『日常』
ちゅんちゅん、と漫画やドラマの朝の表現として使われるそれは、勿論現実でも聞こえてくるものだ。
遮光ではないおかげでしっかり朝日が差し込んでくるカーテンの向こうから、楽しそうな鳥の鳴き声が聞こえてくる。
朝日が思いっきり瞼の上に差し込んで、そこだけ焼けると思いながら、飴沼一縷は目を擦って開く。見つけた時計が示す時間はまだ朝の6時を回って少し。
「……夏ってのはなんだってこう」
朝は早いし日差しは暑いしでいいことなしだ。
薄っぺらい上掛けは夜のうちに無意識にはいでしまい、布団から遠く離れた場所に飛んでいる。そんなに暑かったのかと自分の事でありながら嘆息して、起きてしまったものはしょうがないと上半身を起こす。
「……あれ?」
そこでようやく、一縷は自分の目が映しているものがいつもとは違う事に気がついた。
「あ……あー、そっか」
つい先日、一縷はそれまでに住んでいた家を引き払ったのだ。
それはルームシェアしていた同居人が女と手と手を取ってどこかへ消えてしまい家賃が払えなくなったから泣く泣くと言う、大変情けなくかつ理不尽な理由なおかげだったのだが、色々あって住む家だけは見つかった。
そしてこの部屋に住むようになって一週間。
寝ぼけたおかげで記憶が退行してしまい、どこか知らない場所へ来たような錯覚に陥ってしまったらしい。
「……ああ、そうだ朝飯」
寝癖のついた頭を掻き毟りながら、一縷はここ一週間の癖になっている言葉を呟く。
この部屋を借りる条件のひとつが、この家の主に『食事を作る』ことだったから、毎朝こうして忘れないように自分に言い聞かせている。
この部屋は破格の条件で借りている。だからここの主には足を向けて寝られないし頭も上げられない。
食事を作ること、光熱費は自分で。それから何かがあった時には必ず、この部屋の下にあるバイト先の書店に駆けつけてくること。
それがこの部屋を借りる条件だった。それさえこなしてくれれば、家賃は一切必要ないと言い切ったのは、この建物の主であり、現在の一縷の雇い主でもあるバイト先の店長。
名前はレンと言うらしい。それ以外は知らない。聞いてもはぐらかされるばかりなので、いつの間にやら聞く事もやめてしまった。
人外かと思わせるような外見を持つ、自分のアルバイト先の店長との付き合いは結構長い。
18になってすぐにアルバイトを始めて、いま自分は21歳だから、仕事を始めてからは3年。だがそれ以前から常連客だったから、そのぶんを含めればもうすぐ二桁になる気がする。
アッシュグレイの目と髪の色をした、日本人にはまるで見えない店長。肌も白く、やたらと美人なのでお客さんにも大人気。
少し釣り目ではあるが、いつも微笑んでいるためにさしてきつい印象はない。にこりと微笑む顔は天使のようだ―――と、いつだったか常連客のお姉さんが言っていた。まあ確かにその通りだとは思う。
思わざるを得ないぐらいに、店長は美人だ。性格云々は別として、の話だが。
すったもんだの挙句になだれ込むようにこの部屋にやってきて一週間、上手くやっているとは思う。
料理も好きだから、まあ問題はない。
最初に『俺は好き嫌いが激しい』と宣言した店長の言葉は決して嘘でも冗談でもなく、本当に好き嫌いが激しくあれもこれも食べられないと言われたが、なんとかやっている。
「……っつかどうも好き嫌いっつーよりアレルギーっぽいんだよな」
着替えを済ませ、自室の隣にある洗面所に向かいながら一縷はぶつぶつとつぶやく。
部屋に住む事になった初日。店長は部屋を使う際の諸注意と共に、自分の食事について語った。
あれは食べると湿疹が出るだこれは食べると泡吹いて倒れるだのと色々言われたから、単なる好き嫌いという訳ではないのだろう。
そして色々問題が多いのだといわれ渡されたものは、病院の診断結果の紙。アレルギーを調べた後にもらえる診断結果の紙の枠には半分以上、陽性を示す黒丸があった。
「あんなにアレルギー持ちであの人何食ってたんだよ」
まず肉、魚は全滅で卵もだめ。米や小麦へのアレルギーはなかったが、一部の野菜にもアレルギーがあると来た。
食えるもんあるのか。というのがまず最初に思った感想で、初日は四苦八苦しながら夕飯を作って―――それでもおいしいと言ってもらえたから嬉しかった。
(今日はどうするかな)
部屋に来てから一週間。
面倒くさい事この上ない食事の準備を、さして苦もなく行えるのはあの一言があるからだろう。
『ありがとう、おいしかったよ』
絶対に笑ってそう言ってくれるのだ。
だから一週間きちんと作り続けてこられた。
「雲泥の差だな」
苦楽を共にした仲間を見捨ててひとりどこかへ行ってしまったルームメイトの事を思い出して苦笑を浮かべ、顔を洗い歯を磨いた一縷は台所へと向かう。
主は日本人離れした外見の持ち主だが、この家は主のそんな外見とは全くかけはなれた純和風の内装だ。
部屋の床は畳でフローリングは廊下だけ。
キッチンと言うよりも台所と言うに相応しい調理場に、何故か風呂は五右衛門風呂。
「……なんか見た目よりでかいんだよな、この家」
駅前のロータリー横の通りにあるこの建物は、外見と中身が一致しない。
外から見えるのは建物の正面だけなのだが、そこからどう見たってこんな広さがあるとは思えないだろう。
一縷の部屋は八畳あるし、その部屋が同じ三階にもうひとつ、それから四畳半がふたつ。
二階はホールのようになっていて、そこに色々と物が詰め込まれている。在庫だったり私物だったり、色々だ。
キッチンは一階の店の奥。風呂も同じくで、男ふたりが楽々入れるぐらいの広さはある。
なんというか、見た目と中身が一致しない上に、なんとなくおかしなつくりをした家だ。階数ごとに間取りを思い浮かべてみると、上下の階と幅その他色々が一致してくれないのだ。
「……へんな家」
だがそんな事を気にして人生がどうにかなる訳でもないし、とにかく住む家があるだけありがたい一縷は、その疑問を投げ捨てて台所へと到着した。
冷蔵庫の中には、数日前に一縷が買いあさってきた材料が詰め込まれている。
それらの料金は全て一縷の財布の中から出ている。店長は自分の分は自分でと言ったが、家賃がない代わりに食事代は出させろと凄んで納得してもらった。
かなりの偏食なくせにあの店長はよく食べるから、食事を作る時は一縷のぶんを含めて3人前を用意しなくてはならない。一縷が食べるのはもちろん1人前だから、残りは全て店長の胃袋の中だ。
「何にすっかなぁ」
冷蔵庫の前に立って腕を組みながら一縷は唸る。
そのドアに張られている白い紙には、店長が食べられないものを書き出したメモ。
毎回毎回これとにらめっこをしながら何を作るか考えるのだ。
万一があっては怖いから、店長が食べられないものは(肉や魚は別として)買わない事にした。が、それでも何かミスがあっては怖い。
働く場所がなくなるのも、住処がなくなってしまうのも嫌なのだ。
「味噌汁と浅漬けとアレでいっか」
アレというのは一縷のオリジナル料理の一つで、名前がないからアレだのコレだのと適当に呼んでいるものだ。
本当は肉を使うのだが、肉は使えないから豆腐を代わりに使う。
水気を取った豆腐を崩して、適当に野菜をぶち込んで丸めて焼く。ポン酢で食べるのが結構イケるそれは、ハンバーグの変形のようなものだ。
今日はほうれん草と細かく刻んだにんじんともやしを入れた。
つなぎもなにも入れないから形を崩さないように焼くのにコツがいるが、それ以外はそんなに難しいことでもない。
浅漬けは冷蔵庫の中に常備してあるから器に盛るだけ。
ジャガイモといんげんの味噌汁は自分の好物で、てきぱきと30分ほどで準備を済ませたところにタイマーを入れておいた炊飯器の音がする。
「よし」
完璧、と心の中で時間通りに準備ができた事を確認しながら頷けば、出来た朝食の匂いに誘われて、一縷の雇い主が現れる。
「おはよう、今日もいい匂いだねぇ」
朝に弱いらしい店長はほんの少しぼうっとしながらも、朝食の準備の手伝いをしてくれる。
炊きたてのご飯と味噌汁をよそって盆にのせて食卓へ運ぶ姿は、なんとなくむず痒いような感じがする。外人のような外見をしているくせに、この店長の中身は純粋な日本人だ。
「いただきます」
準備した食卓をふたりで囲んでの朝食。
必ず手を合わせて挨拶する店長の流儀に合わせて、一縷も同じように『いただきます』をする。
ぺこりと頭を下げた店長が箸を動かしたのを見て自分も倣うが、いつも店長の口の中に一口目が入っていくまで絶対に口をつけない。
じっと店長の箸の行方を見守って、料理が口の中へ運ばれて咀嚼して飲み込まれ
「うん、おいしい」
その言葉が来るまで、一縷は絶対に自分の作った料理を口にしないのだ。
おいしいという一言を聞いてから料理を口にするのが癖になったのは、ここ最近の事だ。
前のルームメイトは何か作ってやっても黙々と食べるだけで感想も言わなかった。だから店長に感想を言われ、ぽかんとして食べる事を忘れてしまった初手から、ずっとこんな感じになっている。
「一縷くんは料理が上手いね。生き返った感じがするよ」
「……俺より上手いやつなんてごまんと居る気がしますけど」
「いやいや、愛情の差という奴ですよ。俺にとっては一縷くんの手料理が世界一美味しい」
「だからそう言う事は女性に言ってあげて下さい」
にこにことそんな褒め殺しの台詞を言わないで欲しい。
人間離れした外見を持つ店長は、そんな言葉を言うのがお得意で、誰に対しても惜しげもなく振舞うからおかしな人だと思うのだ。
おまけにちょっと電波だなあと思うのは、一縷が投げかけたとある質問に対して返ってきた一言のせいだ。
『縁結びのカミサマだから』
聖母のような微笑で、そんな事を言ってくれた瞬間の強烈さと言ったら忘れられない。
それがまた冗談でなく聞こえるような美貌の持ち主なのも悪かった。
それに加えて、その言葉を裏付けてしまうような現象が、一縷のバイト先―――つまりこの店長が開いた店にはおきているのである。
―――あの本屋で告白をすると成功する。
そんな噂が立ったのはいつ頃だっただろうか。
少なくとも一縷が常連になった頃にはもうその噂は出来上がっていて、そして働き出してから知ったのだが、それは10割に近い真実だったのだ。
そして成功するのは店長が見ている場合のみ、とくれば信じてしまいたくもなる。
にこにこと笑う店長の真意をつかめないまま、例の回答を得た会話はうやむやになってしまい、ここまで来てしまった。
「店長」
「はい?」
「俺今日は授業あるんで、昼飯。昨日のうちに作っておいたんでそれ食べて下さい」
「え? 授業あるならそこまでしなくてもよかったのに」
「俺がやりたくてやったんです。そこは気にしないで下さい。そのままでも食えるけどあっためた方が美味いんで、レンジで30秒ぐらいチンしてから食べて」
「うん。ありがとう。でも無理はしなくていいからね?」
「してません」
即答して一縷は自分の朝食に手をつける。
ぱくりと口に入れた豆腐の野菜ハンバーグはなかなかの味だった。
(大根おろしとかでもいけるかな、これ)
などとおよそ21歳の学生男子とは思えないような家庭じみた思考をめぐらせながら、次はずずと味噌汁をすする。こちらはちょっと味が濃かったから、今度は味噌を減らそうと思う。
「で、食ったら箱開け手伝いますから手が空いた時にキッチンの片付けお願いします」
今日の入荷多いですよね、と問い掛ければきょとんとした顔で店長はいいよと言ってきた。
「ん? いいよひとりでもできるし」
学校あるならそちらを優先して下さいと笑う店長に、なぜだか一瞬ちくりと痛みにも似たようなものを覚えて一縷は目を細めたが、それは一瞬だけで、正体を掴めないまま消えたそれを無視して一縷は言う。
「手伝います」
言った後に味噌汁をすする。
その後ちらりと見た店長は、驚いたような表情をした後にほんの少しだけ笑って食事を再開する。
「一縷くん、大学で人気じゃない?」
「……は?」
ずず、と味噌汁を吸っていたらそんな事を言われて危うく噎せるところだった。
くすくすと笑いながら言う店長がどうしてそんな事を思ったのかよくわからないが、とりあえず事実は全く逆だ。
「人気のにの字も俺にはないですよ」
大体外見も中身も平々凡々な自分に、店長が言うような自体が起きるはずもない、と一縷は考える。
全く持って普通なのだ。黄色人種独特の黄味を帯びた白い肌は、さほど筋肉がついているわけでもないからなよっちく見えるし、髪形もさして特徴がある訳でもない。昔切ったまま伸ばしっぱなしだからざんばらで、長さもまちまち。顔はと言えば、本当に特徴らしい特徴もなく、でかい目を持っている訳でもないし切れ長でもないし、とりあえず二重ではあるが、だからと言ってそれで得をした事もない。
特徴らしい特徴と言えば、ほんのちょっとだけ福耳なことだろうか。
だからと言って何があるという訳でもなく、大学では適当に友人とつるむだけで人気の欠片もありはしない。
「……あれ? そうなんだ」
「見てわかんないですか。平々凡々ですから。俺」
「外見ってそんなに大事なもの?」
「さあ? 他人の基準はよくわかりません」
まあそれなりに良い方が得はしますよねと他人事のように呟けば、そうか得するのかと店長が頷いている。
その顔で自覚がないのかと心の中で突っ込みながら、ずずず、と一縷は味噌汁の最後を飲み干す。
目の前の店長は白飯をぱくついていて、それよりも先に食べ終えた一縷は両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「相変わらず早いねえ」
「高校の頃早食いしないと食いっぱぐれてたんで。早くなりました」
「あ、学ラン着てる一縷くんちょっと見てみたかったな」
「はぁ……多分解いてない荷物の中に卒業アルバムあると思いますけど」
「本当? 見たいな」
「見つけたら渡します。じゃ、俺先に店に行ってますから」
先に言って今日の入荷の荷解きをしていると告げれば、それまでのゆったりとした箸の動きがスピードを増す。
「や、急がなくていいですから」
「いやいや、そんな訳にはいかないでしょう。5分で行くから」
「はい。じゃ、ゆっくりやってます」
急いで喉に食事詰まらせないでくださいねと告げて、一縷は台所に食器を片付けた後店に向かう。
店の入り口付近にはダンボールや袋につつまれた雑誌が積み上げられていて、これが今日のぶんの入荷だ。
「さーて、やりますかね」
荷解きをして、これを店に並べるようにするのが本屋さんの朝の仕事だ。これがまた結構大変なのだが、そこを悟られないようにするのがプロのお仕事というもので。
「うし、30分」
時計を見た一縷は目標時間を定めて雑誌の袋を開け始める。
「……またこりゃデカイ付録ですこと」
すごいなあと呟きながらてきぱきと作業をこなしているうちに、背中の方から足音が聞こえて店長がやってくる。
「俺こっちやるんで、店長アレお願いします」
「はいはい。悪いね、手伝わせて」
「これも家賃のうちです。っていうか本当に払わせてくださいよ」
時間外に仕事を手伝うのも、朝早く起きて朝食を作るのも、全てがんばる理由はそれだ。
何度払うと言ってもいらないとつっぱねられるから、せめてこれぐらいはしなければと思う。
「何度も言うけど、いりません」
「でも」
「必要になったらその時は請求しますよ」
「……まとめてとか言われても無理っスよ」
「言わないから、安心して下さい」
大丈夫だよ、と笑った店長は、その話はおしまいと言わんばかりに、一縷の傍から離れて別の仕事を始めてしまう。
だが小さな店だ、その気になれば店内のどこにでも声は届く。
「店長ー、雑誌置場がないっすー」
「んー? いいよ適当に面にするとか差しにするとか返品するとか」
「了解ー」
てきぱきと手を動かしながら、会話はのほほんとしていた。
暢気にしているようで、店長もやらなければならないことはきちんとするし、あれこれ小言は言うけれど、一縷もちゃんと信頼してはいる。
宣言どおり30分ほどで準備は終わり、一息ついた後に一縷は黒いデイパックを背負って店の扉を開けた。
「じゃ、いってきます。今日は5限まであるんで帰り遅いので気をつけて。あと夕食、食べたいものあったらメールして下さい」
「かしこまりました。一縷くんも、気をつけて。それからがんばって」
「はい。じゃ」
「いってらっしゃい」
ひらひらと手を振る店長の姿を背に、学校へ向かう。
そんな生活を始めてようやく一週間。やっと慣れてきたそんな風景が、きっとこれから当たり前になるのだろうと言う確信があった。
(なんか、自然なんだよなあ……)
見送られる事がむず痒かったり、相手に合わせて食事を作るのが難しかったりもするけれど、この一週間でその事に違和感を覚える事はなかった。
苦労もあるが、この生活が自然と体に馴染んでしまっている。
何もなければ、この生活が一縷にとっての『当たり前』になるのだろう。
「それもいいか」
店長は訳のわからない人だとは思うけれど、嫌いという訳ではない。
むしろその反対だし、何より昔から不思議だったあの人のいろいろがわかっていくのは面白そうだ。
「……今日の晩飯何にすっかな」
恐らくリクエストのメールはこないだろう。
何か食べたいものはあるかと、ここ一週間で何度か聞いてはみたが、あの人から返って来る答えはいつも『一縷くんが作ったものならなんでもいいよ』だ。
食べられるものが少ないから、もしかしたら食べたいと思うものがないのかもしれない。
食事は癒しだと考える一縷にとって、それはとても嘆かわしい事で、だったら自分にできる限りあの人に食事を楽しんでもらえるようにしたいと思う。
当面の目標は、それだ。
「絶対リクエストさせてやる」
そのためにも、まずは料理のレパートリーを増やさなければ。
そんなあれこれを考えながら歩いて、気がつけばもう大学についていた。
一縷はそんな現状に気がついて口元に笑みをうかべながら、校舎の中に入っていく。
そんな日常は、多分しばらくずっと、続くのだ。
END
本屋さんシリーズみっつめ。
これで終わらせる予定がまだ続きそうです。
果たしてこいつらくっつくんだろうか。