憧れの人が、ひとり居ました。
 その人の仲間になりたくて始めたお芝居。
 そして今は、もうひとり、憧れの人がいます。



 明日が見えない、なんて言葉は保田譲には似合わない。
 何せ天真爛漫、自信満々、金剛不壊。雨模様の空なんて雲を割って晴れにしてしまいそうなほど明るい。
 我らが劇団『Trickers』の団長様は、常に胸を張り、前を向いて生きている。
 ただ少し、と言うか、唯一の欠点があるとすれば。

「なぁなぁ梓乃たーん、もうちょっとエロティックにいこうよぉ、ほら、こう、もっと涎たらしておったてるようなやつでさァ」

 この、どうしようもないエロオヤジのような言い回しと行動……なんだろうなぁ。
 お願いだから腰振るのはやめて下さいお願いだから。
 これをぶつけられているあの人は、さぞや大変だろうなぁ……と、思うのだ。けれど。
「どこぞのAV撮ってるんじゃないんだから、もうちょっと言い方考えて下さいよ団長。新入部員候補が引いてるのもいい加減に自覚しなさいよ」
 椅子に座って笑っている男の前に立って見下ろしながら、その言われた相手は平然と言い放っているのだから、すごいなぁと思う訳です。



 あ、言い忘れたけど解説してるのは僕です。広井真白です。
 劇団Trickersの中で、一応看板俳優って言われてるうちのひとりです。
 先日大学を卒業して、無事劇団に本所属になりました。

 ところで話を戻すと、今は僕も4年前に受けた事のある、大学サークルとしての劇団『Trickers』の入団試験の直前です。
 初心者も居ると言うことで、本番さながらの稽古を見せた後に、それぞれオーディションと言う形式が、最近の定番になってます。
 ちなみに『Trickers』はわりと有名な劇団になりつつあるので、大学でも入団希望者が多いので、オーディションを開いてついてこられなさそうな人は残念ながらお断りしている、と言う訳です。

 で、本日の公開稽古の中心となっているのが、先ほどのお相手、と言う訳です。
 彼は劇団『Trickers』の看板役者の中の看板役者。保田梓乃さん。
 長く続く劇団の歴史の、わりと初期から居る人で、団長の右腕の副団長でもあります。
 しばらく俳優業は休んでいたのですが、この作品に限って復帰するそうです。
「だぁーってこれが俺じゃん? ここで引いても後が見えてるじゃん? 取り繕っても意味なくない?」
 うわぁ、変態だぁ。
 と言いたくなるような笑みを浮かべながら団長の手が梓乃さんに伸びるけれど、途中ではたき落とされた。慣れてる。さすが副団長。
「意味はないですけどね。あんたは普段からもう少し控えて下さい。じゃなきゃ俺は降ります」
「えっ」
 あ、すごい。団長焦った。
 目を丸くして驚く団長なんて初めて見た。
 周りも一瞬ぽかんとした後、在歴が長い人から順にくすくすと笑い声が聞こえてくる。
 けれど目の前で対峙するふたりはまったくそんな事意に介した様子もなくて、ただお互いを見つめ合った後、いきなり団長が土下座した。
「ごめんなさい真面目にやるからそれは勘弁してください」
「最初からそれをしろって言ってるんですよ。今回は勘弁してやりますけど次やったら劇団辞めますからよろしく」
 睥睨、と言う言葉がよく似合いそうな表情は、すっごく怖い。
 クールビューティー梓乃、なんて裏では囁かれている梓乃さんは、自分では平凡だと思っているらしいけれど、結構な美人だと思う。
 けぶるような睫毛に、まっすぐな瞳はとても綺麗な黒で、団長とは対極にあるような人だ。
 よく団長はエロスが足りないだのと言うけど、十分に色っぽい。
 何よりこの、普段から団長を尻に敷いていそうな感じは本当に凄い。凄すぎる。だから平凡なんて絶対嘘だ。
 そんな事を考えていたら、くるっと振り返った梓乃さんがにっこりと笑って言う。
「団長がこんなんですみませんね。もうちょっとしっかりさせるのでがっかりしないでもらえるとありがたいな」
 それまでの冷たい視線なんてどこへやら。満面の笑みで「さあ稽古再会しましょう」と手を叩く。
 そこからみんなスイッチを切り替えて稽古に戻って、後は椅子でがっくりうなだれている団長だけが残った。


(ええと、俺この人に憧れてこの劇団に入った……んだよね?)


 と思わず思ってしまうようなしょんぼり加減は、ちょっと気の毒だった。



 保田譲と言う人は、回復がすこぶる早い。
 それでもって、やる時はきちんと決めるし、ちゃんとかっこいいのがずるい。
 稽古を再開して数分後には戻ってきていたし、その後のオーディションも元気だった。元気すぎるぐらいに元気だった。
 だからこの人の隣に常に立っていられるあのひとは、本当にすごいなぁと思う。
 保田譲と言う団長に憧れてこの劇団に入ったのだけれど、今ではもうひとり憧れの人ができました。
 きれいで、まっすぐな人。
 そして何よりも、誰かと共にある幸せを、僕に見せて、教えてくれた人です。


 明日が見えないなんて言葉は、この人たちには似合わない。
 雨模様の空なんて吹き飛ばして虹をかけて、そこに最高の光を見せてくれる人たちです。





     *     お ま け     *





 保田譲と言う人間は、とても面倒くさい。
 自信過剰、傲岸不遜、金剛不壊と言えば聞こえはいいけれど、角度次第ではすぐ傷がつく。
 ついでに言えば予測不能で、行動と言動がとてもうざい。
「……あんた昨日、俺とどんな約束してましたっけ? ああん?」
 自宅に戻り、開口一番そう告げると、目の前の男はにへら、と笑った。
「ちゃんろしまふっふぇひひまひら」
 ちゃんとしますって言いました。そうか覚えていたのかこのクソオヤジめが。
「で? 今日のどこが『ちゃんと』?」
「……だぁってぇ」
「だってもクソもあるか! あんたがあの調子でやるからセクハラされるってどんどん若手女子が逃げていくんでしょうが自覚ないのかあほんだら!」
 そう。そうなのだ。
 我らが劇団『Trickers』は、正直女子が不足している。
 いや、本所属の女優は免疫がついているからいいのだが、とにかく大学生が少ない。
 それこそ歌舞伎かとつっこみたくなるようなぐらい足りないから、男子で補う始末だ。
 そこはそれ、脚本家の腕の見せ所で、少ない女子でも補えるような作品にすればいいだとかそういう話もあるけれど、それ以上にこの男のあれやこれやが問題なのだ。
 だから何度も正そうとしているのに、この男ときたらこれだから。
「いや、でもこれが俺だって梓乃たんもよくわかってるだろ?」
「だから?」
「この年になって今さら性格変えろって言ったところで無理だってば」
「だったらせめてこのセクハラ癖をやめろ」
 腰に伸びてきた腕を払い落すと「いやん痛い」と言いながら腕を振る。
 こんなの痛くなんてないだろうに。
「とにかく、せめて新入生には耐性つくまでなんとかしろって話です」
「そんなんストレス溜まるからやだ」
 ぷい、と子供みたいな顔のそむけかたをされて、ちょっとどこかの血管が切れたような気がしたけれどまあそこはいい。いいのだ。
「……昨今セクハラ云々で捕まる大学教授なんて見出しが増えてるのはご存知ですか」
「は? へ? ああ、うん」
 はぁ、とため息をついたのは、この人にあまりにも自覚がなさすぎるからだ。
 劇団、と言う括りだけならいい。団長のそれは個性で済む。
 だがこの人は、大学の客員教授でもあるのだ。
「ちゃんとしてくれないと、そのうち逮捕されても知らないからな」
「……へ? あ、あー……もしかして、心配してる?」
「してないとでも?」
 とにかくこの人のあれはセクハラだと訴えられたら勝てないレベルなのだから、心配しない方が無理だと思うのだけれど。
「ああ、そっか! そうかぁ」
「……あんたはなんでそこで笑うんですかね」
「いやいや、笑わない訳がないでしょうが。満面の笑みですよ。俺の大事な伴侶がデレたー!」
 デレたー、たー、たー、なんてセルフエコー付きで言われても困る。
 ついでになんで抱きしめられてるんだ。いつの間に。
「ちょっ……離せこら!」
「やーだね! 今年最大の梓乃たんのデレいただきましたー! ってことで鍵を閉めましょうね! Go to bed!」
「えっ、ちょっ!?」
 なんで今その流れになった!?
「ちょっ、はなっ……うわぁああああはーーーなーーーせーーーー!」



 叫ぶ声は部屋と言うか廊下まで響きわたったとかそうじゃないとか。
 ばたんと閉じた扉の向こうから何かが聞こえたとか聞こえなかったとか。
 ストレス発散の生贄がささげられたことで、その後しばらく団長のセクハラはなりをひそめたとかひそめなかったとか。
 まあ、そこから先は本人たちだけが知る、出来事。