昔、小さな貯金箱を持っていた。
 産土圭吾と言う男は昔から何かにつけて凝るタイプで、その貯金箱もいっぱいになるまでこつこつこつこつため続けた。
 陶器でできた、壊さないと中身が取り出せないタイプのそれを、何年もかけてため続けたそれを壊したのは、圭吾がもっとも大切にするもののためだった。
 壊した貯金箱、その中身を使って手に入れたのは笑顔。
 これを見るために、自分の大切なものを彼にささげ続けようと思った。





     *     *     *





 そんな大切な笑顔を見なくなって一週間が過ぎた。
 だが圭吾はそれを後悔してはいない。
 ただ待つという時間もなかなかに楽しいと思える程度には、我慢に我慢を重ねてきたのだ。
 幼馴染の真白は、圭吾よりもだいぶ遅く生まれた。
 初めてであった時に彼は生まれたばかりの赤ちゃんで、手に指を差し込むと反射できゅっと握りしめてくる姿がかわいくてたまらなかった。
 誓って言うけれど、その時にはいかがわしい感情など全くなく、ただただ庇護と愛情を向ける対象だった。
 いや、今でもそれは変わらない。ただそこに『大人の表現』が加わったと言うだけの事だ。

 何年も何年も待ち続け、いつかはこの腕の中にと準備してきた。
 まさかそれが、彼が大学生になっても訪れてくれないとは思いもしなかったのだけれど。
(まあ、純粋培養にしちゃったからなぁ)
 大事に大事に育てすぎたなあ。
 内心少し後悔しつつも、でもそれでこそ真白だと圭吾は笑う。
 その名の通り、真っ白に育った彼だったけれど、転機は思わぬところで訪れてくれた。
 彼の所属する劇団『Trickers』の一幕は、真白に、ひいては圭吾に与えられた大チャンスだった。
 少しずつ見え始めた自覚に『もういいかな』と圭吾は思った。
 もしかしたらここで、嫌われてしまうかもしれないとは――、考えもしなかった。
 長年の付き合いで、真白の圭吾への信頼は絶大だ。そこに加えて、少しずつ少しずつ、圭吾へと真白の気持ちが向くように仕掛けてきたのだ。
 真白自身は理解していないけれど、彼は昔から大変にモテるタイプで、けれど彼に近づこうとする少女たちは、隣に居る圭吾の存在に気が付くと身を引いていく。
 そう仕向けたのはもちろん圭吾で、だから真白の傍によりつく女の子は友達止まりでしかなく、真白は恋を知らないまま今まで来た。

「なぁに不気味に笑ってんだよ、こっわーい」

 カランカラン、と店のドアに取り付けたカウベルが鳴って、入ってきたのは圭吾も、そして真白もよく見知った男だ。
 今の圭吾にとって――非常に不本意だが――恩人とも言える男。
 劇団Trickersの団長、保田譲。
「……お前ほど不気味じゃないつもりなんだけど」
「いんやだいぶ不気味だったぜ? さすが真っ黒吾くん」
「圭吾だから」
 遠い昔の不本意なあだ名を呼んでくる譲に対し、静かな声で訂正を入れつつ、圭吾はグラスを取り出してカフェオレを入れた。
 座ると同時に出てくるそれに「気前がいいな」と笑う譲に。
「ほんの少しばかり、感謝を覚えているからね」
 そんな事を言うと、にぃ、とまるで悪役のように譲は笑う。
「いやぁついに手ぇ出したかって腹抱えて笑った笑った」
「お前のその悪い癖はどうにかした方がいいと僕は思うんだけど」
 人の恋愛を見て腹抱えて笑う。そんな人間と友だなんてため息しか出ない。
 そんな事を呟くと、譲はぱたぱたと手を振ってこたえた。
「んー? 無理無理。死んで地獄行ったって俺の性根は治らないね! 人生楽しい!」
 これだから圭吾はこの男が嫌いなのだ。
 なんでもかんでもネタにして、人を俯瞰で見下ろして楽しんでいる。
 なのにどうしてか昔から気が合ってしまうから、こうして何年もつるんでしまった。
「んで? そんな黒吾くんは、これからどうするおつもりで?」
「カフェオレ一杯で酔っ払う人間には教えたくないね」
「酔ってねぇよ。これが素だ」
「それならなおさら教えない。飲んだらさっさと帰れ、野次馬野郎」
「やっだー、ひどい。メイヨキソンで訴えるワヨー」
「どうぞお好きに。プライバシーの侵害で訴え返しますから」
 どうもこの男を相手にしていると口が悪くなる。
 別に普段だったらどうでもいい事だが、これを真白に見られたり聞かれたりするのはあまり好かない事なので、できるだけ譲との接触は短くしたかった。
 そして多分そろそろだと思っている今、この男を一刻も早く店から出したいと圭吾は心底思っている。
 そして目の前の男もそれを知っていて、その上で居座っているからたちが悪い。
 カフェオレをちびちびと飲んでいるのは『飲んだら』と圭吾が言ったせいだろう。
「……ところでよ」
「なんだ」
「からかってやろうと思ったらウチの梓乃たんに一発かまされてよぉ」
 痛いのなんの。と彼は腹をさすっている。
 それが真実であるのは、本気で痛そうにしている顔と、彼の相方、桐嶋梓乃の性格を考えればすぐにわかる事だった。
「自業自得」
 涼しい顔をしながら答えると、だからねえ、と譲は笑う。
「めーいっぱい圭吾くんの方をからかってやろうと思ってきたわけなのだよ」
「ああ、そう。それで成果は?」
「……目の前の男がこんな奴だから俺様ちっとも楽しくありませーん」
「なら帰れ」
「だから目一杯邪魔してやる」
 据わった目で言われて、一瞬、圭吾の眉間に思いっきり皺が寄った。
 このクソ野郎、なんて普段は絶対に使わない言葉が脳裡に浮かぶ。
 つまみ出してやろうかと考えたところで、再び店のドアが音を鳴らした。
「お」
 楽しそうな声を上げたのは譲で、言葉を発しなかった圭吾の視線の先には、息を切らしてドアを開いた真白が立っていた。
 その姿に、圭吾の眦は一気に下がる。
「いらっしゃい」
 知らず、それまでの険が取れて柔らかくなった声に、譲が小さく口笛を吹いたが無視した。
 肩で息をした真白は、ドアの前で立ったままぱくぱくと口を動かしている。
「おうおう、ドラマチックな展開だこと」
「……っ、やす、だ……さ」
 息が整わないままに、真白が何か言おうとする。
 それを見た譲は、小さく笑った後に「おめでとさん」と呟いて席を立った。
「はいはい、邪魔者は退散します故。とりあえず深呼吸な」
 なんで、と言う声が聞こえた気もするけれど、その問いかけに答える事はなく譲は真白の背中を押した。
「わっ……!」
 思いもよらない譲の行動に驚いた真白は数歩前に飛び出し、その後振り返る。
 その視線を受けた譲は既にドアの外に出ていて、立ち止まって空を指差した。
「さて、今日は絶好の大団円の迎え方ができる日だ」
「え?」
「夜空に咲く華がお祝いしてくれっから。まあがんばれや!」
 この団長が言うんだから間違いなし。
 先ほどとはちがい、子供みたいな満面の笑みを浮かべた彼は、それだけ言ってドアを閉める。
 あとはクエスチョンマークを浮かべた真白と、カウンターの中の圭吾が残された。
 譲の行動に勢いを削がれてしまったらしい真白はその場で立ちつくし、えっえっ、と何度も圭吾と、譲が去っていったドアを見ている。
 その姿が大変にかわいらしく思わず笑いながら、圭吾はカウンターから出て真白の前にやってきた。
「久しぶり」
 そう声をかけると、見上げてくる真白の目にぶわっと浮かぶものがある。
 やがてぼろぼろと零れ落ちる、その涙の意味はなんだろう。
 悪いものではないはずだと確信をしながら、何度もそれを拭ってやると、息を整えた真白が腕を差し出して口を開いた。
「俺……おれね!」
 ちゃんとわかったんだ。

 感極まった声で告げる真白の声が、外から聞こえる音にかき消されそうになる。
 夜空に浮かぶ大きな華。大きな音が耳に届くけれど、真白の言葉ははっきりと圭吾の耳に届いた。
 伸ばされた腕と体を受け止め、圭吾だけに伝わる言葉。


 遠い昔に壊した貯金箱の中身を使って手に入れた笑顔。
 それが本当の意味で圭吾のものになる瞬間。
 それは紛れもなく、譲の言った通りの『大団円』だ。


「大好きだよ! 俺と付き合って下さい!」


 泣きながら笑って、耳元で訴えられた恋心。
 ずっと昔から手に入れたかった初恋を手に入れた大人は、今までにないぐらいの笑みを浮かべて答える。
 答えはもちろん。ずっと前から、決まっていた。






END