っこの大馬鹿!」
 ぜえはあと肩で息をしながら容赦なく浩隆を蹴飛ばして衿を直す。
 そうして息を整えてから、ぐいと浩隆の襟をひっぱって顔を近づけて
「……んん!?」
 驚く浩隆を無視して思いっきりキスをした。


「着物プレイはやっぱダ、メ」


 汚したら殴るしむこう三ヶ月はやらせてやんないと告げて、そんな殺生なと答えた浩隆の首に腕を回して艶然と微笑む。
「脱がせるのだけなら、いいよ」
 その言葉に浩隆が目を輝かせたのは言うまでもなく。
 その後はまあ、なすがまま。





 END