■鉄の扉■


 朝、カノンは目覚めたその瞬間に、己の具合の悪さに気づいた。
それは激烈にひどい状態で、熱があるかな、などという通常言う「具合が悪い」とは桁が違った。
計るまでもなく、熱などあるに決まっているし、仕事などしている場合ではないというか、出来るはずがないというか、とにかく仕事場でどんなに重要な事柄が自分を待ち構えていたとしても、自分が行くべきはそこでないことは明白だった。
「び……病院…………」
 暗い廊下を、壁にもたれながらカノンは兄の部屋へ歩いた。
ここに住んでしばらく経つが、この廊下はこんなにも長かっただろうか。
昨日まで普通に歩き、別段何の感想も持たずに兄の部屋へ辿り着けたことが信じられない。歩けど歩けど兄の部屋は遠い。足元はおぼつかず、壁にもたれるというより、最早しがみ付いているといった方が近い。
 体重を壁に預けていなければ、立っていることすら難しい。額をこする壁の感触がひどく不愉快だった。
「サガ……、サガ…………起きてくれ」
カノンはサガの部屋の扉を叩いた。片手を上げただけなのに、バランスが大きく狂う。目がぐるんと回った。
「サガ……」
頼む、起きてくれ。もう一度ノックするなんて無理だ。
不機嫌そうなサガの顔がドアから覗く。目を閉じ、うなだれたままカノンは言った。
 がちゃり、と音を立ててドアが開いた。
「病院へ連れて行け」
 サガは怪訝な目をして、カノンを無言で見つめた。
昨日の今日だ。昨日の喧嘩はちと痛烈だった。会議に出席するための法衣を貸してもらえないかと、たったそれだけの話だったのに、ほんの些細な言葉のあやからとんでもない大喧嘩へと発展してしまった。

 サガ曰く、物事に対する見通しが甘い。
カノン曰く、法衣はある。だが肩のあたりが擦れて不快なため、一日借りたいだけだ。カノンの言い分に対して、サガはそれが見通しが甘いというのだ、必要と思しきものは予備も含め準備して然るべきと説教を食らわせた。
 言われたカノンも黙っていない。自分の立場―――黄金の一員として今後も扱われるのか、それとも雑兵待遇となるのか―――すらはっきりしていないのに、無駄な出費など非合理極まりない。
お前こそ人の上に立つ者としての資質に欠ける、と、この辺りから、カノンはサガの触れてはならない部分に触れてしまっており、一晩寝たくらいでは神経質な兄の機嫌が直るはずなどないレベルに達してしまったことくらい承知だったから、カノンだって、サガになんか頼りたくはなかった。
 だが、そんなことを言っていられる状況ではない。背に腹は変えられない。

「具合が悪いんだ、とんでもなく」
 壁に額をもたれかけたままカノンは言った。
「病院へ………、頼む」
 計るようにカノンを見ていたサガが口を開いた。
「よくも言えたものだなカノン」
 感情のない声でサガが言った。
 あちゃー、超絶不機嫌か。
「昨日のことは謝る、売り言葉に買い言葉だったんだが、あれは俺が言い過ぎた」
「その変わり身の早さ、感心するぞ。だがわたしはお前には誑かされん。お前の言う“具合の悪い”に踊らされたことは一度や二度ではない」

「それは子供のころのことだろう!今そんなことするか!」
 節々がむずがゆい。更に熱が上がる兆候だろうか。
「子供ではないというなら自分の事は自分でするのだな」
 サガは冷たく言い放った。
「サガ!頼む、本当に具合が悪いんだ。寝てれば治るといった類のものとは違う。頼むから病院へ連れて行ってくれないか」

「断る」
 にべもなくサガは言った。
「今日が何の日かお前も知っているはずだ」
 そう、それで俺たちは喧嘩になったんだ。重要な会議だということは誰もが承知していた。聖域の復興と今後の仕事の割り振りについてを話し合うことになっていた。

「二人揃って双子座が欠席するわけに行くか」
お前の待遇もここで決まるのだぞ、という言葉は、サガは心の中でつぶやくに留めた。

 会議も終盤に差し掛かったころ、会議室に叩扉の音が響いた。
「誰だ」
 シオンの硬質な声が議場に響く。
「俺です」
「デスマスクか。今まで欠席の連絡もせず、何をしていた」
「詳しい話は後で。サガ」
 ちょっと来いと、デスマスクの指がサガを呼んでいる。

 議場を抜け出したサガは、デスマスクからカノンが入院したことを知らされた。
 サガに断られたカノンは、一人ふらつく身体を支えながら十二宮の階段を上って行ったらしい。
聖域外に出るのに、なぜ階段を上ったのかといえば、単に下りられなかったからである。
 助け手を捕まえて、支えてもらわなければ階段を下ることは無理だったと、こういうことだったようだ。小宇宙を燃やすことすらままならぬカノンを見て、デスマスクは一も二もなく病院へ連れて行った。
病院はかなり混んでいたが、カノンの様子を見た看護師は順番を飛ばして診察室へ通してくれた。
待合室で待っていたデスマスクは詳しい話を聞いたわけではないが、カノンはこのまま入院となること、詳しい説明を聞くため家族を呼んで来るよう言われたとのことだった。

「サガ、あんたたち仲悪いのも大概にしろよ。カノンもカノンだ。あそこまで具合が悪いのに、なんで一言も言わないかね」

 サガの胸がちくりと痛んだ。カノンは必死でサガに頼んだのだ。具合が悪い、頼む、と。
弱りきったカノンの小宇宙に気付くことすらなく、サガはにべもなく「自分のことは自分でしろ」と撥ねつけた。そこまで悪いとは思わなかった、こうなると分かっていれば、と言い訳がましくサガは思った。

 サガが病院を訪れることが出来たのは、結局それから3日経ってからだった。
 カノンの病室を確認し、訪れてみるとそこにカノンは居なかった。
まっさらなベッドはちょっと出ている、という雰囲気ではない。不審に思い、病室の名札を確認すると、そこにカノンの名はなかった。事態を飲み込むことが出来ぬまま、サガは廊下を歩いた。

 何の気なしに足を向けたその先の部屋の扉が、まさに閉められるところだった。
白く塗られた鉄の扉は、重く、鈍い音を立てて閉じられた。
扉を締めた看護師にサガは尋ねてみることにした。カノンは、一体どこに居るのか、と。
「こちらの部屋へ移転していただいたんです。今、カノンさんは眠っています。ちょうど薬が効いてきたところですから」

 彼女はゴム製の手袋をはずし、使い捨てと思しき紙製のスモッグをはずすと、同素材で作られた帽子とともに用意されていたビニール袋へと丸めて押し込んだ。

 そして、彼女はサガの方へ向き直ると、やわらかな口調でこう聞いた。
「ご家族の方ですね?」
 その言葉に、サガは絶句した。
 サガは、自分が病院へ来れば、カノンと間違われ騒がれると覚悟して来たのだ。
病人が部屋を抜け出したと思われるだろう。部屋に居るカノンを確認し、信じられないといった顔をして、自分とカノンを交互に見遣るに違いない、そうサガは予想していた。


 サガはいつも説明の方法について考えていた。どうすれば、ああなるほどと納得してもらえるだろう。だが、サガが分かりやすいようにとどんなに説明を工夫しても、周囲の人物は事態を飲み込むまでに呆れるほど時間を要するのだった。
 一卵性双生児だということに驚嘆し、サガとカノンを交互に見る。そしてまた驚きの声を上げる。
もう嫌になるほど繰り返されてきた儀式だった。
 だが、今回、彼女を始めとする病院関係者は全員自分をカノンと間違えることはなかった。
カノンはそれほどまでに、面差しを違えてしまったということだ。カノンの病は一体―――――。
「今先生をお呼びしますから、そちらの部屋でお待ちください」
重い思考の沼に沈んだサガを、その声が現実に引き戻したのだった。
 通された部屋は、カンファレンスルーム、と書かれていた。
 壁には誰かのレントゲン写真が貼られたままになっていた。無造作に置かれた椅子は、ここで話をしていた全員が立ち上がり、立ち去ったときそのままの状態になっている。これが、ここで働く者の日常なのだろう。日常――病院とは、訪問者にとってはどうしても馴染むことのできない異質な空間である。
 柔らかな色彩と可愛らしい模様の描かれた壁紙などは、緊張を少しでもほぐせれば、という配慮であろうが、正直しらじらしい演出としか感じられない。

 何を差し込むのか見当すら付かない、いくつもの穴の開いた機械的なパネルが、そのささやかな気遣いを根底から覆し、緊張どころか恐怖すら覚えさせていることに何故関係者は気付かないのか。

「お待たせしました」
不意に後ろの扉から医者が姿を現した。慌てて戻ったところなのか、医者は白衣を整えながら椅子に座った。
「結論から申しますと、未だ病名がつけられない状態です。症状から思い当たる病名については全て検査しましたが、どれも陰性でした」
「……………」
「とにかく熱が高い。対処療法ですが、熱さましを点滴で入れています。熱を下げておかないと、とにかく体力を奪われますからね。まぁ患者さんは若いし、男性ですし、まず心配はいらないと思うが、ジリ貧になってもいけませんから」
 言外に、医者は長丁場になると言っているのだ。長引いた場合、「最後」は体力勝負なのだと。
「感染症であることは間違いないのです。原因がはっきりしないので、カノンさんには個室に入ってもらっています。
二次感染を引き起こしてはなりませんのでね。ですので、申し訳ないが、病名がはっきりするまでは面会は出来ません」


 重い気持ちで、サガはカノンの病室の前に立ち尽くした。取っ手に下げられた、面会謝絶の札を見るともなく見ながら、先ほどの看護師のしていた動作を思い出した。あれは、感染症の拡大を防ぐための消毒だったのか―――と。

 事態は膠着状態のまま、10日が過ぎた。
依然として病名ははっきりせず、カノンの熱は下がらない。
あの日のまま、面会謝絶の札は、鉄の扉の取っ手に吊り下げられたままだったから、サガはカノンの顔を見ることは叶わなかったが、カノンが医者の言う「ジリ貧」の状態へと近づいていることは分かる。ゆっくりと、だが確実に。
何も出来ないもどかしさが、サガの胸を焼いた。

 言葉もなく扉の前にたたずむサガの気配に気付いたカノンが、扉越しに話し掛けて来た。
「サガか………」
「カノン、目が覚めたのか」
「夢じゃなかったんだな…。お前の小宇宙が近くにある夢を見てた………」
 自分とよく似た、そしてとても懐かしい小宇宙。それはひどく自分に安堵をもたらした。
「相変わらず面会謝絶だそうだ。家族ならいいように思うが」
「いや―――、それは無理だろう、最悪エボラかもしれないと、こないだ医者が言ってたからな」
 サガが息を飲んだ。
 エボラ出血熱。アフリカの風土病にして、致死率は実に50%〜90%。非常に強い感染力と増殖力を持って、感染した体細胞を破壊して行く。至るところを破壊された身体は、あらゆるところから出血することになる。その末路は医学用語で「炸裂」、「放血」と呼ばれる。凄惨な最期である。エボラウイルスは、まさしく最強の殺人ウイルスと言えるだろう。
「ちょっと前だけど、アフリカ行ったからなぁ」
 熱冷ましが効いているのか、声だけ聞くと、カノンは普段と変わらなかった。
「すごかったぞ、アフリカは。生命の根源てこうなのか、と思ったよ。人間はあそこで誕生したんだってな。細胞のナントカを辿っていくと、全員がアフリカに辿りつくんだろう?」
 ミトコンドリアは母方の系譜を刻んでいる。数十万年前、アフリカの大地に存在した一人の女性に、人類はすべて繋がっている。偉大なる人類の母は、旧約聖書の人類最初の女性から引用し、「ミトコンドリア・イブ」と名づけられた。

 アフリカに住まう旧い神に、勅命でカノンは会いに行った。
生命の素が無数に投げ込まれた鍋で、ぐつぐつ煮込まれてるような感じだった。
 あそこの神様は、洗練はされていないが、野太い生命の持ち主だった。あんな神様、俺じゃとても誑かせない、とカノンは笑いながら話した。

「あの神様を見てたら、俺なんぞは小さいなぁと思ったよ。あの地は・・・神様も、生き物も、みんな生きることに貪欲だった。本能剥き出しで、自分が生き残るためには何でもやる。それが当然という世界だった。人間も、はるか昔はああだったんだろう」
 カノンは静かに語った。

 サガはこんなに穏やかなカノンを初めて見る気がした。
いや、初めてではない。見たことがある。あれは、いつのことだったか―――――。
「善とか、悪とか、そんな括りなんかない生き物がいっぱいいた。どっちが幸せなんだろうな?人間は進化して来たんだろうが、その変わりに何かを亡くして来た………」


 そうだ、思い出した。
あれは、ジュデッカでのことだ。

 嘆きの壁を前に、魂だけだった自分に、カノンは自分が纏っていた聖衣を送ってよこしたあの時。
静かに、カノンの小宇宙は伝えて来た。
「頼んだぞ、兄さん」
 思いが一つに帰結する。
サガは身震いした。あのとき、カノンが覚悟したのは――――――。

「カノン!アテナが明日、聖域に戻られる。そうしたらすぐに回復させてもらうよう上申しよう」
「サガ、やめろ。いや、止めてくれ」
 カノンが静かにサガを制した。
「俺は何百万という人を殺した。それを上回る人が、今なお苦しんでる。それなのに、俺はこうして病院に居て、たくさんの人が俺を救おうとしてくれている。俺には過ぎた死に方だ」
やはり、カノンは己の死を覚悟していたのだ。
「サガ、お前もあんまり思い詰めるなよ。お前のしたことも許されるものじゃないが、なに、俺に比べれば数が違う。
どうにもならなくなったら、俺に比べりゃ全然大したことないって思え」
「カノン!」
「罪が消えてなくなるわけではないが、ずっと背負っていかなきゃいけないんだ。少しでも楽な背負い方を探さないとな。押し潰されて、また過ちを犯すことだけは出来ないんだから」
「死ぬな!カノン!!今まで・・・今までずっと認めずに来たが、わたしは都の悪いことはみんなお前のせいにして来た。お前がああしたから、お前がああ言ったから、そうやってお前に罪をなすりつけることで、わたしは自分を何とか保って来たのだと思う。お前という存在を失ったあのときから……スニオン岬へ追いやったあのときから、わたしは自分を支えることが出来なくなった。カノン、だから、私を置いていかないでくれ。もう二度と一人にしないでくれ!」


 人は弱い生き物だ。一人でなど生きていけない。
いつも正しくなどいられない。

「こうして………せっかく再度生を享けたのではないか………。こんな………こんなことで死んでしまうなど、生き返った意味をまるで為さぬ……………!」
「サガ、そんな風に言ってもらえるとは思ってなかった……。俺は………お前とこうして話せて良かった。アテナ神殿でも、冥界でも、こんな風に話す事は出来なかったからな…………」
 カノンの声が少し震えている。
決して聞き間違いではない、とサガは思った。
「サガ…。叶うなら、また生まれ変わるときも双子で生まれよう。今度は、フツウの………ごくごく平凡な人間として生まれよう」
黄金の鎧を纏い、神と戦う聖闘士などでなく。神の化身と湛えられ、もしくは神をも誑かす、人を越えた存在などでなく。


「カノン、手を…………」
 鉄の扉に、サガは両手をついてカノンを呼んだ。
 カノンの気配が、ふっと近づく。扉の向こう側で、カノンもそっと手を置くのが分かった。
お互いの手のぬくもりを、二人は確かに感じた。

「サガ、俺が帰ったら、こないだの法衣を着せてくれ」
 死出の衣に、サガの法衣をとカノンは言っているのだ。
「ああ、分かった。お前の法衣はわたしが貰おう」
「擦れるぞ、左肩が」
「大丈夫だ、わたしは我慢強いから」


「ん?」
 擦れる?
左肩が……擦れる?


何かを感じて、カノンはその左肩に触れた。
あれから10日も経っているのに、まだそこは痛痒い。擦れたわけでは…ない………?
何かが出来ている………?
「サガ!医者を呼べ!!」
「………?」
 サガが涙顔を上げる。
     「聞こえなかったのか!医者だ、医者呼んで来い!!」
 サガは何のことか分からなかったが、カノンの剣幕に圧されて医者を呼んだ。

「先生、出来物かどっか刺された傷がないかって言ってましたよね?」
 そういうと、カノンは寝巻きを脱ぎ捨てた。そして、医者に背中を向け、左肩を指差した。
医者はぽかんとした顔をして、それを見ていたが、おもむろに笑いだした。
「これ、なんかなってますよね?」
「カノンさん、あなた、日本に知り合いが居るって言ってましたね?」
カノンが頷く気配がした。
 サガは、鉄の扉の向こう側での二人のやり取りを、固唾を呑んで聞いていた。
それに気づいた医者は、扉を開け放った。
「「!!」」
「開けて良いのですか?!」
「開けて良いのか?!」
二人が同時に声を上げる。
「大丈夫。人から人へは感染しませんから」
サガを病室内へ呼び込むと、医者は説明を続けた。
「詳しい種類は確定できないが、これは風土病に違いありません。恐らく、ですがアフリカではなく、日本のものだ。あなた、日本へ行かれたことは?」
「あれは……先週………いやその前に。アテナを日本へ送って行ったときだから」
医者は満足気に頷いた。
「やっぱり。潜伏期間もどんぴしゃだ」
更に、得意げに医者は話を続けた。
 医者は自分の意地と矜持をかけて、世界中の感染症を再度くまなく調べ上げ、似た特徴のものを数点に絞り込んでいた。だが、その根拠となるべき感染箇所が見つからなかったのだ。医者は患者を裸にし、全身をくまなく探ることを原則とされていた。だが、この患者は、服を脱ぐことに強い抵抗を示した。何やら事情があるのやもしれず――――この患者はまるで筋肉の標本のような身体をしていたし、看護師は胸に鋭利な刃物で刺された痕と、何箇所にも渡って銃弾を享けた痕とがあったと言っていた。常識で考えれば、即死だったはずだという。

 付き添って来た銀髪の男の目つきの悪さも尋常ではなかったし、まぁ、よくあることだが、そのスジの方、ということなのだろう。

 その暗黒街の武闘派を、無理やりひん剥くわけにも行かず、問診に留めたのだがそもそもの間違いだった。どんなときも基本は大切にしなくてはな、とこのとき医者は肝に銘じたのだった。

「うむ。肝機能の数字もぴったりだ」
カルテを見ながら医者は言った。
「これならば、三日もあれば大方治るでしょう。熱で大分消耗していますから、一週間程度は体力回復のために入院してもらいますが」
「先生、病名は何なのですか?」
医師は、ご存知ないかと思いますが、と前置きして説明を始めた。
「ツツガムシ病、という病気です」
「「ツツガムシ病?!」」
 ツツガムシの幼虫に寄生する病原体リケッチアが、人間に寄生することにより発症する病気で、昔は致死率も高く非常に恐れられた病気である。だが現在は治療法も確立されており、さして恐れることはない。

 余談だが、「つつがなくお過ごしでしょうか」というあいさつ文は、この「ツツガムシに刺されるような重篤な事態に陥ることなく、無事に過ごしているか」という意味であることは、あまり知られていない。


 医者の予告通り、病名が分かってからカノンはみるみる回復した。あれほどカノンを苦しめた病魔を、点滴ごときで退治してしまった。現代医学、恐るべし、である。


 こうなると病院の健康的な食事などで足りるはずはなく、面会謝絶札がはずされたことを知り、見舞いに訪れた同僚たちに、哀れな病人のふりをして、わがまま放題差し入れをせがんだ。一時こけていた頬も、一回り大きくなった目も、今ではすっかり元通りだ。

 顔色はすっかり良くなったが、カノンの表情は重かった。
聖域への報告書を何としたものか。
「なんだかよく分からない虫に刺されて死にかけた」などと書けるものか。
 そう、双子座の黄金聖闘士の片割れとしては、「あのエボラウイルスを克服し、奇跡の生還を果たした」と言う内容を、極力謙遜しながらも、どう抑えても奇跡なのだということが溢れてしまう文面で綴りたいところだ。そして最後に、これもアテナのご加護である、と美しく締めくくりたい。

 そこへちょうど折りよくサガが顔を見せた。
 今にして思えば、なんとも間抜けなことをしたものだ、なんだあの熱烈な愛の告白は。
こそばゆいが、まあ今回はそれを利用させてもらおう。融通の利かないこのカタブツも、口裏を合わせ……いや、報告書の推敲に、協力してくれるに違いない――――。


「だからお前ら、仲が悪いのも大概にしろって言ってるだろうが」
 退院するカノンの荷物を持ち、デスマスクが文句を言う。
「俺に言うな」
「んとに、雨降って地固まるとかそういう展開しねえか普通」
「サガに言え」

 アテネの街は、今日も渋滞。忙しくも平和な日常が目の前に広がっている。
 カノンは、その黙ってすましていれば、ギリシャの彫刻のようだと言われるその端整な顔に、派手な青タンをつけていた。


「お前、どの面下げて教皇に会うつもりだ」
「上手いこと言ったつもりか」
 二人は、聖域へ向けて歩き出した。
 だからサガに言えと言ってるだろう、俺は被害者だぞ、とカノンはこのあと何度も繰り返すことになるのだった。



・おわり・