生まれた時から、音楽が息をするようにあった。
初めて聞いた曲がなんなのかを知らない。
初めて自分が口に出した歌がなんなのかを知らない。
初めて楽器に手を触れたのがいつなのかを知らない。
記憶に残すことができないほどに幼い頃から、それこそ生まれた時から、音楽はそこにあった。
息をするように音と共にあり、息をするように音楽に触れていた。
今はもう、わずかな時間しか、表現をする事ができないけれど。
それを選んだ事をもう後悔したりしない。
過去に飛ぶ事ができるとして、もしも過去の自分に伝える事があるとすればそれは――……。
* * *
少しずつ、ほんの少しずつ歪みを感じはじめたのはいつだったか。
親に与えられたバイオリンを弾くのが楽しくて楽しくてしょうがなくて、眠る事もわすれて触れていたはずなのに。
今は少しも、楽しくない。
弓を運ぶ自分の手が、まるで自分のものではないかのように感じる。
流れる音はどこから出ているのだろうか。
聞こえる音は、一体どこへ行くのだろう?
幼い司は、ずっと自分に問い続けていた。
「……違う。そこはもっと的確に」
ぴしゃりと告げられた声に、音が止まる。
「でもここは……」
「言い訳はよろしい。もう一度」
演奏の途中でぴたりと止まった体勢のまま、司は小さな声で言おうとしたのに、遮られてしまった。
そしてもう一度と告げられたその瞬間に、メトロノームの音が始まる。
正確に、譜面のとおりに。
何度も何度も叩き込まれ、そうしろと言われ続けた。
仕方なく、司は目を閉じる。
メトロノームの音が響くなか、もう一度演奏を始める。
正確に。一音の狂いもなく。記された音のとおりに。
(……まるで機械だ)
ぽつりと脳内に響く声の後、司の意識は遠のいていく。
頭の中に響く音は、やがて遠ざかって聞こえなくなる。
弓の角度はこう。そんなところにスタッカートはついていないだろう。スラーはもっとなめらかに。
聞こえてくる声に「はい」と答え、その通りにする。
(……なに、してるのかな)
死にそうだ。
そんな事をふと思う。
このままだと、死んでしまう気がする。
音が聞こえない。楽しくない。
技術が向上したところで、ほんとうに欲しいものがなければ意味がない。
(このままじゃ)
死んでしまう。
泣きそうになりながら、司はただ機械のように腕を動かしていく。
くるしいよ、たすけてよ。
このままじゃ。
――……だいすきな音楽が死んでしまう。
心が軋む音を立てながら、ゆっくりゆっくりと、歪んでいく気がしていた。ずっと、ずっと。
そしてどうやったらこの苦しい場所から出る事ができるのか。
いつしかそればかりを考えるようになっていた。
* * *
暈音の家は、代々音楽家の家系だ。
祖父は世界でも有名な指揮者で、父はバイオリニスト。曾祖母はピアニストで、さらにさかのぼっても多くの音楽家を輩出しているらしい。
そして司もその例外ではなく、子供の頃からバイオリンを与えられて、その道を進んできた。
もちろんその道を疑うこともせずにずっとやってきたのだけれど、中学生になった頃から、だんだんと何かの『歪み』を感じるようになっていった。
司の音楽の師は同じバイオリニストの父だ。
だがその父の指導が、少しずつ形を変えていく事に気づいてからと言うもの、歯車の形がいびつになったかのように、どこかで軋む音が聞こえるようになっていった。
最初はほんの小さな注意。
『楽譜にはそんな事書いてないだろう?』
その一言が、きっかけだったように思う。
何を弾いていた時だったのかは覚えていないが、司が遊び心でスタッカートをつけて演奏した。その時に言われたのがその言葉だ。
なんで楽譜にない事をしてはいけないのかが理解できなかったけれど、作曲者の意図をくみ取るのはとても大事な作業だと言う言葉にはうなずいた。
そうして数年、父は何かにとりつかれたように『楽譜のとおりに』と言うようになった。
そうでなければ、自分と同じ動きをしなさいと言う。
オーケストラのボーイングは揃えるのが基本であるし、もちろんその方が美しい事も知っている。
だが父の求めるものがそれでない事は明白だった。
そこに気づいてからは「同じ事をしなさい」が父の口癖だと言う事を知った。
言う事を聞かなければ手をはたかれる事もあった。
なんでだろうと考えれば考えるほど、父の望むものとはかけ離れて行って、父は余計に厳しくなる。
父の望むとおりになればいいのだろうかと考えて、そのとおりにした時期もあった。
けれどそれでは、楽しくない。
それどころかずっと聞こえていて、一緒に居た音楽が遠ざかって聞こえなくなってしまう気がして、司はその事に恐怖を覚えた。
だから。
どうにかして家を出られないかと、ずっと考えていた。
運命、としか表現のできない一瞬はあるのだと、司はその後すぐに知る事になる。
きっかけは一枚のパンフレット。
寮のある音楽大学を選ぼうと考えた司に与えられたそれが、何もかものはじまりだったのだ。
その大学のオープンキャンパスは、最初に大講堂へ案内され、在校生の演奏ムービーから始められた。
各楽器の代表生の演奏が映し出され、そして最後に、司の人生を大きく変える事になる『あのひと』が現れた。
大きなスクリーンに映し出されたのは、廃墟とピアノ。
細く光の差し込むそこに、ひとりの男が座って――指が踊った。
響く音は、空間に跳ねて、反射して、突き刺さる。
ぞわり、と。
背中を何かが駆け上がっていくのを、その時の司は感じた。
どくどくと体中を駆け巡る血が沸騰していくような錯覚に襲われて、脳の奥までその『音』が突き刺さる。
攻撃的な、それでいて柔らかく、何かを訴えるかのような音。
こんな音は今までに聴いた事がないと思わせる何かを、そのピアノは持っていた。
それまでに麻痺して、遠ざかっていた音楽が一気に司の中に流れ込んで戻ってくる。
あふれ出すようなそれに、全身が熱くなって、泣きそうになった。
たった一曲。一曲だけだ。
それなのに司の音が戻って来た。
うれしくてうれしくて、息が止まったほどだ。
(俺の音だ……!)
やっと見つけた。戻ってきた。
がくがくと震える体を自分で抱きしめながら、その後はじまったガイダンスなどまるで聞こえないまま、ここにしようと決めた。
(ここに来れば、俺の音は戻ってくる)
大好きなあの音が戻ってくる。
また音楽を楽しいと思える。
そして。
(きっとあのひとにも、会える)
司の心に強烈に焼きつた音の持ち主に。
何を捨てても会いに行こう。
そうして、司のは『今』へと続く道を選んだ。
その時取り戻した音楽を、もう一度失いかけてしまった事もあった。
それでも、暈音司と言う人間は音楽そのもので、失う事などできなかった。
「ありがとう」
「……なんだよいきなり」
「ちょっと、色々思い出したから言っただけ」
「思い出したって何を」
「いろいろだよ」
後でゆっくり、追々話していくから聞いてほしい。
微笑む司は幸せそのもので、だから過去に行けるとしたら、伝えたい事はひとつだ。
――大丈夫。俺は今でも、音楽大好きなままだから。