――――――――――――――― Je tombe dans un sommei.






 久しぶりにここへ来た。
 がたんがたんと電車の通る音の煩い、『いつも』の居場所。
 そのいつもが、別の場所へと移り変わるから、最後の思い出にとここへやってきた。
 歌うのは、唯一のオリジナル曲。
 この曲を歌う時は、目を閉じながらアカペラで。
 むかしむかし、鳥になりたいと願った事がある。
 手の届かない空に向かって羽ばたいて、自由にどこへでもいけたらどんなに嬉しいだろうと思っていた。
 そんな頃にこの歌をうたって、それが悠の中の唯一となった。

 澄んだ声は、電車さえこなければその場所でよく響く。
 たまに通る人がほんの少しだけ、傍を通る間だけ悠を眺めて通り過ぎていく。
 その間だけでも聞いてもらえるのが嬉しくて、全部を聞いてくれる人は少なかったけれど、悠はこの場所で歌い続けていた。
 目立つ場所は悠が外で歌い始めた当時、全部とられてしまった後だった。残った場所で静かにひとり、歌えればいいのだとそう思いながら歌っていたから今がある。

 人生が180度ひっくり返る出会いをした。
 このまま静かに消えていくのだと、そんな事を考えていた悠を引っ張り上げて押し出された。
 その出会いは、半年ほど前の事だった。
(……奇跡みたいだ)
 それは本当に奇跡のような確率だっただろう。
 まあ、凄い嫌味な奇跡だったのだけれど。

「……第一声がヘタクソ、とか」
 酷いなあと、思い出した悠は小さく笑った。
 まさかそんな人から告白されるだなんて思いもしなかった。
 しかもその第一声の後に思いっきりぎったぎたに返り討ちにされた挙句に、人様に言えないような事までして、だ。
「まあ、確かにヘタクソだったけど」
 だった、と言えるのは彼のおかげだ。
 色々と教えてもらってびしばしやられたおかげで、悠の歌はあの頃とは比べものにならないぐらいに上達している。それこそ、オーディションに合格できるぐらいに。
「世界が変わるって、本当だよなあ」
 ぼんやりと呟いてしまうのは、あと少しすれば目まぐるしい世界に飛び込まないといけないからだ。
 きらびやかなだけではない世界だと言うのはわかっているつもりだ。
 そんな世界に入っていって、果たして自分はちゃんとやっていけるのかどうか。それについての自信は正直なかった。
 それでもそれを望んだのは、麻隆の存在があったからだ。
 麻隆がいなければ、悠はこんな事にはならなかっただろうし、なりたいとも思わなかった。
 自分の歌を聞いて欲しいと、公に言うなんて事は考えもしなかったに違いない。
 ただ好きな歌を歌って、穏やかで居られればいいとずっとそう思っていた。
「……それがこんな事になってさあ」
 人生ってよくわからない。
 くすりと笑いながら言って、悠は再び歌い始める。



 今ここで歌っても聞こえるはずなどないが、自己満足なのだからそれでいい。
 歌い終えて満足しながら息をついた悠は、さて返ろうと立ち上がろうとして、足音を聞いた。
 かつかつと聞こえてくる規則正しいそれに、まさかと思う。けれどこの足音は何度も聞いて、聞き間違えようのないほどに体の中にしみこんでしまっている。そして。

「“下手くそ”」

 楽しそうな声を聞いた瞬間に、ああやっぱり、と悠は振り返った。
 高架下に響く声は低く、それなのにどこまでも届いてしまうような気がした。
 しゃんと伸ばした背筋、高い背。黒い髪に黒い目。
 ノーネクタイのスーツ姿はもう見慣れたもので、それを見るだけでほっとするような、どきどきしてしまうようなそれは、麻隆以外の何者でもない。
 くすくすと笑っているのは、多分彼も同じことを思い出しているからだろう。
 何よりさっきの言葉がそれを物語っている。
「……少しは上手くなったつもりなんだけど」
 む、と眉を寄せた後、ふいっと顔をそらせて悠は反論した。
 そんな反応に、麻隆はなおも面白そうに笑ったまま答える。
「悪い、嘘だ」
 くすくすと笑いながらの謝罪だったけれど、悠の気分を害する事はなかった。
 むしろふっと笑って
「知ってます」
 そんな風に答えてみせる。言った後には舌を出しながら悠は麻隆へと視線を向けた。
 腰を下ろしていた植え込みからすとんと降りると、麻隆が近づいてきて腕を取った。
「“じゃああんたが歌ってみろよ”が抜けてる」
 麻隆の行動が、一番最初の出会いをトレースしているのだと言う事は、最初の言葉から気づいていた。
 だからこそ悠は笑いながら言った。そうして振り返った彼の顔がしかめっ面でも怖くない。
「……歌った方がいいのか?」
 戸惑ったような表情をするから、たまらず噴出してしまう。
 ぷっと吹いたその後に、あははと声を出して笑うと、さすがにおいと低い声で言われて、ごめんなさいと慌てて謝った。
「……はは、ううん、いいです。言いたかっただけ」
 笑いをおさめた後にそう言えば、麻隆は無言で腕を引いて歩き出す。
 むっとしたような気配は伝わってくるけれど、どこか子供が不貞腐れているような気配と似ていて、悠はただただそれが面白くて笑っていた。
 まさか来るとは思っていなくて、しかもその彼が、こんな事をするなんて考えてもいなかった。
 見たことのない表情を見る事ができて、今日はラッキーだなと、そんな事を思いながらつれて行かれてたどり着いた場所は、当然。





 *   *   *





 何度も何度も啄ばむだけのキスをされた。
 本当に珍しく、麻隆の方から好きだと告げてきたのは、もしかしたら出会いの出来事を清算したかったからなのかもしれない。
 はじめのうちは、セックスフレンドとしか言い表せないような関係だった。
 それを変えてくれたのは麻隆で、それ以前にあれは同意の上での事だったのだから何も気にする事はないと思うのに、どうも自分よりも麻隆の方が気にしているらしいと、ここ最近で悠は思うようになった。
(……罪悪感、かな)
 ひとまわりも年下に手を出して、よく考えてみれば大変なスキャンダルだ。
 いや今でも関係は続いている訳だから、ゴシップ記者にでも撮られてしまえば大問題なのだろうけれど。
「……麻隆さん」
「ん?」
 夜の気配がほんの少しだけ感じられる麻隆に、小さな声で悠は問いかけた。
 気づいたら名前を呼んでいたから、その次に何を言うかまで考えていなかった。のだけれど。
「俺何も気にして、ないから。最初の頃の事とか、そういうの」
 どうかお願いだから、あの頃の事を間違いだと思わないで欲しいと、切に願いながら悠は続ける。
「俺、あの頃も嫌じゃなかったから。俺もちゃんと好きだから。だから、やり直そうとか思ってるなら、やめて下さい」
 出会った頃をトレースするような麻隆の行動。
 最初のうちは遊んでいるだけだと思っていたのだけれど、だんだんそれが贖罪のための行動にも思えてきた。
 豪胆なようでいて、麻隆は繊細な部分も多い。
 あの頃の事を気にしていたのは間違いがないし、それが原因でずっといえなかったとも言っていた。でも。
「頼むから、悪いとか、そういう事……んっ」
 思わないでくれと言おうとした瞬間、キスをされて口を塞がれた。
 さっきまでは啄ばむだけだった。けれど黙れと言うようなそれの方が、悠にとっては当たり前になっていて、悠の唇は簡単に薄く開いた。
「んん……」
 久しぶりのキスは悠の意識を簡単にさらっていく。
 強く抱きしめられてそれが嬉しく、もっとして欲しいと思うのに。
「あ……」
 あっさりと離れてしまったそれに、物足りなげな声が出た。
 もう一回とねだろうとする前に、麻隆の指先が唇に触れてくる。少し黙りなさいと示すそれに、おとなしくなった悠が待っていると、麻隆は笑っていた。
「後悔していないと言ったら嘘にはなる。だが悪いとは思っていない」
 もう少し別の形であったらもっと簡単に事は進んだのにと、そのことについては後悔しているが、悠に手を出したこと事態を悪いとは思っていないのだと麻隆は告げた。
「欲しいと思ったものは手に入れる主義だ。地位も、力も、アーティストも」
「……うん」
「離すつもりはないから、覚悟するように。言っておくが容赦はしない」
「……それ今の状況で言うとすごいよね」
「茶化すな」
「あはは、麻隆さんの困ってる顔ってなんか可愛いですね」
「……おい」
 笑いながらの悠の言葉に、麻隆は眉を寄せながら腕に力をこめてくる。
「苦しい」
 笑いながら言えば、不機嫌そうなため息が聞こえてきた。
 それでもその不機嫌がどこから来ているのか理解しているから怖くなかった。
「俺、がんばります。麻隆さんの期待に応えられるように」
 仮契約書類にサインをしてもあまり実感はわかなかった。
 まだ仕事が始まっていないせいもあるのだろうけれど、オーディションを受けて名前を呼ばれても、どこか夢のようで実感がわかないままだった。
 そんな状態だったのに、なぜか今麻隆を前にしてじわじわと実感が沸いてくるのを感じている。それが面映くも嬉しくて言った言葉なのに、麻隆は思ってもみなかったことを言う。
「……すぐに俺の手から離れていくさ」
「え……?」
 抱きしめる腕の力は強いくせに麻隆の声はとても静かで、冷静で。そして和やかに、微笑んでまでいて。
 その意図が、全くわからない。
「あ、さたか……さん?」
 名前を呼ぶ声が震えていた。
 予想もしていなかった言葉は、彼が別離を予測していると言う意味だろうか。
 もしもそうなのだとしたら。
「……あ、あの、あの」
 がんばろうと決めて、一緒に居たいと思った気持ちを、どうしたらいいと言うのだ。
 泣きそうになりながら、未だ力強く抱きしめてくる麻隆の背中にしがみつく。
 いやだとはっきりそう思って、けれど麻隆が別離を望むと言うのなら、全く動けないだろうと、そんな予測があった。
 じわりと視界が滲んできて泣きそうだと思う。
(……ああ、そっか)
 自分はこんなにも麻隆の事が好きだったのかと、ほんの一言だけでも涙ぐんで号泣してしまいそうになるぐらいだったのかと思う。
 それと同時に、どうしてそんな事を言うのか全く理解できず、怖くもあった。
 けれど。
「まあ、素直に手放してやれる自信はないが……ひとりで歌いたくなったら、言いなさい」
 ぎゅうと抱きしめてくる麻隆が、悠の肩に額を乗せながら言った。
 手放してやる努力はしようと言うその言葉に、しかし悠は首を左右に振った。
「いやだ」
「……ん?」
「ひとりでは、もう嫌だ。だから、やだ」
 もうずっとひとりだった。
 だけど麻隆と一緒に居る事の心地よさを知ってしまった。だからもうひとりにもどりたくないとすがり付けば、そっと麻隆が真っ白な悠の髪の毛を撫でてくれた。
「心配しなくても、離したりしないから」
「?」
 さっきの言葉とは矛盾するそれの意味がわからず、どう言う事だとほんの少し首をかしげていると、麻隆がほんの少しだけ離れた。
「こう言う意味では、離れるつもりはない」
 笑いながらほんの少し軽く音をさせて、唇が触れて離れた。
 驚いて悠が目を見開いていると、麻隆はただ笑っている。
「……口で言って下さい」
 この人はとんでもない恥ずかしがり屋で、それに似合わず手が早い。
 この上なくわかりやすいようでわかり難くて、ほんの少しぐらい言葉をくれたっていいだろうにと悠は思う。
 拗ねたような目で見上げれば、麻隆は何か困ったように笑っていた。どうやらこれは照れているらしく、しばらくしたあと盛大なため息と共に麻隆は呟いた。
「勘弁してくれ」
 小さな声の後、キスをされそうになった悠はその直前でばちんと麻隆の顔を叩くようにしてブロックする。
 なんで、と掌越しに言われてびくりと目を細めながら、今日は負けてたまるかと悠は麻隆を睨みつけた。
「悠?」
 名前を読んでくれる声にぞくぞくした。この人の声は本当に怖い。
 麻隆の声は人を――少なくとも悠を縛る。言う事を聞いてしまいそうになる。
 だが今日はその声は効かないと自分に言い聞かせながら、悠は言った。
「いつか麻隆さんにおいついて、横に立てるようになるから。だから」
 今日その言葉を聞くことができたら、次は遜色なく、絶対の自信を持って隣に立てるようになるまでは言わなくていいからと言ってしがみつく。
「俺麻隆さんの事好きです。だか……っ」
 だから、と言おうとして言えなかった。
 しがみついていた体を引き離されて、座っていたソファの上に押し倒されていた。
「んん!?」
 そのまま噛み付くようにキスをされて目を見開いた悠は、けれどこれで負けてたまるかと、のしかかってくる麻隆を押し返す。
「あ、さたか、さんっ!」
 こんな風に流されてしまうのは嫌だと必死になっていると、ふいうちで押し返していた腕が軽くなった。そのままバランスを崩しかけていると、再び乗りかかってきた麻隆に抱きしめられて耳元に唇が寄せられる。
 それから。
「――……きだ」
 小さく。本当に小さな声で告げられた言葉に悠は目を瞠り、次の瞬間には少し前とは違う意味で視界がぼやけた。
「……こえない」
 きこえなかった。泣きそうになりながら震える声でもう一度と強請り、そうして聞こえた声に今度こそ本当に泣いた。
 好きだ、悠。
 そんな声が聞こえて、ねだっておきながらきっとこれは夢なんだと思った。
「麻隆さ……」
 だってこんなに嬉しい事があったら心臓が爆発してしまいそうだ。
 だからこれは夢で、きっと、いい夢で。
 それなのに、感触がする。触ると温かくて、自分が流した涙はしょっぱかった。
「……あさ、あさたか、さ……これ、夢?」
「……は?」
「だ、って。俺、なん……なにこれ……ふ……っ」
 ぼたりと落ちたものはぼろぼろとこぼれて止まらなかった。
「……どうした?」
 何か意外なものを見るような目で見られるからさらにいたたまれなくなって、悠は涙の止まらない目を両手で覆う。
 なんでもないとも言えず、ただしゃくりあげていればやさしくなでられて、それでまた止まらなくなってしまった。
「ああ……まあ、いいか」
 しばらくの間戸惑っているような麻隆だったが、しばらくすると頭を撫でたまま頬に何度かキスをして頭を撫でていてくれた。
 何分なのか何十分なのか、それはよくわからなかった。
 しゃくりあげて泣く悠の頭を、見えないように抱きしめてくれていた麻隆の服が濡れてぐちゃぐちゃになるぐらいには泣いていて、顔を上げた悠が鼻を啜りながら謝ると、別にいいと笑われた。
「落ち着いたか?」
「……はい」
「じゃあ顔を洗って、風呂に入ってくるといい。沸いてるから」
「……え、あ、ええと」
 涙で顔がすごい事になっているのはわかっていたし、麻隆の服はもちろん、悠の服も自分が流した涙でぐちゃぐちゃだった。
 だから風呂に入ってしまえと言われるのはわかるのだが、その後の事を考えて悠の顔は赤くなる。
 そんな悠の変化を見て「ああ」と声を出した麻隆が、笑いながら悠の顔に手を当てた。
「別に何もしないから、安心してろ」
 行っておいでと余裕の顔で背中を押されて、少し残念に思ったのは内緒にしておこうと思う。
 ここ最近ですっかりなれてしまった部屋の間取り。
 大きなクローゼットに用意された自分の服を適当に取ってバスルームに向かう。
 湯気の立ち込めるバスルームは、広いスイートルームに比例してこちらも広く、正直貧乏性な悠からするとため息が出てくるほどのものだ。
 お湯を浴びて浴槽に浸かれば、多分麻隆が体を伸ばしてもおつりが出るぐらいに広い。
「お金持ちだよなぁ……」
 本当にとんでもなくお金持ちだ。
 お湯を掬い上げながらそんな事を考えて、顎まで沈んでぶくぶくと息を吐いた。
(明日から……かあ)
 どんな事をしたらいいんだろうとか、上手くできるだろうかとか、色々な不安がよぎる。
 ぶくぶくと泡を立てながら、明日からの事を思い浮かべた後に、うん、と小さく頷いて悠は立ち上がる。
 やってみなくちゃわからない。それが悠の出した結論だった。





 *   *   *





 ところで、いざ寝るとなると困った事がある。
 やたら広い部屋のくせに、この部屋にはベッドがひとつしかないと言う事だ。
(……しまった)
 そう思ったのは、いつもならここで『何もしない』でただ寝るだけと言う事がなかったからだった。
 キングサイズのベッドの寝心地は最高だけれど、ここで寝れば否が応にも恥ずかしい記憶はよみがえってくる。何もしないのならなお更だ。
 いざ寝ようとすれば当然麻隆と同じベッドにはいらなければならないし、そうなったら今日の自分が落ち着いて寝られるかと聞かれれば答えは明瞭だった。
(どうしよう)
 キングサイズのベッドを前にして、悠は軽く眩暈を覚える。
 何もしないと言ったからには、麻隆は本当に何もしないだろう。
 いつもならばそれに安心するだろうが、今日は別だ。
(これじゃ発情期の動物だよ)
 そのまま何もしないで寝られるかと聞かれれば答えは否だ。
 正直言って辛いこの状況を一体どうしたらいいかと考えたのはほんの僅か。
「どうした?」
 未だソファに座って、何本目かのビールを舐めている麻隆に首をかしげられて、悠はとっさに振り返った。
 ベッドに入ろうとしていた足で、そのまま麻隆へと向かう。
「ん?」
 そこそこ酔っているらしい麻隆の反応は鈍くて、まあいいやと悠は思った。
(もう、どうにでもなれ)
 さっき号泣した所為なのか、悠の理性はどうも箍が外れてしまっているらしい。
 普段なら考えもしないようなことを考えて、するすると麻隆へ近づいていく。
「どうした?」
 ふっと笑うその唇にキスがしたくなった。
 横に座って考えていた事を実行すると、麻隆は何も言わずに応じてくれる。
「ふ……」
 うっすらと目を開けて麻隆を見ると、目を閉じていた。
 睫毛が長いなあとかそんな事を思いながらまた閉じて、何度も啄ばんでから離れた。
 自分でもきっと溶けそうな目をしているんだろうなと思った悠の視線は、熱を孕んでいる。それが欲情している時特有の目だと、どちらも気づかないはずもない。
「どうした?」
 唇が離れた後、ゆっくりと背中に回る手が嬉しく、このままなるようになってしまえと思った。
「麻隆さん……」
 腕を首に回して、ため息のように息を吐き出した。
 もう一回とねだったのはキスで、その通りにしてくれるから嬉しい。
「ん……」
 うっすらと唇を開いて誘い込むようにすると、期待した通りそこに舌が入り込んできた。
「悠? どうした?」
 随分いきなりだなと笑う麻隆は余裕そうにしながら、右手を悠の頭へとまわして撫でてくる。
「いきなりじゃ……ない」
 本当はずっとこうしてほしくて仕方がなかったのだ。
 それは今日だけの事ではなくて、今日までずっと続いていた事だった。
「明日から忙しくなるって、言ってたから。だから」
「だから何もしないって言ったんだけど?」
「……う」
 元々あまり丈夫ではない悠は、無理のあるセックスの後にはぐったりと眠り込んでしまう。当然翌日は絶好調と言えるはずもなく、だるい体をひきずって帰るという事もしばしば――と言うより毎回そうだった。
 それを心配しての事だとわかってはいるけれど。わかっているのだけれど。
「ごめんなさい、我慢できない」
 ずっと会うのも我慢していたひとにやっと会えて、我慢しろと言われても無理だった。
 そうなったらもう考える事もできずに言葉が出ていた。
「明日、つらくてもちゃんとするから。だから」
 お願いだからと言う声が小さく窄んでいったのは、麻隆の気配が変わらなかったからだ。
 盛り上がっているのが自分だけだと思うと、恥ずかしいよりも悲しくなってくる。
「……」
「……っ!」
 はぁとため息の音が耳に入り、ごめんなさいと反射で離れようとして、けれど悠の体に回された腕が強くて離れられなかった。
 逆に強いぐらいに抱きしめられて、悠は混乱する。その耳に、またため息の音が入ってきてびくりと目を閉じると、苛立っているような声がした。
「……まったくもう」
 敵わないな。
 そんな言葉が聞こえたような気がした。
 何が敵わないなのか、麻隆の言葉を理解するより早く、悠はその腕に抱え上げられてベッドに運ばれていた。
 ベッドの上に投げられるようにして乗った悠が、いきなりの展開についていけないと目を回している間にも、自分の服のボタンをひとつふたつとはずした麻隆がのしかかってきて驚く。
「あ、さたかさ……っん!」
「……後悔しても知らないからな」
 キスの後に呟かれた言葉に、麻隆も我慢していたのだと知った。
 そのまま腕を回すと拒まれる事はなく、麻隆は笑う。
「―――……きだ」
 耳元で聞こえた声に悠は笑い、なんでこんな時に言うかなあと文句を言った。
 勘弁してくれと言う、照れた声が聞こえたからそれは大目に見る事にする。
 あとはもう、望んだ通りに触れてくれる麻隆をただ好きだと思った。





 *   *   *





 手触りのいいシーツは汗と体液で汚れてぐちゃぐちゃで、部屋の中には衣擦れの音と吐息と、悠が漏らす喘ぎばかりが響いていた。
 とにかくもう何がなんだかわからなくて、ひっきりなしにやってくる感覚に耐えるので精一杯の悠は、麻隆がどんな表情をしているかもわからない。
「……っあ! あ、あ、あ……や、そこやだ……やめっ……!」
「どこ?」
「……ひァッ!」
 耳元でささやかれた声にすら感じて、声を上げながら逃げようと体を捩って腕を伸ばした。だがベッドから逃れようとした指先は空を切り、壁にたどり着くよりも早く麻隆に捕らえられる。
「ゆう……?」
 どこがいいのか言いなさいと言われて、泣きながら促された言葉を告げた。
「……っんん! お、おく……おくまでっ……っあ!」
「ん、こう?」
「ああ、あ……アっ……!」
 いきなり奥まで入り込まれ、音を立てて腰を回されて悲鳴があがった。
「いっ……ぁ……ああ」
「悠、こっち」
 こっちを向けと言われて振り返るとそのままキスをされる。
「ん、んん!」
 そのまま何度も突きながら繋がった場所に指を這わされて体を震わせた悠は、体を支えていた腕を滑らせてベッドの上に体を突っ伏し、そのまま耐え切れずにシーツを噛む。
「ん! んぅ……!」
「こら、噛む、なっ」
「……っ、や……やだ……ああっ、あ……い、いや、それ……あぁっ!」
 腕を引いて無理矢理起こされて、そのまま浅い場所を麻隆が動く。
「いや、いやぁ……あ、いいっ……そこ、や……ぁ!」
 もっと奥まで入ってほしくて、それでも麻隆が動いている場所でも感じるからもどかしい。
 悠が首を左右に振りながら言うと、どうしたい、と声がする。
「悠、どうしたい? 言って?」
「んん……も、なんでも、い……あさ、たかさ……っああ!」
 麻隆にされるならもうなんでも感じる。そう思いながら告げた言葉に、中に入り込んでいるものが顕著に反応してその体積を増した。
「……っあ! も……もう、あ、やだ……それっ」
「しろって、言った……のは、悠だ」
「いっ……た、けど……っあ! それ、それちがっ……ああ!」
 微妙に感じる場所をずらした麻隆の動きに、それは嫌だと泣きじゃくると後ろから抱きしめられる。そのまま起こされ、体を向き合うように動かされて首にしがみつくと、キスをしながら動かれた。
「んんっ、ん、は……ぁ、ん! んんん!」
 激しく動かれると上手くキスができなくて、溢れた唾液が顎を伝う。それを舐め取られるようにしながらもう一度キスをされ、繋がった場所を回されてくぐもった悲鳴が漏れた。
「あ、さた……んっ……も、もう……」
 麻隆の腹筋にこすれる場所が限界を訴えて濡れている。
 かき回されている中の痙攣も止まらなくなってますます酷くなっていく。もう無理と悲鳴を上げながらしがみついて、何度も限界を訴えてやっと許してもらえた。
「麻隆、さ……あさ……ああ、あ……」
「顔、見せて。言って……?」
 汗で額に張り付く悠の髪を払いながら、甘いとしか言いようのない声で言われて、もう何もわからないままそそのかされて従う。
「あ、あ、あ……い、くっ……も、イク、いくからっ……!」
 麻隆さんもと告げると、笑みを返された。
 背中を支えながらベッドに倒され、勝手に脚が開いていった。その腿を抱えられながら前後に揺すられ、もう身も世もなく声を上げながら、何度も何度も麻隆の名前を呼んだ。
「……さたかさ……っ、あさたか……んんっ! あああっ、あ、もっ……んぁあっ!」
「ゆう……ゆ……もう……」
「あ、あ、あ……もっ……もう、いっ、いって……ああ、ああ、あああ!」
「ん……!」
 びくびくと体を震わせながら、高い声が出た。その瞬間に溢れたものは麻隆と悠の体を汚して、同じものが悠の中へと溢れる。その熱を感じながら震えて、麻隆のそれが形を変えるまで動き続けられて、感じすぎた体は、もう一度。
「あ、やだまたっ……やだやだやだ……ああああっ!」
 助けてたすけてと、引きつけみたいに体を痙攣させながら悠はもう一度絶頂を味わって、ずるりと力を失ってベッドに沈んだ。
「はぁ……ん……」
 頬に浮いた汗をぬぐいながら麻隆が抜けていくのを感じて眉を寄せ、完全に何もなくなって息を呑む。何度か肩で息をしてから閉じていた目を開く。
 涙の溜まった視界はぼやけていて、何度か瞬きを繰り返して最後の涙が頬を伝った。
 その涙を麻隆の両手に拭われて、やっと視界が正常に戻ってくる。
「大丈夫か?」
 問われた言葉にこくりとうなずいて腕を伸ばすと、その手を取られて掌にキスを落とされる。
 こんなに甘ったるい男だったのかと思うぐらいに、好きだと告げてからの麻隆は甘く、特に事後の甘さは歯が浮くほどだと悠は思う。
 ただ寝るだけの関係だった時は手ひどくされるのが殆どで、終わると同時に眠りにつくのが常で、何をされてもわからなかった。
 抱き方が少し変わったかな、と思う。
 とても優しくなったような気がして、激しいのは相変わらずだけれど、終わると同時、気絶するように眠りに落ちるという事がなくなった。
(……前は気がつくといつも居なかったしなぁ)
 気絶するように眠って目が覚めると麻隆はいつもいなくて、だから余計に今の麻隆を甘いと感じるのかもしれない。
「……大丈夫」
 小さく息をつきながら応えると、額に麻隆の唇が触れた。
 自分がこの状況を目にしたら砂を吐きそうだなと思いつつも、ここには誰もいないからいいかと思って、悠はそれをくすぐったく思いながら受け入れる。
「麻隆さん」
「なんだ?」
 名前を呼んだ事に意味はなく、ほんの少しだけ何を言おうかなと考えてから、悠は満面の笑みを浮かべながら続けた。
「俺がんばるよ。どこまでできるか、わからないけど」
「うん?」
 生返事をしながら、麻隆が立ち上がる。
 少しして返ってきた彼の手にはタオルがあって、体を拭われながら「マメだよなぁ」とそんな事を思った。
『怖いのが目立つ人』なんてアキラは表現していたけれど、そんな事はないと悠は思う。
 根はきっと優しい人で、笑いかけてくれる顔が好きだ。
 もっと笑って欲しいから、なんて理由は歯が浮く台詞だと思うから、それは隠して悠は笑う。
「明日からよろしくお願いします」
 くすくす笑いながら言うと、目の前の彼にはにやりと意地の悪い笑みが浮かんだ。
「こちらこそ」
 自信に満ちたその姿に、いつかこんな風に自信を持てるだろうかと思う。
 麻隆にはなれないけれど、その隣に立つ人として自信を持つ事ができれば、きっと自分の人生がひっくり返るほどに変わるだろうと思える。
 笑い合いながらもういちどだけキスをして、その後は何もしないまま少しだけ話して眠った。


 明日から何があるだろう。
 多くの不安と期待を抱えながら、悠は眠る。
 何があっても、目の前の人が居るのならなんでもできる気がした。
 恋が人を変えるとよく言うけれど、本当の事だなあと他人事のように思いながら、幸せだと思う自分を少しむずがゆく感じつつ、悠の意識は眠りに溶けていく。

 麻隆の指先を子供のように握り締めながら、口元に笑みを浮かべて悠は眠った。
 その耳元に、小さな告白が届く。
 悠はとても―――幸せだった。







END