『賽は投げられる』
突然ですが、宿無しになりました。
飴沼一縷。飴の沼と書いていぬまと読みます。
いぬまいちる。21歳。
人生初の、路上生活が幕を開けようと―――…んなもん開けたかないですよ。畜生。どうすりゃいいんだ。
事の始まりは同居人の失踪だ。
どうも駆け落ちというやつらしく、同居人の男はひととき苦楽を共にした同士の事など忘れて、あっさり女と手と手をとってどこかへ消えてしまった。畜生、所詮男の友情は情欲の前には無力か。
ルームシェアというものをしていた自分に、同居人をなくして一ヶ月の家賃を払うあてはなく、泣く泣く契約更新を打ち切って新しい住まいまたは同居人を探すこと半月。
結局新しい住まいも同居人も見つからずにこうして宿無しとなりました。
大きな持ち物はとりあえず倉庫に預けて、銀行の預金通帳と印鑑は金庫に預けてきた。
友人に少しの間宿を貸してもらえないかと頼んでみようとしたが、夏休みに入ったこの時期、連絡を取れる友人は少なく、全員から断られた。曰く、ムサい男はいらん。曰く、彼女がいるからやだ。
……畜生、薄情者どもめ。
「残りは……あそこしかないか」
溜息をついて歩き出したその足が目指すのは、ある意味自分が一番馴染んだ場所ではある。
最近は大学の授業数も減ったおかげで、一日のほとんどの時間をあそこで過ごすようになっている。
その場所は一件の本屋。少し不思議な噂のある、自分のバイト先だ。
駅前にある小さな店。
棚は全部で5種類。文庫を置いている棚と、文芸書と雑誌とコミック。それからその他書籍がちょこっとだけ。
駅前にあるだけあって、それなりに客は入る。
だが店に居る店員は大体ひとり。多くてふたり。
自分はそんな本屋の店員で、店長は―――何と言うか、不思議な人だ。
黄味がかっている白ではなく、欧米人のような白さをした肌に綺麗なアーモンド形の目の色はアッシュグレイ。髪は長くて色がない。白髪というのとは少し違う、多分これは、銀髪という奴なのだろう。光を受ければ天使の輪というやつが浮かび上がる、まるでシャンプーのCMモデルのような髪は長くて、いつもひとつに括られている。
作り物めいた人形のような人だと最初は思ったのだが、ちゃんと動くし感情もあるし喋るし、人間なのは間違いない……と、思う。
いまいち言い切る自信がないのは、店のちょっとした『噂』に対する質問をした際の返答のせいだ。
噂と言うか、ジンクスのようになっているそれは、この店で『恋の告白をすると叶う』というもの。
それが本当に見事なまでにほいほいくっついていくものだから不思議に思って聞いたのだ。どうしてかと。そうして返って来た答えが
『だって俺縁結びのカミサマだから』
にっこりと。極上の微笑つきで。
……そんな事信じられるか。と言いたいところなのだが、どうにもあの店長を見ていると時々その言葉が正しいのではないかと思ってしまいそうになる。
そんな言葉を信じたくなるぐらいには、奇妙な行動の多い人だ。
で、まあなんというか、この不思議な人が自分の最後の頼みの綱という奴になっている訳である。
どうしてか自分はあの不思議な店長に気に入られているようなので。
勤め先の店長にこんな事を頼むのは常識はずれだとわかってはいるのだが、とにかくもうどうしようもないのだから仕方がない。
非常事態、という奴なのだからしょうがない。
(そう、非常事態なんだ。非常事態)
道すがら、何と説明しようかと考えつつ歩いていたらあっと言う間にバイト先に着いた。
入り口は手動のドア。アンティークのような外見をした木のドアは、開店している間は常時開放されている。その扉をすりぬけて店に入れば、店長の姿はすぐに見つかった。
小さい店だから視線を少し動かすだけで店内の殆どが見渡せる。だが見渡す必要もなく、店長は入り口脇にあるレジで、あろうことか―――すやすやと寝息を立てていた。
「……」
これから人生最大の頼みごとをしなくてはならない―――のだが。
レジまでは3歩。大股で一歩。
靴音を立てて近づいても店長は起きる気配がなく、これから何をするかも忘れて大きく息を吸い込み、そして。
「お、き、ろ!!」
店長の耳元で、自分は叫んでいた。
「うわぁっ!?」
耳元で叫んだ自分の声に、ばちっと目を見開いて飛び起きた店長はその後目を白黒させて辺りを見回した。
たっぷり数秒、きょろきょろと辺りを見てからさらに数秒して、ようやく横に立っている自分の姿に気がついた。
「…あ、れ? 一縷くん。今日入ってたっけ…?」
大きな声で叫びすぎたか、店長は叫んだ方の耳を押さえながら言って見上げてくる。
寝ぼけ眼は辺りを見回していた間だけで、今はもうしっかりとした視線を向けてきた。
「…違います。違うんですけどね。店番してる時に寝ないで下さい」
これじゃあ万引きし放題だ。そう言ってみせれば、大丈夫だよお客さんが来たらちゃんと気付くと笑って返された。
……俺が来てもぴくりともしなかったのはどこの誰ですか。
「違うんだったらどうしたの? お客さんて訳でもなさそうだし」
ああそうか、俺は『客じゃない』からこの人は起きなかったのか。
……どんな超能力だそれは。
「あー、ええとですね」
小言を言った手前、このお願いをするのは気が引けた。
そもそも雇い主にこんな事を頼むのは間違いだとわかっている。わかっているのだが、野宿は正直嫌だから、当たって砕けろという事で。
「……非常に言いにくい事なんですが、店長に助けてもらえたら、非常に嬉しいなあと」
「改まっちゃってどうしたの? 一縷くんらしくないね」
「いや……なんというか、情けないんですけど、もう本当にどうしようもなくて」
正直こんな事情けなくて言いたくはないのだが、背に腹は変えられない。
腹を括って、頭を下げる。そしてここに来る間ずっと考えていた言葉を叫んだ。
「……店長! この通りです。家がなくなったので宿を貸して下さいっ!」
当たって砕けろ、だ。これでだめならしょうがないから野宿だ。もう九割がた野宿決定なのはわかっているが、可能性があるのなら縋りつくのが自分、飴沼一縷という人間だ。野宿なんて嫌だし。
そうして頭を下げたその位置から、ほんの少し顔を上げて店長の顔色を窺いつつ返事を待っていれば。
「……は?」
きょとんとした顔で、そんな風に、理解不能だと告げる声が聞こえた。
かくかくしかじかで宿なしとなりました。
と説明するのに五分も必要なかった。
さすがにルームメイトが失踪したと言う事は言わず適当にふせて話をしたのだが、ふむと顎に手を当てた店長は何かを悟っているように見える。それなのに、その事につては何も触れずにただ何かを考える仕草を見せるだけだった。
普段は呆けたような顔をして、およそ店長らしくない行動をするくせに、こう言う時はなぜか鋭い勘を発揮するから人とはわからないものだと思う。
まあアルバイト店員のルームメイトがどうにかなったなんて話、店長にすればどうでもいい事だから何も言わないだけかもしれないが。
「……つまり、今住める家を探していると。そう言う事でいいのかな?」
「……そういう、事、です。はい」
情けないとうなだれながら頷いた。
店長が短くまとめた話は事実だ。どうしようもなく情けないが事実でしかない。
住む家が見つからなかったのは自分の力が足りなかったせいで、泊めてくれる友人がいないのは、認めたくはないが自分の人徳のなさのおかげだ。
目の前の、この人形めいた外見を持つ店長に断られてしまったら野宿決定。ビジネスホテルやカプセルホテルも考えたが、金が惜しい。
最後の頼りがだめならば住所不定になってしまう事は確実である。
一体俺が何をしたと言いたい気分だが、なってしまったものは仕方がない。とにかく生きていかないと。
と、どうにか生きる術を見出そうとしていたところに、だったらよかったと店長は拍手を打つ。
音を立てて両手を合わせた店長の顔には素晴らしいほどの極上の笑顔。そんなに嬉しそうな顔を見たのは初めてだったから驚いた。
……一体この状況のどこが「よかった」のだろうか。よかったどころか最悪なのだが。
「店長?」
にこにことしている店長の顔を見ながら首をかしげれば、店長はにっこりと笑って立ち上がる。そしてごそごそとレジの中にある引き出しを探って、何か小さなものを取り出した。
「……はい?」
店長の右手にあったのは、銀色に光る小さな鍵。まぎれもなく、どこかの、鍵だ。
「ちょうど住み込みで誰か来てくれないかなあと思っていたんだ。だから、よかったと思って」
ここに来る女性客の六割以上を虜にするらしい、ふわりとした笑みを浮かべた店長は、そう言って手に持った鍵を差し出してくる。
その鍵を凝視したまま受け取れずに居ると、どうしたのと言いながら右手に押し付けられた。反射で受け取れば、花が開く瞬間のようなと表現しても足りないぐらいの綺麗な笑顔が返ってきて驚いた。
「住み込みって……」
「ここで働いててくれれば家賃はいいから」
「は!? いやそう言う訳には……というかそんな簡単に」
「水道ガス電気その他諸々の光熱費は自分で。家賃なしが気になるなら毎日俺に食事を作ってくれる事。ちなみに俺は好き嫌いが激しいので物凄く苦労します。そこのところはご了承下さい。部屋はここの上。学業の時間は別ですが、何かあったらすぐ店に来る事。私生活をかなり拘束しますので、家賃なしはその分も含めます。ええとそれから……」
「ちょ、ちょっと待って。待って下さい」
「ん? 何か?」
「何かって。いや別に店にどうこうとか食事とかは別にかまわないんですけど、そんなにあっさりOKしちゃっていいんですか」
「え、いやだって一縷くんだったらもう随分長い付き合いだし。これは俺にとっても棚から牡丹餅な状況だと思うんだけどなあ」
ずっと住み込みの従業員がいてくれたらいいなあと思っていたんだと店長は笑って、だからお願いしますとこちらの方が頭を下げられてしまった。
なんだろうこの状況。こっちがお願いしに来たはずなのに、なんでだ?
「ああ、嫌だったら別に断っていいからね。多分かなりお店に時間取られると思うし」
迷惑だったら断ってねと笑った店長の声に、反射で首を振る。
藁をもつかみたい思いでやってきて、断られると思っていたのに思わぬ好条件を出されて誰がそのチャンスを棒に振ると言うのだ。
「めめめ、滅相もない! どうせやることないんで、仕事でもなんでもします!」
思いっきり首を左右に振って、短い髪が肌に当たって痛いぐらいにぶんぶん振って答えると、店長はよかったあとほっと息を吐き出してようやく手を離した。
ずっと握られていた手の中にある鍵は体温でぬるまっていて、こんなに小さいのになんだかずしりと重く感じる。
店長が自分をやたらと気に入ってくれている事は知っていたが、まさかこんなに優遇されるほどとは思っていなかった。
一夜どころか、住処を与えてくれるのならもうなんでもしようと思う。
掃除だろうが洗濯だろうが食事の用意だろうがなんでもしてやる。
さすがに家賃なしはどうかと思うので、そこのところは後で交渉するとして、とにかく。
てっきり断れるものだとばかり思い込んでいたから、心の中でガッツポーズをとっていると、店長が嬉しそうに笑いながら呟いた。
「今日の俺はついてるね。一縷くんは捕まえたし、売り上げも上々だし」
「捕まえたって……」
その表現はどうなんだ。
「俺はしつこいですよ。そこのところは覚悟して下さい」
心の中の突っ込みなど伝わるはずもなく、店長はにっこりと、天使の微笑みと呼ばれるそれを向けてくる。
見慣れていなければ呆然ともするだろうが、生憎自分はこの笑顔に慣れ切っているもので。
「それは知ってますけどね。長い付き合いだし?」
「もっと長くなってもらえると嬉しいなあ。俺は君の事が大好きだから」
ほらまたそう言う事を言う。
これだから変人だって言うんだ。
「……そう言う事ほいほい言うと誤解されますよ」
いやもう誤解はされてるのか。
そうでなければただの小さな本屋の小奇麗な(と言うには綺麗すぎる気もするが)店長にファンクラブにも似たものが出来上がるはずがない。
毎日の客の中に、店長目当ての女性が六割以上いる理由は、この歯が浮くような台詞をほいほい口にするせいだ。
そしてその歯が浮くような台詞を、こんな情けない事を頼みにきたアルバイトにまで言って見せるのだからおかしな人だと思うのだ。
「ん? 本心だから誤解も何も」
ないでしょう、なんて笑って言わないでほしい。
そんな店長の言葉のおかげで、睨まれた経験は片手どころか両手でも足りないのに。
「そう言う事は女性に言って下さい。引く手数多でしょうに」
「そうだねえ……でも、好きな人に言うのが1番でしょう?」
「その前に『異性の』がつきますよ。……まあ何でもしますけどね。一宿一飯どころじゃない恩義ですから。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
末永くよろしくお願いします、と頭を下げた店長の肩から、綺麗な銀髪がするりと落ちる。
綺麗な人だと思った第一印象は未だ健在で、こんな時に見える長い髪の間のうなじにどきりとした。店長は男なのに。男なのに。畜生。
手の中にある鍵が重く感じるのは、この人がどうしてこんなに自分を好いてくれているのかがわからないからだ。
店長が言うほど、自分が店に貢献している訳でもないし、結構店長に向かっていろいろと言いたい放題で、普通の職場だったら真っ先に首切りの対象になるような人間のはずだ。
アルバイトのくせに店長に説教垂れる人間のどこがいいのだろうか。正直言ってよくわからない。
「第一段階クリアってところかな」
「……は?」
「こっちの話」
顔を上げて意味不明な事をつぶやいた店長はそんな風に答えて笑う。
……さっぱり訳がわからないのは、まあいつもの事だから気にしない事にした。気にしたところで理解できないのだから、気にしたところで無駄なのだ。
「とにかく、よろしくお願いします」
すっと差し出された手。それを―――
自称縁結びのカミサマな不思議な店長との生活とやらがこの先どうなるのかなんてさっぱり想像もできやしない。
とにかくこれで宿無し生活は回避された。
この先の事は、この先になってから考えよう。
例え考えなかった先に何かがあったとしても、その時はその時だ。
人生当たって砕けろ。なんとかなるさ。
それが俺の―――飴沼一縷という人間のモットーだ。
生きてさえいれば結構なんとでもなるものだ。
人間やればできる。順応するのは、結構早い。
結構なんとかなるもんだ。
人間誰しも波乱万丈。
できればこの人生、平穏無事に終わりますように。だから。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
―――差し出された手を、今度は躊躇なく握り返した。
この時もうすでに、人生の価値観その他諸々をひっくり返す出来事が始まっているなどとは気がつきもしなかった。
賽は投げられ、転がり落ちる。
その目は、吉と出るか凶と出るか。
人生ほんとに、波乱万丈。
ああこの人生に、幸がありますように。
頼むから。
END
本屋さんシリーズ第二段。
『鱗ボーイズ』に投稿させていただいたお話です。
そのままではあれなので、ちょこちょこっと改稿してあります。
感想いただけると嬉しいです^^