逆境を力にできると言うのは、すごい事だと思うのだ。
特に、平々凡々を自他共に認める絹染イツカ(名前だけはやたら特徴があると思うけれど)のような人間からすると、それはものすごい光り輝くもののように思える。
あの時、ただの通りすがりだったのに今ここに居るのは、あまりにもきらきらしたそれに憧れたからだ。
ゲリラ豪雨に襲われた野外ライブ。
『わあ、紫陽花みたいだ。傘の花束みたいですね!』
まださほど人気の出ていないアーティストだったあの人が、楽しそうに言った一言が耳に残って、その時に見た表情がきらきらしていたから忘れられない。
天野響。
それが、イツカの憧れる人の名だ。
そしてどうして、そんな彼が今目の前に居るの、だろうか。
* * *
天野響は平和を祈る歌を、明るく歌う。
舞台の上ではとても楽しそうに満面の笑みを浮かべる響は、少し前までアイドルグループのセンターだった。
かわいい系男子、などと謳い文句のついたそのグループは、容姿の華やかさが売りだった。
歌は憶えやすくキャッチーなもの。
流行を取り入れ、とにかく『売れる』ために用意されたものだった。
衣装も曲も、どれも素晴らしいものだ。
だがそれをなんとなく『違う』と思い続けていた。
響はただ歌いたくて芸能界に入ったはずなのに、気が付けばバラエティの仕事の方が多くて、しょうがないとわかっていても、違うと思う事はやめられなかった。
だからアイドルグループを抜けて、ひとり勝負する事にしたのだ。
運良く拾ってくれる事務所もあった。
そこからは、バックアップもほぼ何もないも同然の、1からの再スタート。
天野響としてソロデビューを果たし、やりたい事をしていいよと言う方針の事務所のおかげで、今は本当に歌いたいものを歌っていられることに、とても感謝している。
かつて自分を応援してくれていたファンのほとんどは、グループを抜けたのなら意味がないと、見向きもしてくれなくなった。
それ自体は構わないと思っている。むしろあのグループの響が好きだった人からすれば、もう自分は別人だと思う。
だから今は、とても自由になった気分だ。
ただひとつの嫌な事を除いては。
しくった、と思ったのはライブを終えた日の帰り道だった。
車で送ろうかと言うマネージャーの言葉を断って、駅までの道を歩いていた時だ。
既に終電間際の道は、人通りも少ない。
そんな場所で、自分と同じリズムで靴音を立て、少し走れば追いかけてくるそれに、悪い予感がしない訳がない。
「ごめん、ほんとにごめん。だけどちょっとだけ庇って。お願いだから」
目の前に現れた通行人に、友人を装って助けを求めた。
黒縁のメガネをかけた、ひ弱そうな男だ。
だがそれでも響よりは背が高かったし、掴んだ腕は筋肉がしっかりとついている。
響も筋トレはしているし、そこそこの体力はあるけれど、元々が華奢なおかげで小柄な印象が抜けない。
対して彼は、骨太と言える骨格の持ち主だった。
わ、と驚いたような声を上げたけれど、必死の響の声に何かを感じ取ったのか「こっち」と腕を引いて裏路地に進んでいく。
迷路のような小路を進んだ後、陰になって普通なら気づかないような路地で止まった彼は、これでいいのかな、と少し焦ったような顔で言った。
「思わずこんなところ連れ込んじゃったけど」
「あ、いや……助かった。ありがとう」
さすがにこんなに複雑な道では、もうまいただろうと思い、響はほっと息を吐く。
「誰かから逃げてた、のかな?」
「ああ……うん。しつこくって」
人気アイドルグループを脱退したヒビキのその後! なんて見出しをつけた記事を売りたがる奴はまだ残っているようだと、響はため息を吐く。
未だかつての栄光に、自分ではない誰かが縋ろうとしている事実にはもうその反応しか出てこない。
(俺なんかネタにしたって、もう売れないだろ……)
大金が動くのは、後ろ盾があった『ヒビキ』だ。
それは数年前の事なのだから、いい加減諦めてどこか別の場所に行ってもいいだろうに。
「あー……でも本当に助かった。ありがとう」
俺この辺良く知らなくて。そう言いながら顔上げた瞬間、なぜか目の前の男が固まってしまう。
ビキッと音が立ちそうなその反応に、響が驚いて目を丸くすると、「あ」とか「う」とか声を上げた男は、みるみるうちに赤くなっていって、さらに響は驚いた。
* * *
地元で行われたライブに、イツカが飛びつかないはずはなかった。
るんるんとスキップをしそうな上機嫌で帰る最中、知らない人に腕を掴まれ驚いた。
その人が何か焦ったように庇ってと言うから、反射で腕を引いて逃げてた。
イツカの地元は大通りの周囲にやたら小路が入り組んでいて、地元の人間以外がそこに入ればたちまち道に迷う。
地の利を利用してさんざん連れまわしたあげく、こんなことをしてよかったのだろうかと慌てて問いかけた、その相手が。
(うそだろ、響だ……!)
まさか憧れのアーティストだったなんて、そんな偶然があるものだろうか。
(いやさっきまでライブしてたんだから近くに居るだろうけど! けど!)
まさかそんな、いきなり腕を掴まれてこんな、ドラマ見たいな展開があるだろうか。
なにこれ、と思っているうちに、びっくりするぐらいに顔が熱くなる。
多分真っ赤になっているんだろうなと思う自分が居て、それは正解だったらしい。
「……ええと?」
あまりの反応に響の方が驚いて、その後不信そうに首をかしげる。
「あ、の……あの」
ぱくぱくと口を動かすイツカの頭の奥で、何を言おうとしてるんだと焦る声がした。
だがオーバーヒートを起こした脳みそは、何も言う事をきいてくれない。
ばくばくと鳴る心臓の音を聴きながら、イツカの口は勝手に動いた。
「あ、天野響、さん……ですよね!」
その言葉に、響はしばしぽかんとした後、ぽん、と拳を掌にのせた。
「ああ、俺のこと知ってる人かぁ」
何かと思った。
そんな反応に、有名人でしょう、と興奮するイツカとは別のイツカがツッコミを入れた。
「あ、あのオレ、響さんのファンで! さっきのライブも!」
「あ、ああ。お客さん! 聴いてくれてありがとう」
普通こんなテンションの奴が話しかけたら引くだろうに、響はただにこりと笑うだけだ。
そんな反応を、ますます好きだなあとイツカは思う。
(奢ってないって、こう言う事だろうな)
そんな所を、好きだと思ったのだ。
そんな憧れの人が目の前に居て、何をどうしたらいいのかわからない。
ぐるぐるしたまま、自分でもよくわからないままに、ライブ良かったですとか、ずっと好きだったんですだとか、そんな事をまくし立てていた。
響は口を挟めないそのテンションに少し困ったような顔をして、その瞬間にイツカははっと我に返った。
「あ、すすすみません。びっくりしてつい……!」
慌てて平身低頭謝ると、いやいや、と響は笑ったようだった。
「好きだって言ってもらえるのは嬉しいけど、ええと、とりあえず場所移さないかな?」
「あ、す、すみません!」
こんな薄暗いところにずっといるなんてすみませんと謝ると、いやそうじゃなくて、と響は笑った。
「たすけてもらったお礼もしたいし。あと、終電なくなっちゃったからどこか泊まれるところ、知らない?」
ネカフェでもいいし、深夜営業してるレストランでもいいから、と眉を下げる彼に、未だテンパったままのイツカがとんでもない提案をするまであと数秒。
そこから始まる物語が何に発展して、どう言う結末を迎えるかは、まだ未来の話。
ぽつぽつと降り出した雨に、傘をさす。
夜空の下に咲いた一輪の花の話をイツカが響に話す日がくるかどうかは、まだ決まっていない。
おしまい