「けっ……圭吾さんの馬鹿!」
思わずそんな事を叫んで飛び出してから一週間。
「……はぁ」
ため息ばかりを吐き出す生活を、七日間。
元気が取り柄の真白は、自分の豹変ぶりを周囲が驚いている事もしらぬままに過ごした。
芝居の稽古はちゃんとでている。
殺陣の稽古も、いつも通り。
体に馴染ませたことはいつも通りにできるけれど、どこか現実味がない。
まるで遠くから世界を見ているような気分を味わいながら、本日何度目かわからないため息を真白は吐き出していた。
圭吾の部屋にも店にも、ここ一週間ずっと行っていない。
今日も稽古はもう終わっているのに、稽古場の椅子から立ち上がれないままだ。
――無理やり花開くって言うのもまた悦なものだよね?
最後に聞いた圭吾の声が頭の中を駆け巡るたびに、どうしたらいいのかわからなくなる。
その時同時にされた事も、真白の理解の範疇を超えていた。
(……あ、あれって)
一体どう言う事なのだろうか。
そう考えた後、もう一言、圭吾の声を思い出した。
――『きみがすきです』。ぼくは、そう、言ったよね?
楽しそうに。とても楽しそうに彼はそう言っていたじゃないか。
あれは、本気なのだろうか。本気だから、真白にキス、をしたのだろうか。
「……っ」
考えるたびに頭から火を噴きだしそうになって困る。
百面相しながらうーんうーんとうなっていると、ぽん、と肩に手がかけられる。
気づいて顔を上げると、そこに立っていたのは副団長の桐嶋梓乃だった。
「お疲れ、真白くん。もうみんな帰ったけど、帰らないの?」
にっこりと笑う彼の声に、真白はあいまいな笑みを返す。
優しげな笑みを浮かべる穏やかな梓乃は、学生で構成されるTrickersではなく、卒業生や有名どころの俳優が所属する、プロ劇団『Trickers』の補佐をする事が多く、大学内で顔を合わせる事は珍しい。
そんな梓乃が真白の顔を知っているのは、単純に真白がそちらのチームの上演に混じる事もあったからだ。
梓乃自身も俳優であったらしいけれど、今は劇団と団長の補佐に追われている。
複数あるチームの脚本を書き続けている保田が、書類などの実務をこなす事ができないのはわかりきっていることで、それを一手に引き受けているのが梓乃なのだ。
そして毎度毎度保田の思いつきや我儘に振り回されている一番の被害者としても有名なのだけれど、梓乃自身は穏やかな笑みを崩さぬまま『しょうがないからね』と言っている。
(……そういえば)
この人と保田が恋人同士であると言う事実は、大きく声に出しては言われないけれど有名な事であったりもする。
それを思い出した真白は、盛大に顔を赤くして。
「……えっ? どうしたの真白くん」
目の前に居た梓乃をあわてさせてしまった。
* * *
熱はないのかとか風邪じゃないのかとか、あわてふためく梓乃にスポーツドリンクを渡されて、違いますと訴えるのに少し時間がかかった。
「それならよかった。でも何かあったの?」
すとん、と隣のイスに腰を下ろした梓乃に見つめられて、なぜか目を見ていられずに真白はうつむいてしまう。
なんだか梓乃の唇が綺麗で、それを意識した途端に一週間前の出来事が脳裡をよぎってどうしたらいいのかわからずにぐるぐるした。
「……え、っと。あの」
「ん?」
「えと、ええと……」
どうしたらいいんだろう。
このぐるぐるした気持ちを誰かに吐き出してどうにかしたい。
でもどうしたらいいのかわからない。何を言ったらいいのかもわからない。
まだ中身が入ったペットボトルを潰してしまいそうなぐらいに強く握っていると、隣からゆっくりね、と声がした。
「なにか悩み事なのかな? 譲さ……団長も真白くんの様子がおかしいって心配してたよ?」
「え……? 保田さんが?」
「そう。ぶっちゃけますと、だから俺が来ました」
あの人に任せてると事態を悪化させるのが目に見えてるからね。
ふふ、と笑う梓乃がぽんぽんと背中を優しくたたいてくる。
「落ち着いて。言いたい事があるなら聞くし、言えない事は言わなくていいよ」
ただ俺にできる事があるんだったら、なんでもするから言ってね。
そう言って、しばらくの間梓乃はただ真白の横に居た。
しばらくは間が開いて、それでも気まずい雰囲気になる事がなかったのは、梓乃がずっと真白の背中を叩いてくれていたからだろう。
何度か深呼吸をしたあと、ふっと憑き物がおちたかのような気分になって、口が勝手に開いた。
「……好きだって、言われたんです」
「そう」
誰に? とは問われなかった。
ただ相槌を打った梓乃は、その続きが来るのを待っていてくれる。
「そ、それで。俺どうしたらいいのかわからなくなっちゃって」
馬鹿って叫んで逃げ出してきちゃって。
ぎゅっと目をつぶると、あの時の光景が蘇る。
頭が真っ白になってしまって、冒頭の言葉を叫んで、圭吾の反応もわからないままに家を飛び出して帰った。
それから今日まで一週間の記憶はあやふやで、それでも圭吾の言葉をずっと反芻しては顔から火が出そうになった事だけは覚えている。
「そう」
保田だったら間違いなくからかいの言葉が飛んできただろうけれど、梓乃の反応はただそれだけだった。
聞いているよ、と、それを知らせるための声。
それがとても心地よく、真白の何もわからなかった頭の中を少しずつ、整理してくれた。
「……俺、どうしたらいいのかなあ」
よくわからない。そう呟くと、ぽんぽんと背中を叩いてくれていた手がとまって、梓乃がこちらを見てくる。
「真白くんは、告白されて嫌だった?」
まっすぐに目を見ながらの言葉に、ふと、真白は自分の気持ちを考えた。
キスをされた、あの時。どう思ったのか。
(……いや? 圭吾さんが、嫌?)
無意識に唇に指が触れ、そこをなぞる。
それは一週間前に圭吾がやったのと同じ事だった。
気づかないまま真白が考えていると、目の前の梓乃が目を細めて笑った。
「『恋とはどんなものかしら』って感じかな?」
「……え?」
くすくすと笑う彼の言った意味がわからず首をかしげると「あれ? 知らない?」と梓乃は言う。
「……すみません、恋愛関係は俺よくわかんなくて」
だから今回もこうなっている訳だけれど。
眉を下げていると、梓乃は謝る事はないと言う。そして唐突に歌いだした。
Voi che sapete Che cosa e amor,
Donne, vedete S'io l'ho nel cor.
Quello ch'io provo Vi ridiro,
E per me nuovo Capir nol so.
そこまで歌って、ふふ、と梓乃は笑う。
「『こんなことはぼくには初めてで、よく理解する事ができないのです』だったかな?」
「……なんですか? それ」
「ん? だから『恋とはどんなものかしら』」
「えーと」
「フィガロの結婚て、知らない? その中の一曲」
そのまま、恋とはどんなものでしょうか。知っていたら教えて下さい。僕は恋をしていますか、と問いかける曲なのだと梓乃は解説してくれた。
「ね? 真白くんの胸中そのままって感じだと思わない?」
「って、言われても」
困ったまま反応できずにいると、そうだねえ、と梓乃は呟く。
「もう答えは出てるみたいだと、俺には思えるんだけど」
「……え?」
「俺が言った言葉、ちゃんと考えてみてごらん。そうしたらきっとわかると思うよ?」
そう告げた彼は、椅子から腰を上げて立ち上がり、真白の頭を軽くなでる。
「答えは灯台下暗しってね。真白くんが一番何をしたいのか。それがヒントじゃないかな?」
そう言って笑った梓乃は、ひらりと手を振って部屋の外に歩き出す。
「大丈夫だよ。怖いものなんて何もない。じゃあまたね」
その言葉を最後にドアは閉まって、遠ざかる足音おフェードアウトしていく。
それを見送った真白は、梓乃の言葉にぽかんとしながらふと思う。
(……おなかすいた)
ずっと習慣になっていた圭吾の料理を、もう一週間も食べていない。
それに気づくとなぜか口の中が痛いような気がして、なんだろうと思えば口内炎が出来ていた。
そう言えば圭吾に馬鹿と叫んだあの時、唇を思いっきり噛んだ事を思い出す。
『嫌だった?』
梓乃の問いかけを思い出し、今度はすぐに答えを出せた。
そして圭吾の声をもう一度思い出す。
――『きみがすきです』。ぼくは、そう、言ったよね?
何度も思い出した後、真白は立ち上がり、拳を握りしめる。
「……うん」
それまで遠かった感覚が、急に戻ってきた気分だ。
ふわふわと宙に浮いていた足が地についた。そんな感覚。
そして一歩、足を踏み出して真白はまっすぐ前を見る。
一週間。圭吾からの連絡は何もない。
そこに気づいてしまったらもう、止まらなかった。
走り出した真白は、まっすぐに圭吾の店へ向かう。
言いたい事がある。怒りたい事もある。
だからまず、あの人の顔を見よう。
それでまっさきに浮かんできた言葉を言って、あとはめいっぱい、おなか一杯にしてもらうんだ。
その先には多分笑顔が待っていると確信しながら、走る真白の顔にも笑みが浮かび上がっていた。
END