■古歌■


 サガは、己に与えられた砦の一室に居た。
今日一日で、あまりにもたくさんのことが起こり過ぎた。何を、どう考えれば良いのかわからなかった。
 サガは簡素なつくりの椅子に腰掛けると、一つため息をついた。今日起きたことに自然と思いを馳せてしまう。


     幾星霜を経たことだろう
     今このときに神とともに在る戦士よ
     この声を聴け
     今このときに神とともに戦う戦士よ
     願わくば輝かしき勲(いさおし)を
     どうかこの光あふるる世界を守っておくれ

     我らは塵となり
     我らは露と消え
     我らは昏(くら)き世界に堕ちるとも
     この思いが消えることなどありはしない

     我らがこの思いを
     今このときに戦うお前に託そう
     我らがこの思いは
     今このときに在るお前と一つとなりて
     世界を覆わんとする闇を打ち払わん

     我らはともにある
     女神と、そして今ことのときに在るお前と



 コロスたちの歌った旋律が、今もサガの頭の中を巡っている。闘技場で聖衣を得た後、サガは十二の砦がある岩山の頂上にある、女神神殿へと連れて行かれた。
 十二の砦も、その上にある二つの神殿も、神話の世界をそのまま体現していた。アクロポリスをはるかに凌ぐ壮麗さでそれらは存在し、そこを通るものを圧倒した。

 岩山を上り始めてすぐは、サガは息が出来ないのではないかというほどの圧力を感じていた。だがやがて慣れて来ると、それは己の内なるものへと語りかける声であることに気付いた。圧倒していたものは、サガを押し潰そうとする重圧ではなかった。それはサガを待ち詫び、待ち望んでいた熱い思いだった。その濃密な思いは、サガの胸を締め付けた。サガは泣きたくなるような感覚に陥った。

 サガは驚いた。女神神殿で行われた厳粛な神事の後、神殿前の広場で女神への讃頌と、今日黄金聖闘士となったサガへの祝福を兼ねて上演されたギリシャの古典様式の演劇が、岩山に足を踏み入れてから、例の“声”がずっとサガに語りかけて来ていた内容と、ぴたりと合致していたからである。

 仮面劇は、地上へ降臨した女神が、人々へ、そして地上に生きるすべてのいきものへもたらした限りない恩恵から始まり、地上をめぐって争う神々、そしてその神々に従い、戦い、散って行った戦士たちについて語った。
 上演が終わったのはずいぶん夜が更けてからだったが、サガは時が経つことなど気付かず見入っていた。終わってからも、しばらく魂が抜かれたようになっていた。
 言霊、というのだろうか。台詞に籠められたものか、旋律に含まされたものか、その仮面劇は恐るべき力を持ってサガに迫った。
 わずか三人で演じる地味なものである。爆発的な音楽も、目が眩むような光の演出もない。だが、それはサガの目を通し、脳裏に焼き付く衝撃だった。まるで、その場に居合わせたかのように、鮮明にその光景が見えるのである。
 神話はただの作り話などではない。幾度も繰り返される聖戦。散って行った幾多の命。いきのこったものは次代へとそれを伝える。再び聖域を興し、戦士たちはそこへ集う。そして、また戦うのだ。何度も何度も、それは繰り返された。おどろくほど流された血によって、この地上は守られて来た。
 そしてサガは悠久の時の果て、今ここに降り立つ。今まさに繰り返されようとしている、聖戦に望むため、星に、女神に選ばれた戦士として。

 サガは身震いした。

 自分が負った宿命とはこんなにも大きなものだったのか。今まではなんとなく、有力なスポーツ選手のようなものを想像していた。
 自分の力は、他の連中とはゆうに頭一つ違うのだということは分かっていた。だが、その持てる力は何のために与えられたのか、どのようにしてその力を使うべきかについては考えたことがなかった。

 今ここに聖衣を得て、あの堅牢な砦に足を踏み入れ、今は星となったかつての同志たちの囁きを聞き、サガは始めてその重さに気付いた。身震いが止まらなかった。今の自分よりも若く散って行った者もいただろう。今の自分よりも力のない者もいただろう。
 自分より敵が強いことを承知の上で、挑んだ者も多かったはずだ。力及ばず、散った者たちの無念を思うと、サガは言葉を失った。そしてまた起こる聖戦のために、友の骸(むくろ)を路傍に捨て置き、聖域へ戻った者を思うと、胸が締め付けられた。
 自分は、自分のために戦うのではない。彼らの思いを継ぎ、この地上の生きとし生けるものを守るために、この力を与えられたのだ。

 双子座の黄金聖闘士として、その名に恥じぬ立派な戦士にならなければ。地上を守れるだけの力を着けなければならない。聖衣を得たのは、ほんのスタートでしかないのだ。聖域の何たるかを今までさんざん教師たちによって聞かされて来たというのに、今までカノンと自分の安穏とした生活のことしか考えなかった自分を、サガは深く恥じた。
 今日、カノンに勝てたことを、サガは誇らしく思っていた。今までどう挑んでも負かすことが出来なかった弟に、本番で初めて勝てたことが単純に嬉しかった。だが、もうそんな子どもっぽい狂喜とは決別しなければならなかった。あの後どこかへ連れて行かれたカノンのことはとても心配だったが、サガは自分に課せられた壮大な責について考えるので手一杯だった。
 サガは、聖衣が収められているパンドラボックスを見た。深く、柔らかい黄金色に輝いていた。




 翌日の午後のことである。サガは扉を叩く音に気付いた。扉を開けると、そこには日に焼けた少年が立っていた。暗褐色の髪に、深い碧の目をしている。

「やあ」

少年は本当によく日に焼けていて、歯が殊更に白く見えた。

 彼は……、
 昨日闘技場に居た……

「俺は、アイオロス。射手座のアイオロス」

 昨日の聖衣姿のときはもっと大きく見えた。大きな黄金の翼を備えた鎧は、アテナの使徒とはかくあらんと言わんばかりの神々しさだった。
 今日は打って変わって簡素な服装だった。綿だろうか、麻が少し混ざっている?洗いざらしの生成りの上衣を、丈夫そうな布地のボトムの上に着ていた。この上に防具を着ければそのまま訓練に出られるだろう。昨日とはまるで別人だ。こうして見ると、自分の方が一つ二つ年上に見えるのではないかとサガは思った。 アイオロスと名乗った少年は、親しみを込めた笑顔を浮かべながらサガに語りかけた。

「今日こそは名前を教えてくれるだろう?ずっと知りたかったんだ、君の名前」
「………?」

 サガは困惑した。名前を答えるのは簡単なことだが、なぜ彼がサガの名をずっと知りたいと思っていたのだろう。

「あれっ、忘れちゃったのかい?あのとき、約束したじゃないか。ほらあの、闘技場の裏の原っぱで訓練してただろ?きみたち三人で、ほら…あの……あの子、聖闘士になった………えーと……」

 アイオロスは眉間に指を当てて、必死で思い出そうとしている。ああ、とサガは思った。

 自分は、昨日まであの禁地から足を踏み出したことは一度もない。闘技場の裏にいたというなら、カノンだろう。

「オルコスだ!」

 やっとその名を思い出せたアイオロスはぽんと手を叩くと、人差し指を立て、大きくうなずきながら言った。

「オルコスの訓練してただろ?」

 やはり、とサガは思った。

 そういえば、カノンが話していたっけ。

 今日、黄金聖闘士さまにお会いしたぜ。

 丁寧な言葉とは裏腹に、全くそこに尊敬の念は込められていなかった。

 オルコスに稽古つけてたら、俺の小宇宙に勘付いて寄って来やがった。でもまだ、ほんのガキでさぁ。正直驚いた。手合せしてみたいなぁ。そこそこはやるんじゃね?でも、俺の方が絶対強いぜ。

にやり、と不敵に笑ったカノンの顔がよぎった。

「あのとき約束したじゃないか。聖闘士になったら名前を教えてくれるって」

 本当は、それは僕じゃないんだ、あれは、カノンだったんだ。僕の、双子の弟。

 サガは心の内でそう呟きながら、少しうつむいてアイオロスの問いに答えた。

「ぼ……、わ…わたしは、サガ」
「あ、リウテスに言われた?」

 アイオロスはサガの顔を覗き込むようにして言った。

「“わたし”って言えって」

 サガは少しバツが悪そうに、無言で頷いた。

 リウテスは言った。

「サガさま、恐れながら、己がことは“わたし”とお呼びなされませ。あなたさまは、黄金聖闘士であらせられる。皆が見ております。ふさわしい振る舞いをしていただかねばなりませぬ」

 それまでサガは自分のことを“ぼく”と呼んでいた。リウテスに指摘されるまで、気にしたこともなかった。だが、黄金聖闘士となった以上はそういうところから改めねばならないだろう。軍隊に似た組織の幹部となったのだから、それなりの立ち居振る舞いは不可欠である。

「俺の前では気にすることないよ。フツウにしてて。俺だって俺のことは俺って呼ぶし」

 アイオロスは大きく笑って、改めて感慨深げにぽつりと言った。

「そっかぁ。サガっていうのかぁ……」

 サガは曖昧な微笑みを浮かべて頷いた。

「双子座の選定試験が行われると聞いて、絶対君が選ばれるだろうって思ってたよ。昨日君が勝って、仮面をはずしたとき、ああやっぱりって思ったんだ。でも……」
「でも?」
「あのときはもっと生意気な奴だと思った。なんだか別人みたいだ」

 サガは、アイオロスのその言葉にぎょっとした。だがアイオロスはサガのそんな思いに気付くことなく、変わらぬ大きな笑顔のまま右手を差し出した。

「よろしく、サガ」

 サガもおずおずと右手を差し出す。

「こちらこそ………、よろしく」
「アイオロスだよ」

 サガが名前を覚えていないと思ったのだろうか。再度自分の名を言いながら、アイオロスはサガの手を力強く握った。

「よろしく、アイオロス」

 サガも、アイオロスの手を握り返した。

「じゃあ、行こっか。案内するよ、歩きながら話そう」

 サガは、アイオロスに連れられて双児宮を出た。外に出ると、強い日差しが刺すようだ。ギリシャは、もう夏だった。まぶしくて、とてもまともに目を開けていられない。二人は並んで、白く輝く石段を歩いた。

「午前中はリウテスにみっちりやられたの?」

 サガは黙って頷いた。今朝、迎えが来たのはかなり早い時間だった。石段を上り、昨日、女神神殿に行く際通り抜けた、立派な建物に連れて行かれた。
 そこでサガはエリダヌス座の青銅聖闘士であり、神官たちをとりまとめているリウテスから、聖域の組織形態やら現在の聖域が置かれている状況やらの説明を受けた。サガはあまりの慣れぬ空気に、大きな戸惑いを覚えた。
 例えて言うなら、今まで教室で授業しか受けたことがなかった中学生が、突然大企業の会議室でプレゼンテーションの場に座らされたようなものだ。それも、新入社員という扱いではない。いきなり役員として遇され、その席に着かされたのだ。
 リウテスは、サガの言動が、聖域と世界の繋がりを左右することになるのだと言う。それまで、世界情勢などは子供であるサガには関係のない、遠い世界の出来事だった。なのに、突然今目の前にある現実として、世界情勢や、各界の上層部がどのような特性を持っているのかを説明されても、サガは面食らうばかりだった。
 だが、サガは黄金聖闘士として選ばれたのだ。まだ子供ですから関係ありませんというわけにはいかない。その場の空気も、わかりませんなどと言えるものではなかった。昨日の夜、誓ったことと併せてサガは必死にリウテスの説明を飲み込んだ。

「焦ることないよ。おいおい覚えていけば良いんだからさ」

 アイオロスはサガの胸中を見抜いたように言った。

「覚えなきゃいけないことはたくさんあるけど、サガならすぐに覚えられるよ」

 明るく笑って、事も無げに言うアイオロスに、サガは救われたような気持ちになった。

「昨日は神事のあとすぐに帰れた?」
「いや、仮面劇を観たよ。女神神殿の前で」
「“遍(あまね)く御威光(みいつ)は地を満たし、聖なる地に在(いま)し君よ”ってやつ?」
「違う、それじゃないよ。“我らは塵となり、我らは露と消え”っていう」
「うわ、じゃあ長かったろう?疲れてただろうに、大変だったねぇ」

 アイオロスは、わずか五歳でここへ来たのだと言う。生まれてすぐ今上の黄金聖闘士として見出され、五歳にして十二の砦の一つである人馬宮を預かった。幼いからと言って、黄金聖闘士は神事に同席する責を免れない。アイオロスの詳しさに感心するサガに、もう空んじられるほど、何度も観させられたのだ、とアイオロスは語った。

「でも、一回聞いただけで歌詞を覚えてるなんて、すごいね、サガ」

 アイオロスの指摘に、サガはばつが悪そうな顔をして答えた。

「その………、おかしいって思われるかもしれないけど、耳にこびりついて、ずーっと頭の中であの歌がかかってるんだ。正直に言うと、もう一度聞きたくてしょうがない」

「……………」

 それを聞いたアイオロスは、目を丸くして立ち止まった。

「………やっぱり、おかしい?」

 サガはアイオロスの方を振り返りながら、少し悲しそうに言った。

「いや、そうじゃないよ。なんていうか、酔ったみたいな、そんな感じ?」
「そう……、だね」

 サガがそう答えると、アイオロスは神妙な顔をして、無言のまま大きく何度も頷いた。

「なに?」
「いやぁ、サガは感応力がすごいんだろうなぁ。女神神殿の前で奉納される古典劇って、本当はそういう力を秘めてるんだってさ。俺はたぶん全種類観たけど、どれもならなかった」

 肩をすくめて、アイオロスは言った。

「シオン様に、呆れられたよ。一般人でもどれか一つくらいは感応を起こすもんだって。一つも反応しないなんて、よほど超越しているか、とんでもなく鈍いかのどっちかだってさ。俺がどっちなのかは置いておくとして、昨日のはそういう状態にはまずならないはずなんだけどなぁ。あれでかかるなんて、サガはすごい敏感なんだよ」
「……………」
「そういう素質を持った奴って、精神攻撃系に秀でるらしいよ?サガも修行してみたら?」
「精神攻撃系……」
「記憶の操作とか、自白させたりするんだ。極めると、技を掛けた相手を自分の思う通りに使役出来るようになるらしいよ!特性が合えば、夢じゃないって話だ」
「……………」
「……なに?どうしたの?」

 黙りこくってしまったサガの顔を、アイオロスが覗き込んだ。

「サガ?」
「幻覚なら……、見せられる」
「えっ!」
「簡単な使役なら……まぐれでなら何回か」

 今度はアイオロスが沈黙する番だった。正確には、絶句、であるが。しばらく間をおいて、アイオロスがその口を開いた。

「サガ、今まで聖闘士になった段階で、精神系の技を使えた奴はいないんだ。聖衣を得て、よっぽど素質のある奴がこの十二宮内で厳しい修行を修めて初めて習得出来る技なんだ。それもなしに出来るなんて本当にすごいことなんだよ?!もしかしたら……」

 延々と続く石段を二人は歩いて行く。途中にある踊り場や、碑についた傷の前で、アイオロスはかつてその場で何があったのか、聖域に伝わる伝説をサガに語った。
 それまでの戦いで傷つき、修繕すべき聖衣の傷を全て治した後、部下にそのすべてを託してこの踊り場に留まり、命と引き換えに、十数人もの冥闘士をたった一人で食い止めた牡羊座の黄金聖闘士の話。深手を負い、命尽きる寸前だったにも関わらず、敵将を道連れに、共にこの石になったという神代のペルセウス座の聖闘士の話……。
 一見すれば何の変哲もない参道でしかない石段のそこここに、無数の伝説が転がっていた。
その伝説の主一人ひとりの思いが、まるで霧のようにこの岩山に立ち込めているのだろう。今も耳を澄ませば、すぐにあの声が胸の奥に響いてくる。

「サガ、俺、ずっと待ってたんだ」

 アイオロスは語る。

「俺、五つで聖衣を得ただろう?それから、ずーっと一人だった。サガも今日感じたと思うけど、みんな俺のことは黄金聖闘士として扱うんだ。誰も、対等に接してくれる奴はいない。仕方がないけど、さみしかった」

 アイオロスはその深い緑の瞳でサガを見た。

「だから君を闘技場の裏で君を見つけたとき、俺はものすごく嬉しかった。やっと友達になれる奴に会えたって思ったんだ。でも、それだけじゃないのかもしれない。君となら、聖戦を、終わらせることが出来るかもしれない」

 そのとき、二人の脳裏に、あの歌の旋律がよみがえった。

     我らは塵となり
     我らは露と消え
     我らは昏(くら)き世界に堕ちるとも
     この思いが消えることなどありはしない

 彼らの思いを、二人はついに遂げるのだ。

     我らがこの思いを
     今このときに戦うお前に託そう
     我らがこの思いは
     今このときに在るお前と一つとなりて
     世界を覆わんとする闇を打ち払わん


 闇を打ち払わん―――――。
 そう。永遠に。
 数えきれないほど繰り返されて来た悲劇を、終わらせる。
それは、アイオロスが固く胸のうちに秘め、誰にも語ったことのない夢だった。

 二人は、これまでの数々の伝説を、そして、これからの未来のことについて、太陽が峰々の向こうへ姿を消すまで語り合った。



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