『黒電話に笑顔』
家の電話が鳴るのはとても珍しい事だと知った。
店の中にある電話と家のそれは別物で、店の電話は出版社からの営業やらなにやらでかかってくる事もあるのだが、家の電話は殆どなる事がなかった。
少なくとも、飴沼一縷という同居人ができてから一ヶ月間は、一度も鳴ることがなかった。
やけに古臭い黒電話。
プッシュ式ではなく昔懐かしいダイヤル式。
綺麗に黒光りしているそれには、指紋ひとつついておらず、携帯を持っている一縷も全く触れないその電話は、使われている形跡が全くなかった。
それが、一縷が暮らし始めてちょうど一ヶ月目に、音を立てたのだ。
リリリリ、と音も昔懐かしい。
鳴り響く電話、風呂上りにそれに遭遇してしまった一縷は、驚いて立ち尽くす。
(……出るべきか? いやでも俺店長の苗字知らないんだよな)
出るにしても、何と応対すべきか。
いや、この場合はきっと店長を呼んだ方が早いだろう。
と、言うわけで、大声で一縷は叫ぶ。
「店長ー! 電話が鳴ってる!」
「あーごめん今手が離せないから出てくれないかなー?」
叫び声にはそんな答えが返ってきて、一縷はもう一度叫んだ。
「俺店長の苗字知らないっス!」
「おおくに! 大那でよろしく!」
でってなんだと思いながらも、あっさり教えられてなんだか拍子抜けして、一縷は受話器を取る。
「はい」
苗字は教えられたものの、最近は詐欺がどうたらこうたらと煩いので、最初には言わないようにしている。確認されたら困るから訊いただけの話で。
『あ―――ええと、夜分遅くに申し訳ありません。ええと、レン……さんはいらっしゃいますか?』
電話の向こうの声は、少し戸惑っているようだった。
それもわからないではない。何しろこの家の住人はひとりだったはずなのに、全く別の声が出たのだから当たり前だ。
店長は一縷が住む事を他の人に話したりはしていないようだったし、驚くのも無理はないと思う。
「ああ、はいおります。失礼ですがお名前をお伺いしても?」
普段の仕事のノリで受け答えをすると、ええと、と電話越しの声が一瞬迷ったようだった。だがその後すぐに答えが来る。
『シュズ、とお伝え下さい。居留守使うと思うんですけど、出してもらえるとありがたいです』
「……はあ、かしこまりました。少々お待ち下さい」
なんだそりゃ、と思いながら受話器を置いて、店長の居る居間に向かう。
そこに居た店長は、何故かビーズアクセサリーのキットと説明書を前に奮闘していて、一縷は大きく溜息をつく。
「シュズさんとおっしゃる方からお電話です」
「ああうん、だと思った。いないって言ってくれるかな?」
「……居留守だってバレてますよ」
「知ってる。でも出ないから、よろしく」
「いや俺そんな間に挟まれて苦労するの嫌です」
出してくださいとお願いされましたから出て下さい、と言えば、ええーという目をした店長が、しかし一縷の顔を見た後にしぶしぶ腰を上げる。
「……一縷くんのお願いなら仕方ないか」
「いや、俺じゃなくて相手方のお願いですよ」
「一縷くんのお願いって考えた方が嬉しいんですよ」
にこっと笑いながら店長は一縷の横を通り過ぎて、廊下にある電話に向かう。
やだなあ、とぽつりと呟いた声は、嫌そうではあったけれどどこか嬉しそうで、どんな知り合いだろうかとちょっとの興味が沸いた。
だが電話の内容を盗み聞きするのはどうにもばつが悪いので、やめておく。
それよりも明日の朝食を考える方が一縷にとっては優先事項で、ほんの少しだけ聞こえてくる店長の声を背に、台所の冷蔵庫をのぞきに向かう。
そして明日も一日、同じような日が来る―――はずだった。
はぁ、と溜息を漏らしたのは店長だった。
朝に弱い店長が珍しくまともに起きてきて、朝食を食べ始めたはいいものの、そんな大きな溜息をつかれて一縷は戸惑った。
「……なんか不味いもんでもありましたか」
溜息をついたのが食べ始めてすぐと言う事もあって、何か味付けがまずかったかと思ったのだが―――いや今日の朝食は自分でも美味いと思ったのだが―――その問いに対して店長は「えっ」と顔を上げる。
「いや不味いなんてことある訳ないじゃないか」
まるで考えてもいなかったと言う表情に、じゃあどうしてと一縷は首をかしげる。
「でっかい溜息ついてましたけど」
「あ、ああ……ごめん。ちょっとねえ」
「はあ」
聞いちゃいけない事だったか、と店長の微妙な反応で思う。
誰しも触れられたくない部分というのがあるのは、自分もそうだからよくわかっているつもりだ。ことにこの店長は謎が多いどころの話ではなく、苗字すらもしらない状態だったのだから、その手の話はてんこ盛りだと思う。
序盤一ヶ月はどうにか無難に過ごしてきたのだが、ここに至ってその禁じ手に触れてしまったらしい。
とりあえず、相手が聞かれたくなさそうにしている事については、何も聞かないのがポリシーであるからして、一縷は話題転換に勤める事にする。
「飯の感想、なしですか?」
いつもなら言ってくれるのに、と少し拗ねて見せたのは半分ぐらい本心だ。
毎日あれが美味しいこれの味がどうと感想を言ってくれるのに、今日はそれがない。だから不味かったのだろうかと不安にもなったのだ。
「あ、ああうん、すごく美味しいよ。この煮物また食べたいなあ」
そう言いながら店長が箸でつまんで口に運んだのは、大根の煮物。
出汁だけで大根その他の材料を煮込んで一晩寝かせて、出汁が染み込んだそこに香り付けの薄口醤油を加えて、からし味噌で食べる。おでんの変型のようなものだが、おでんよりさっぱりしていて、冷めてもいける。
一見難しそうに見えるがその実は放置で済むので、時間はかかるが楽な料理だ。
「気に入ったならまた作ります。他は?」
「浅漬け、柚子入れるようになったんだ?」
爽やかでいいね、と笑った店長の口に、ひょいひょいと浅漬けが入って消えていく。
「この間安くて買いすぎちゃったんですよそれ。早く食べないとダメになっちゃうんで入れてみました」
「うん。俺こっちの方が好きかな」
「じゃ、今度からそうしますね」
最初のうちは全くリクエストと言うものをしてこなかった店長だったが、最近はさっきの浅漬けのように、ちょっと味を変えた同じ料理を出すとどっちが好きだと訴えてくるようになってきた。
些細な変化であるが、とても重要で、もう少しかなと一縷は考えている。のだが。
「あ、でも一縷くんが食べたいものあったらそれでいいんだからね?」
こんな事を言ってくれるものだから、ちょっとは前進したものの、食べたいものをリクエストさせるまでの道はまだまだ前途多難ではあるようだ。
(難しいんだよなあ、この人)
何考えてるのか本当にわからん。
そう思って端を口に銜えていたら、今度はこちらがどうしたのと問われてしまった。
「一縷くんこそ、ここに皺寄せてどうしたの」
考えこんでいたおかげで皺の寄っていた眉間を押されて、表情を変えるほどに考えていた自分に気がついて、なんだか気恥ずかしくなる。
(……意地になってるなぁ)
どうやら自分は、目の前の人に気に入られたいと思っているらしかった。
今までの、お世辞とも取れるそれではなくて、簡単に「はいそうですか」と返せないような真剣さで、だ。
「いつになったらわかるのかなあと思っただけですよ」
「んん? 何が?」
「さあ、なんでしょう?」
言ってやるもんかと思いながら告げた言葉は、存外嫌みったらしくて嫌になる。それでもその口元にはそれだけではない笑みが浮かんでいて、店長が気分を害すことはなかったようだ。
店長の方も、この話題が何かまずいものだと思ったらしく、あ、とわざとらしく思いついたように言う。
別にまずい話題でもなかったのだが、何か思い出したのは事実だったようなので、一縷はなんですかと首をかしげてみせた。
「一縷くん、俺が3日くらい店あけても大丈夫かな?」
「……あー、いつからっすか?」
「早ければ明日から。でも一縷くんの都合がつく時でいいよ」
言われて頭の中で予定を確認する。
授業はまあ代筆を頼めばなんとかなるだろうし、単位が危ない訳でもないし。
「いいですよ。でも何かあったら連絡したいので連絡先だけは確保しといて下さいね」
この店長は店に居るのが殆どだから、携帯電話を持っていない。
故に外出されてしまうと帰ってくるまでは連絡がつかないことが殆どだから、長期になってしまうといささか不安だ。
「それは大丈夫。番号置いていくから、ウチの電話でかけてくれれば」
「いや登録してもらえば携帯でかけますよ?」
「あ、いやウチの電話がいいんだ」
携帯を取り出せば店長に首を振られてしまった。電話代がどうのとかではなくて、何かどうも理由があるらしい。
だがその理由を話してくれないあたり、多分『触れてはいけない』話なのだろう。
「……わかりました。その代わりちゃんと出てくださいね」
「それはもちろん!」
こくこくと頷いた店長は、そこでやっと笑顔になって朝食を食べる。
味噌汁をすすって、白飯一杯目を食べ終えた後、おかわりと言うその茶碗を受け取りながら、そうだと一縷は問い掛ける。
「どの辺りに行くんですか? それとも聞かない方がいい?」
「島根の方」
「そりゃまた遠くっすね」
「昔の後輩にね、ちょっと呼ばれちゃって」
人使いが荒くて嫌なんだよねえ、と笑いながら店長は渡した茶碗を受け取ってその上に一縷手製のふりかけをかける。
ごまと海苔と鮭のフレーク、それから刻んで炒ったしょうがをまぜたものだ。
アレルギー持ちで魚も肉もだめと聞いていたのだが、なぜかこれは平気らしい。
店長は思ったよりも大雑把な性格をしていて、一部食べられるものもあるのに、面倒くさいからという事で全部だめと言ったようだ。
だが鮭のフレークは大丈夫でも、生の切り身はだめだと言うから不思議だ。それはアレルギーと言うよりも食わず嫌いではないかとも思うのだが、それ以外では確実に泡を吹いて倒れると言うのだから、アレルギーには間違いないのかも、しれない。
「あ、昨日の?」
「そうそう。シュズくん行かないと怒鳴るから怖いんだよ。いっつも居留守使ってたから今度は余計に怒られるかなあ」
それはあなたが悪いんじゃ……と思いつつ一縷は何も言わない。
下手に口を開くとどうも不味い方向に言ってしまいそうで、なんとなく何も言えなかった。だがどうしてか、確信を言わないくせに店長は何かを話したがっているようにも思える。
その辺りを感じていても、上手く訊く方法がわからずただ一縷は黙っているしかない。
(……まあ、もう少し経ってからでも)
多分大丈夫だろう。なんて思ったのは、多分この店長がこの先もここにいるんだろうと、おかしな確信があったからだった。
「さて、ごちそうさまでした。今日もおいしかったです」
色々考えているうちに、店長は朝食を食べ終えていて、慌てて一縷も最後の残りを口に入れて、噛むのもそこそこに飲み込んで立ち上がる。
「帰ってきてぐちゃぐちゃになってても文句言わないで下さいね」
「一縷くんはそんな事しないでしょう」
「わかりませんよ、そんな事」
「いやいや、信頼してます」
にこにこと笑って言われて、負けましたと両手を上げた。
この店長にはどうやったところで敵うはずがないのだと、久々に思い知る。
ちょっと悪戯してみようと思って、それが思いっきりスルーされてしまう感じだ。
「努力はします。とりあえず」
「よろしく頼みました。なるべく早く帰るようにするから」
「ゆっくりでもいいですよ。たまにはどっか出かけるのもいいじゃないスか」
「うん。まあ、そうだね」
「?」
目を伏せて頷いた店長の反応にまた地雷を踏んだかと焦る。
だがぱっと顔を上げた店長は笑顔で続けた。
「じゃあ今日、多分一縷くんが帰ってきたら出かけると思うからよろしくね」
「はい、了解しました。気をつけていってらっしゃい」
ぎくしゃくしたまま送り出すことがないように、にこりと笑って言ってみると、なぜか店長は目を見開いて動きを止めてしまう。
何にそんなに驚いたのかわからず、ええと、と戸惑っていたら、息を呑んだ店長がびっくりした、と呟いた。
「……びっくり、って何に」
「あ、いや、俺そう言えば『いってらっしゃい』って言われるの初めてだなと」
思って。と続けた店長は、ああびっくりしたと手の甲で頬を擦りながら笑う。だがその言葉を聞いた一縷の方が、今度はごくりと息を呑む番だった。
(……思ったよりヘビーなのかなこの人)
にこにこ笑っている店長の、その顔が全てだなんて思ってはいなかったのだが、今思っている以上に結構波乱万丈な人なのかもしれないと考えを改める。
なんというか、自分ごときがあんまり手出ししてはいけないような人だったのかもしれない。と考えたところで時既に遅し、だ。
「送り迎えの挨拶ぐらいいくらでもしますから、事故らないで帰ってきてくださいよ」
とりあえず店長が嬉しそうにしているので、それぐらいなら何度でもしてやると笑って、一縷は店に向かって歩く。
そろそろ開店の準備を始めなくてはならない。
朝の準備を手伝うのはもう日課になっていて、何も言わずに店長もあとからついてくる。
そうしながら一縷の言葉に店長は、今まで見たことがないぐらいの極上の笑みで頷いた。
「うん、わかりました。ちゃんと帰ってきます」
その笑みに驚いて思考が停止してしまったなんて、ないしょだ。
END
本屋さんシリーズよっつめ。
店長がなんだか怪しい動きをはじめました。
一縷は落ちるのか落ちないのか。