■そして、時は過ぎて■



 懐かしい小宇宙を感じて、ミロはふと顔を上げた。
「よお」
 そこには、大きな白い箱を抱えた、カノンの姿があった。
「なんだお前、その格好」
 カノンは風を通さない素材で出来た上っぱりを引っ掛け、足にはゴム長靴を履いていた。
「港からそのまま来たんだ」
 足が早いからな、と言いながらカノンはその白い箱を開ける。
「お前、駆け足が得意なのか?」
 ミロの傍らに立っていた、まだ年若い雑兵がカノンにそう言葉をかけた。
足が早いというのは、腐り易いという意味なのだとカノンが笑いながらそれに答える。白い箱が、きゅりきゅりと耳慣れない音を立てた。軽くて熱を通さず、そして頑丈なのだという。カノンは、いつもこの箱に魚を詰めて現れた。
 物珍しげに、雑兵がその箱に手を伸ばした。よく見ると、小さな粒が数え切れないほど寄り集まってその箱を形成している。街中では珍しくもない発泡スチロールだ。だが、何百年単位で時間がずれている聖域では、まずお目にかかれない。その箱は繰り返し何度も使われているのだろう。ぶつけたり、擦れたりした痕だろう。そこここが凹んでいたり、茶色く変色していたりしていた。
「ミロさま、とりあえずわたくしはこれにて。また後ほど参ります」
 年若い雑兵は、カノンにゆっくりして行くと良い、と言い残し、その場を去った。

「もう十年だもんなぁ」
 カノンとサガが、聖域を去って十年が経っていた。
「あいつ、お前が誰だか知ったら腰を抜かして驚くぞ」
 年を追うごとに、二人を知る者は減って行った。十年という年月が過ぎた今、二人を知る者はほとんど残っていない。
「サガは元気か」
「ああ。相も変わらず品種改良に取り組んでるよ」
 二人は聖域の再興に目処が立ったころ、正式に退位を申し出た。周囲は驚き、引き止めたが二人の意思は固かった。もう前から決めていたことなのだ、と決して申し出を取り下げることをしなかった。その申し出が受理されてから、二人は フランスとスペインの堺目のあたりにある、半農半魚の村に移り住んだ。カノンは船に乗って魚を取り、サガは畑を耕すことにしたのだという。
「サガが畑やってる姿ってのは、どう頑張っても想像出来ないな」
「もうどっからどう見ても、立派な農家のおっちゃんだ」
 カノンが笑いながら答える。
 サガは、良い特徴を備えた株から種を取り、それを育ててまたそのなかから優れた種を取るという、昔ながらの品種の改良方法を繰り返しているのだという。
「そういうのなら、アフロディーテに聞けば良いのに」
 不思議と、サガは聖域には姿を見せることをしなかった。
 ミロのその言葉に、カノンも曖昧な微笑みを浮かべただけで、答えることをしない。いつものことなので、ミロもそれ以上の追求はしなかった。
「まぁ、正直お前も姿を見せるとは思ってなかったんだが」
 二人が聖域を去って数年後、今日と全く同じように、カノンは白い箱を抱えてふらりと姿を現したのだ。
「魚が取れすぎた」
 もらってくれとそう言って、カノンは聖域の賄い処の裏口に現れ、当然のことながら不審人物としてちょっとした騒ぎになった。そこへ偶然通りかかったムウが取りなしをして事なきを得、それ以来「詳しいことはよく分からないが、とにかくムウさまのお知り合いの漁師」という形で認識された。

「近所の知り合いに配らなくて良いのか?」
 カノンの来訪が習慣となったころ、ミロは思い切って聞いてみた。
「そんなもの、とっくに配っている」
 漁師の言う「取れすぎ」の意味を正確に理解する一般人はまずいないだろう。親しい友人に渡し、日ごろ世話になっている知り合いに配り、数回面識のあるだけの人物にも渡す。それでもまだ余るから、しまいには飲み食いをしたことのある店にまで持って行く。「こんなにいただいたら悪い」という感謝と遠慮の言葉は、回数を重ねるごとに「こんな量は迷惑だ」という意味へと変わって行く。せっかく取れた海の恵みを無駄にするのは申し訳がない。だが、もらってくれる人はもうどこにもいないのだ。そしてまた翌日漁に出ると、同じことが繰り返される。
 そうしてついにカノンは聖域を訪れた。若い兵士の多い聖域では、肉や魚類はいくらあっても足りない。それも、手に入らないことはないが、なかなか手の届かない外洋で取れた魚を持って来るということで、カノンの来訪はやがて歓迎されるようになった。
「不思議とここに持って来ることに頓着はなかった」
 合わせる顔がないとか、訪れる資格がないとか、そういう感情的な気持ちに、カノンはならなかった。久しぶりだし、行ってみたいと思ったのだ。知り合いに会ったら会ったで構わなかった。否、久しぶりに顔を見たいとさえ思った。
 もう、自分の中で、あのことが過去のことになったのだろうとカノンは思った。反省と贖罪の気持ちを忘れたという意味ではない。心の中で、その折り合いがうまくついたのだろうと思っている。
「雑兵どもに、漁師のおっちゃん呼ばわりされても平気なのか?」
「ああ。それが事実だ」
 カノンの髪には、白いものがずいぶんと混じっていた。元が色の薄い金髪だからそれほど目立つというわけではないが、知る人が見ればその色は確実に薄いものへと変わっていた。面持ちも、カラダつきも、やはりあの頃とはずいぶん違っている。
「お前、もう50越えたのか」
「そうだ。今年で53、か?」
「いやぁ俺が44だから、52じゃないか?」
「そうだったか?……年にも頓着がなくなってな。正直、どっちでも良い」
 確かに、52だろうが、53だろうが大差ない。1年やそこいら、もう誤差にしか感じられない。そう実感を持てることが、ミロに年齢を感じさせた。
「俺もそろそろ引退しようかなぁ」
「おお。しろしろ。引退は良いものだ」
「止めないのか」
吹き出しながら、ミロは言った。
「止めるもんか。良いぞ、引退。一般市民も悪くない」
「そうか、引退は良いのか」
「ああ。とても良い。だが、仕事はした方が良いぞ。暇過ぎるとボケるからな」
 そうか、引退は、良いのか。確かに、良いことなのかもしれない。一人、また一人と黄金聖闘士がその位を退くことは、世の中が平和になったことのなによりの証かもしれない。
「さて、そろそろ帰るか」
 カノンは、例の白い箱を抱えて立ち上がった。

「おう、帰るのか。帰り道、気をつけるんだぞ」
 不意に、後ろから声がした。
二人が振り向くと、先程の若い雑兵が戻って来ていた。
「また来い。お前の魚、楽しみにしている」
 その物言いに、ミロが吹き出した。
「なんですか?」
 若い雑兵は、不思議そうな目をしてミロを見た。
カノンも、同じように笑っている。
「え?何?」
「いえいえ、なんでもありません。また取れたら持って来ます」
じゃあ、と言ってカノンは踵を返した。
「な、なんなのですか?!」
「なんでもないよ」
 ミロは相変わらず笑っている。
「何でもないことないでしょう!ミロさま、教えてください!!」
 カノンは二人のやりとりを背に、歩き出した。二人のやりとりは、だんだんと小さくなった。



・おわり・