■早春■ シオン、あなた、こんな字を書かれるのでしたっけ。 ムウは読んでいた本を閉じ、傍らに置いてあった書簡を手に取った。 それは、聖域から届いたものだった。 内容などとっくに覚えている。書いてある文言さえムウは覚えていたが、読み返さずにはいられなかった。 ムウはその書簡を広げると、読むためでなく、自分はそこに書かれている文字を見るために手に取ったのだということに気付いた。 したためた主はシオン。 修復について書かれた分厚い本に書き込まれた師の文字は数え切れないほど目にしていたが、手紙という形で自分へと向けられた文字を見るのは初めてだった。 あの古い本の、どの頁にどの文字が書かれているか、それがどんな形であるかまでも覚えていたのに、まるで違う人が書いたかのように見える。 自分が追いすがって離さなかった面影は正しくもあったが、まるで違ってもいた。 生きている。 自分も、師も。 そのことの不思議さにムウは思いを馳せた。 そう、遠い過去の中の面影を、自分はずっと繰り返し思い出してきた。 何一つ取りこぼすことなく、忘れないようにとしがみついて離さなかった師の面影。 それは限られた記憶の中の笑顔であり、仕草であり、語られた言葉だった。 それが、今は違う。 師は生きて、昨日とは違う事柄について語り、今までに見せたことの無い表情を見せる。 今、このときも教皇の間に在って、執務をこなしている。サガに資料を求めているかもしれないし、アイオロスに指示を出しているかもしれない。 当然のことなのに、ひどく不思議なことに思えた。 聖域へ戻るよう、その手紙は伝えていた。 シオンが生きて、聖域にいる。 聖域は、もうすっかり春になっているだろうか。 あの眩しい陽射しが満ち満ちて、あの乾いた風がオリーブの白い葉を揺らしているだろうか。 どこまでも続く石段の先にそびえる白い神殿。その後ろに見える青い青い空。 聖域を、自分はとても好きだったのだ、とムウは思った。 この地へ逃げ帰ったあの夜は遠い。そして、すべてはもう、終わったことなのだ。 お前の帰りを、楽しみに待っている。 書簡は、そう結ばれていた。 シオン、おかしいですよ。 帰りを待っていたのは、わたしの方だった。もう、戻らないことは骨身に染みて分かっていた。 でも、待っていたのです。 あなた、わたしがこの13年間どんな思いで過ごして来たか、考えたことないでしょう? 会いたい、会いたい、でももう会えない。死は永遠に二人を分かち、わたしが冥府に落ちるまで、―――いや、冥府へ落ちてさえ会うことはかなわないのかも知れないと思いながらも、あなたに会いたいと願い続けて来た。 だが、今あなたは生きている。 遠く、まぶしい聖域をムウは思った。 明日、あなたに会える――――――。 |