絹染イツカは果てしなく緊張していた。
そりゃあもう、心臓が口から飛び出てしまいそうなほどにだ。
何故かなんてもう決まっている。
大好きで大好きでたまらないあの『天野響』が、自分の部屋に居るからだ。
かくまってほしいと言われ、助けたのがほんの数十分前の事だ。
とても困っている様子だった彼を助け、終電がなくなっている事に気づいた彼が『泊まれるところを知らないか』と問いかけてきたのも数十分前。
そして反射で、自分の家に来ないかと言ったのも、同じく。
まあつまり一連の流れで彼を家に連れ帰る事になってしまった訳だが。
(ああもう汚いし、なんで掃除しておかなかったんだ俺……!)
幸い食べ物の汚れはないものの、大学のレポート用にかきあつめた資料だの本だのが転がりまくっている部屋の状況を見て、肩を落とす。
がさごそとカラーボックスの中身をあさって、使っていない服を探すのは、家に着く直前に雨に降られてしまったからだ。
びしょぬれの状態になってしまったから、とにかくシャワーをとバスルームに響つっこんだのが五分程前で、そこからイツカは彼に合う服を探している。
「……Mなら大丈夫だよな?」
そう首をかしげるのは、あまりにも響小さく思えたからだ。
ステージの上に立つ彼は、確かに背は小さいと思うけれど、とても大きい印象があった。
だからいざ目の前に来た時、あまりに小さく感じて驚いた。
最初に彼が響だと気づかなかったのもそのせいだ。
(あんな小さい体で)
ステージを駆け回って、汗だくになりながら歌う力が、どこに入っているのだろう。
すごいなあと思いながら、ようやく見つけたMサイズの服を引っ張り出す。
高校の最後に急激な成長期が来たおかげで、最近の私服はすべてLLだったから焦った。
「古着で悪いけど、これで我慢してもらおう」
そう思いながら服をバスルームの洗濯機の上に置きに行こうとして。
「うわあああ!!」
がちゃりとドアを開けた瞬間にイツカは時間も忘れて悲鳴を上げていた。
* * *
まるでナンパされた上にお持ち帰りされたみたいだとシャワーに打たれながら考えて、あんなお人良しそうな顔をしたやつがナンパにお持ち帰りだなんて似合わなさすぎだと笑いがこみ上げた。
「あのどもり様はないだろー……」
くっくっと笑いながら、がしがしと雑に体を洗い適当に流した後、そういえば着る服がないと気づく。
そしてがちゃりとドアを開けてお人良しのイツカくんに声をかけようとしたところで。
悲鳴が聞こえたわけだ。
「……あのね、俺男だから別に見られたところでなんでもないし、そんな反応される方が恥ずかしいんですけど?」
戸惑いつつ、渡された服を着こんだ響が困っているのは、顔を真っ赤にしてソファーで膝を抱え込んでいる男のせいだ。
「す、すすすすみません。なんかインパクト強すぎて……!」
「だから俺、男だってば」
「いやそれは知ってるんですけど!」
困ったなぁ、と頭を掻きながら言った言葉に、がばっとイツカが顔を上げて答えるが、そのあとすぐにまた、顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。
「だーからぁ」
「……い、いや、すみません」
ずずず、とますます小さくなっていく男にため息をひとつついた響だったが、さっきシャワーを浴びながら考えた事を思い出して眉根を寄せる。
危ない事はないだろうと思ってついてきたが、万が一の事があったらどうしよう。
「……失礼承知で聞くけど、あんたゲイだったりする?」
そんで俺お持ち帰りされちゃった訳? とはさすがに聞かなかった。
別にゲイだったとしても、ワンナイトの関係ばかりではないだろうし、目の前の男が乱暴を働くような人間にも見えないのだが、一応聞いておこうと今さらのような用心ともいえない用心の言葉に、イツカは再び顔を上げる。
そして上げたその顔は。
「……え?」
ぽかん、と間抜けな表情をしていて。
思わず響は笑ってしまった。笑い転げた。そりゃあもう、腹筋がおかしくなりそうなぐらいにだ。
* * *
イツカはどうしたらいいのかわからなかった。
問いかけの意味を理解できずぽかんとしていると、何が面白かったのか響はいきなりげらげらと笑いだして、床に転がってしまった。挙句ひぃひぃと苦しそうにのたうち回っている。
「あ、あの……?」
一体なんなんだ。理解のできない光景に困っていると、響は目に浮いた涙をぬぐいながら悪い悪いと謝ってくる。
「今さらながらにもしかしてとか思ったけど、や、やっぱあんたそんな人じゃないよね。ごめんね」
ばかみたいだと呟きながら、未だ笑いが止まらない様子の響は腹を抱えて痙攣している。
そんな様子を見ながらどうしよう、と眉根を下げながらイツカはほとほと困った。
(えーとなんか、印象違う……?)
ライブやテレビでの様子とは、随分違いのある反応に戸惑いつつ、でもそれもそうかとイツカは思った。
自分だって仕事をしている時と私生活は違う。そんなのは当たり前の事で、アーティストの『天野響』と、今目の前に居るオフの『天野響』は違って当たり前なのだろう。
「ところでさ、ベランダ出てもいい?」
「いいけど、なんで?」
ようやく笑いが収まったらしい響の問いかけには、別に許可などいらないと思うのだけれど、彼なりにいろいろ思うところがあるらしい。
ここ俺の家じゃないからねと笑う顔を、綺麗だなあと思う。
響がきらきらして見えるのは、ステージでも今でも変わらない。
「俺さぁ、夜空って大好きで」
「うん?」
カーテンを開いて窓を開けると、帰宅直前にふたりを襲った雨は、もう影も形もなかった。
雲すらどこかへ吹き飛んでいて、空には少ないながらにも星が見える。
「あそこにいけたらいいなぁってずっと思ってるんだ」
空を指さしながら、響は笑った。
そんな響の輝く瞳に、夜の色がある。
そこに映った暗いはずの夜空はきらきらと輝いて、響を知った最初の時のように、イツカを虜にしてやまない。
「でも俺そこまで頭がよくなくってさ。だから下から眺めて、曲作ってんの」
恥ずかしいからお披露目した事はないんだけどね。と、照れくさそうに頬を掻いた響は、それなのに口を開いた。
ほんのハミングだったけれど、一度も聞いた事のない曲が彼の口から紡がれていく。
背筋がぞくぞくして、とてつもない喜びに頬が熱くなった。
それは知らないメロディだったけれど、『響の曲だ』と反射で思う。
今すぐにでもそれを伝えたくて、でもそうしてしまえば歌が止まってしまうからできなくて。
もどかしく思いながら、イツカの手は開いたり握りしめたりを繰り返す。
息もできずに歌声に耳を傾けて、どうしたらいいんだろうと思う。
そして、意味を理解することもできなかった問いかけが耳によみがえる。
――あんたゲイだったりする?
どかん、と頭の中で爆発が起きたような気がした。
好きだ好きだと考えていたその意味が、大きく違ってしまったような。
いや、違ってなどいなかったのかもしれない。
イツカがその意味に気づいていなかっただけで。
(俺は……この人が)
好きだと。
その『好き』がどういった意味なのかを、今はっきりと自覚してしまった。
一般人が芸能人に恋をしたなんて、そんなのは別世界の話で、自分には理解のできない事だと思っていた。
一介のファンで、ただ純粋に応援がしたいだけだと思っていたのに。
それなのにイツカは、目の前に居る彼に恋をしてしまったようだ。
(どうしよう)
彼にとってイツカは『客』でありただの『ファン』だ。
そんな人間から好きだなどと告白されても困るだけだろう。
今この歌を聴けている自分は、ただ運がよかったと言うだけで、響に好かれている訳ではないし、第一まだお互いそんなに話もしていない。
(そんなやつに告られたって、困るだけじゃないか)
ぎゅう、と心臓が締め付けられていくような気がする。
痛くて苦しくて、でもうれしくて、イツカはどうしたらいいのかわからなかった。
ただ、目の前で歌っている彼の声を聞き逃したくない事だけはわかるから、それだけに集中する。
いつもと少しだけ違う、ほんの少しだけ哀愁のようなものを感じる歌は、夜空を欲して手を伸ばす彼の姿にとてもよく合い、さみし気なのに美しく思えた。
目の前に居るのに、それでも近くて遠い響。
自分だけになるような人じゃないし、そうであってほしくない。
だからイツカはぎゅうっと、気づいた恋心に封をする。
全部を歌い終えた後に、拍手を送ろう。それが自分にできる精一杯だ。
決意をして、目を閉じたイツカは耳を澄ませる。
そんなイツカを、見つめる視線がある事などもちろん、知りもせずに。
そして朝には、お別れの時が来る。
朝にはもしかしたら、水たまりを照らす虹が出るかもしれない。
そうしたらきれいだねと笑って彼を見送ろう。
そしてまた、素晴らしい響の歌を聴きに行くのだ。
それがイツカにできる、精一杯。
一生懸命考えてそんな答えを導き出したイツカは、一生懸命すぎて気づいていない。
響が、その歌を他人に聴かせるのが初めてだったと言う事の、意味に。
別れて終わりだと思ったその関係が、まだ終わりではないと言う事に。