――――――――――――――――――― 『これから見える未来』





 話したい事はたくさんあったように思う。
 けれど、そんな事はもうどうでもよくなって、目の前に居る彼の事しかわからなくなってしまった。



 再会して数時間後、総輝の家にふたりは居た。
 個展の初日で最後の時間まで在廊していたため、帰って来た時にはもう結構な時間で、道すがら購入した夕食をテーブルに広げる。
 そして夕食を食べながら今は何をしているのと問われ、しばらく考えた後に『昔とあんまり変わらないよ』と総輝は答えた。
 ずっと絵を描き続けてきていて、それは本当に変わっていない。
 変わったのは年齢と、絵を描いてそれで生きていけるようになった事ぐらいだ。
 再開したあの時は18年間の話を聞いてもらおうと思っていたけれど、いざ思い出してみれば、特出した事がないように思える。
 そう思いながらもう一度『本当に変わってないんだよ』と言えば、晴天はそんな事ないだろと言う。
「だってほら。俺にとっては一瞬だったけど、総輝は18年だし。その間に携帯電話なんて便利なものもできたし、世の中だって随分変わったじゃないか」
 あの時の総輝の年齢以上の時間を、どうやって生きてきたのか。それがとても気になると晴天は言う。
「うーん……でも、これと言ってとくに……」
 本当に昔とあまり変わりはなかった。
 確かに学校は卒業して、画家にもなれたわけだけれど、根本的な部分は何も変わらない。
 それになにより、目の前に晴天が居る事のほうが大事すぎて、待っていた間の事を考える余地がなかった。それなのに、晴天はひどい事を言う。
「俺の事なんて忘れてた?」
「それはない!」
 にっと唇の端を上げて笑うその表情は、近所の悪ガキみたいだった。
 意地悪を言われたのはわかったけれど、それに怒るよりも早く否定の言葉が口をついて出る。
 その事にびっくりして口を塞ぐと、晴天は「よかった」とにっこり笑って立ち上がり、総輝の目の前までやってきて床に膝をついた。
「ごめん。でもそれだけが不安だったんだ」
 まっすぐにこちらを見てくる視線にどきりとする。
 18年前と何も変わらない――変わるはずがないのだけれど――その目に、けれどその時とは全然違う自分が映って見えて、晴天の言葉おは逆に、総輝は不安になった。
 この18年は、当時とあんまり変わらないなどと言ったけれど、変わった事ももちろんある。
 一番の違いは、晴天がいなくなってからの総輝の人生に『待つ』と言う一言が加わった事だ。
 あの当時、晴天が『総輝は画家』と言ったから、それまではぼんやりとしていた未来をきちんと見つめなおした。そしてあの言葉通り画家になった。
 晴天に見つけてほしくて、少しでも彼の近くに自分が居られるように、色々がんばった。
 売名行為は好きではないので、自分の作品が彼のそばに行くように、彼の目に留まるように、できる事はできる分だけやった。
 彼に言われた事を思い出して、そうなるように努力もした。
 そうして18年。ずっとずっと、待っていた。
「俺には『離れてた』って言う感覚がないから。ずっと待っててもらった間に、総輝がちょっとでも忘れてり、怒ってたりしたらどうしようかなぁって」
「……そんな事あるわけないよ」
 さっき大泣きして会いたかったと言ったのに、何を疑う余地があるのだろうか。
 そう思ったけれど、晴天には晴天なりの何かがあったのだろう。
「うん」
 わずかな安堵のまじる声。頷くそれに、総輝は開いていたてのひらを握りしめる。
 膝の上でぎゅっと握った拳の上に、晴天の手が重なる。
 どれだけこの日を待っていたことか、晴天にはきっとこれからも理解はできないと思う。それは多分、晴天自身もそう思っているだろう。
「お、俺の方が……ずっと、ずっと不安だったんだ」
 どんなに寂しくても、どれだけ会いたくても我慢して、ずっとずっと待っていた。
 きゅう、と強く握りしめる手を、温めるように晴天が撫でているのが嬉しい。
 その手の上にぽたりと何かが落ちる。ひとつ、ふたつ。
 ぽつぽつと音を立てるそれは、総輝の目からあふれて止まらない。ああまた泣いた。どこか遠くに居る自分が脳内でそんな事を言う。
「あ、あそこに晴天がくるかもわからなかったし、来ても……お、俺と、一緒に居た、晴天じゃない、かも、しれないし」
 あふれる涙と共に、顔はぐちゃぐちゃになった。
 頬をぼろぼろと零れ落ちる涙を、晴天がまたぬぐってくれる。
 個展の会場の中では、嬉しさに涙を流した。けれど今はそうではない。
 今まであまり考えていなかったし、無理やり気づかないように押し込めていた不安が一気にあふれ出して止まらない。
 涙に曇っていく視界から、また晴天が消えてしまうのではないかと恐ろしくて、怖くて怖くて、腕を伸ばして総輝は彼にしがみついた。
「も、もう……どこにもいかないで……!」
 お願いだから、ずっとここに居て。
 もうあんな想いは嫌だからとしがみついて涙で服を濡らしていく総輝を、晴天は抱きしめて、ずっと頭を撫でてくれた。
 しばらくはそんな状態が続いてようやく涙が収まったころに、晴天はようやく総輝を離す。
 顔を離せば晴天の上着は涙でびちゃびちゃで、それを見つけた総輝が謝り倒すと、いいよこんなのと晴天は笑った。
「泣くほど待たせてたのは俺だし。まあ、勲章って言うことで」
「勲章?」
「そ。総輝の愛の証? みたいな?」
「……そっ、なっ!?」
 晴天は「あはは」と笑いながら、真っ赤になった総輝をかわいいと言う。
 そんな言葉にまたも真っ赤になった自分の頬をごしごしとこすりながら、総輝はもうひとつの不安を口にする。
「もう三十四になるんだけど」
 そんなおじさんにかわいいとは。
 ぽそりと呟いた声に、だが晴天はぽかんとした後、ふっとこらえきれないように笑った。
「その顔で三十四とか言われてもなあ?」
 信憑性ないよと告げた後に、彼は目をそらして笑う。
 若いと言ってくれるのはいいのだが、その反応はその反応で嫌だと眉を寄せると、いやほんとうにと晴天が頬に触れてくる。
「ばかにしてるんじゃなくてさ。それに、三十四の総輝の顔、ちゃんと知ってたから安心して」
 くすくすと笑う晴天は、大丈夫だと言いながら音を立てて頬にキスをした。
「言ったよね? ずーっとファンだったよ」
 顔出ししないタイプならともかく、好きな人の顔を知らないなんて事はないだろう。
 くすくすと嬉しそうに笑いながら、頬に額にとキスが落とされる。
「総輝ならなんでもいいんだ。俺は。そう言う総輝も、年下の俺は嫌じゃない?」
「いっ、嫌なら待たないし、連れてきたりしない」
「……うん。知ってる」
 不安だなんて言った割には、余裕そうな口ぶりでうなずくのが悔しい。
 それでも『ありがとう』と告げる声が優しくて、怒るよりもうれしくてしょうがないのが本当のところだ。
 大体こんなことで怒るなら、18年も待てるわけがない。
 そう思ったら少し面白くて、小さく笑うと「なに」と晴天が首をかしげた。
「なんでもない」
「そう?」
「うん」
 小さく笑いながら、触れてくる手に頬をすり寄せる。
「幸せだなあって、思っただけだよ」
 だからもっと触って。
 そう訴えた言葉は総輝にとってはなんでもなく、頭を撫でて欲しいと言うのと同じレベルの話だったのだが、それがどう相手に届くのかは何も考えていなかった。
 だから頬をすり寄せていた手がぴくりと動いた事に気づいて顔を上げて、そして。
「そう言う事言われると勘違いするけど、いいの?」
 するりと顎を撫でる指先と、すっと細くなった晴天の目を見てようやく自分の言葉を相手がどうとったのかを知った。
「あ、ええと……いやあの、ええと……」
 告げた瞬間にはそんな意図はなかった。なかったのだが、いざ言われれば当然意識してしまう。
 そして家にはふたりだけで、ごはんも食べて、夜だ。
 何度も何度も視線をうろつかせて、どうしようと頭の中で煩悶した後。
 ぐっと唇をかんだ後に総輝はうなずく。
「ほんとに?」
「……ええと、はい。いい、です」
 後半に行けば行くほど声は小さくなっていった。
 だがそれでも届く距離に居た晴天は、その顔にぱあっと効果音がしそうなぐらいの笑みを浮かべたあと、近かった距離をさらに詰めてくる。
「んん……!」
 視界が肌色で埋まって、唇が重なった。
 キスをされながら、ああ、やっとだと反射的に総輝は思う。
 本当はずっと、こうされたくてたまらなかったのだなあと目を閉じて、幸せだなあと総輝は思う。
 ここから先に見える未来には、晴天の姿があるのだと思うとほっとして力が抜けた。
 好きだよ、ともう一度お互いに告げて、額を合わせた後またキスをする。
 互いの事だけしか見えなくなって、それからはもう、何を言うでもなく指先を絡めてただ早く、とだけ思った。