:殺伐Xmas:
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――――嵐は来たときとは打ってかわって静かに退場した。 夢遊病患者のようにおぼつかない足取りでイギイギ呻きながら去ってゆく男の背中を見送る菊の表情は硬い。 遠のいてゆく呪詛が完全に聞こえなくなって、菊は初めて張り詰めていた気を緩めた。 腹の底からゆっくり息を吐き出してその場に倒れ臥す。 冷たい畳に擦りつけた頬を舐める愛犬の面には気遣いがありありと浮かんでいた。 「あぁ……大丈夫ですか、ぽちくん」 くぅんと申し訳なさそうに鳴くぽちくんの頭を一撫で。まだ駆け足で高鳴る心臓が、愛犬の柔らかな毛並みと無事な姿に徐々に落ち着きを取り戻してゆく。 ……いったい何だったのだろう、あれは。 起き上がり、乱れた服と居住まいを正しながら菊は廊下に目を向ける。 無残に蹴倒された障子の向こうから、再びフランシスがやって来る気がしたが、薄暗い廊下の先からフランシスはおろか蟻の子一匹やってくる気配はない。 結局杞憂は杞憂に終わり、菊は初めて心の底から安堵した。 本当に一体何だったのだろう、あのフランシスからは酒の匂いはしなかった。 と、言うことは酔った上での御乱行というわけではないらしい。 あれが正気だったとしたら、フランス人の狂気という奴はいったいどれほど恐ろしいものなのだろう。逆にずいぶん大人しいものかもしれない。 「まぁ、何にせよ……」 菊は散らばった原稿を手元に集め、枚数を数える。 ここ数日分の睡眠を犠牲に完成した原稿は、あの騒動の中でも欠けることなく汚れることなく無事であった。 無意識に理性が働いてくれたのだろうか。フランシスのオタク魂に感謝したい。 菊は無事を確かめた原稿を丁寧に封筒にしまうと、ほっと一息つく。 嵐(フランシス)の襲来など予想外のハプニングがあり、一時はどうなることかと思ったがどうにか締め切りには間に合うことが出来た。 これを印刷所に出せば今年の原稿スケジュールは終わる。 あとは年末の祭りまで大掃除や正月の準備に徹すればいい。 入稿が終わっても、やらなければならないことは山ほどあるのだ。 「――――まぁ、その前に一風呂浴びるのが先ですか」 着物に鼻先を近づけ、菊は誰に言うでもない独り事を呟く。 この数日、簡単にシャワーを浴びるくらいでまともに湯船につかることが出来なかった。 典型的日本人の菊としては、ここ数日の入浴は入浴などではなく単なる行水。 ここは一つ、たっぷりのお湯にお気に入りの入浴剤でも存分につかって熱燗も用意して、一人これまでの労をねぎらうことにし――――、 「キク!」 ようとした矢先、菊の体は襲いかかる肉の弾丸の前に為す術なく打ち倒された。 一瞬遠のきかけた意識が、みぞおちに容赦なくえぐり込まれる頭と、体に大蛇のごとく巻き付けられた腕の痛みに現実へと連れ戻される。 ごぽ、と喉から空気の固まりが押し出された。 「カル……プシ、さん……?」 空気の固まりと一緒に弾丸の正体が口から零れる。 今なお菊の肋骨あたりに頭をぐりぐり押しつけているのは、よく菊の元に遊びに来る年下の友人、ヘラクレス=カルプシであった。 酷く慌てた様子のヘラクレスに、一体何事かと問うため、菊は体を起こそうとする。 だがダメだった。 日頃の運動不足がたたってか、あるいは単純に先ほどの攻撃の余波か。動いたのは首くらいだった。 「あの〜、カルプシさん……?」 「よかった……キク……フランシスの匂いしない……」 今なお容赦なくみぞおちを抉るヘラクレスの頭を軽く撫で、離れてくれるよう頼んでみるが聞き入れてくれる様子はない。 肩まである緩くウェーブのかかった茶髪からはだだっ子のように首を振る度、太陽の匂いが昇る。 腰に回る腕は、象と紛うほど力強く、菊がどれほど力を込めてもほどけそうにない。 小麦色した背中に浮かぶ鍛え上げられた背筋はなるほど、どうりでこれだけの力が出せるわけだと感心するほどに見事なもので、さらに引き締まった腰から臀部にかけてのラインなど、今なお人々を夢中にさせる古代ギリシャの彫刻もかくやと言った――――。 まてゐ。 菊はさっき見た映像が信じられなくて、目を擦り、再びヘラクレスに目を向けた。 ――――変わらない。 諦めきれずにもう一度。念入りに目を擦り、自分にこれは見間違いだと呪文をかけ、二度も深呼吸してから菊は三度ヘラクレスを見る。 ――――変わらない。さっきとちっとも変わらない。 そこには、まっぱで菊にしがみつくヘラクレス=カルプシ(猫耳青年)がいた。 「カルプシさーん!?」 甲高い悲鳴と同時に身体がバネ仕掛けの人形よろしく跳び上がる。 「どうしたんですか、カルプシさん!? お洋服どこにおいて来ちゃったんですか、カルプシさん!? ストリーキングはもうちょっと暖かくなってからやりましょうよ、カルプシさんー!?」 フランシスといいヘラクレスといい、なぜ今日はこうも全裸の人間ばかりが訪れるのだろう。もしかして何か宗教上の理由だろうか。本当に外国文化というものは理解しがたい。 菊は混乱しながらも、とりあえず何か羽織らせようと傍らの半纏を手にし――――気づく。 着物越しに感じるヘラクレスの体が、異常なまでに熱い。 二人の皮膚を隔てる着物が燃え落ちてしまいそうだ。 ――――そういえば、ヘラクレスはいつ裸になったのだろう。 飛び込んできたときの慌てようからして、家に入る前に律儀に脱いだわけではあるまい。 ならこの寒空の下、ずっとこのままで――――? 至る推測が菊の脳に氷の剣と突き刺さる。 (いけない) 菊の体から、脂汗がすぅ……と引いてゆく。 どれほど頑丈な人間でも、雪のちらつきそうな真冬の十二月に素っ裸でいればよくて風邪、最悪肺炎になる。 ましてヘラクレスの出身地は温暖な地中海近辺。あちらも、冬になれば寒さ厳しいといわれているが、やはり日本のものとは質が違う。 こうして考え込んでいる間にもどんどんずりあがるヘラクレスの熱に、菊の心は静かに恐慌をきたしはじめた。 体に回る腕が熱い。絡む足が熱い。密着する胸が熱い。重なっている頬が熱い。耳に触れる吐息が熱い。すり寄ってくる股間が――――。 (いけない) 菊の体から、さっきとは別の意味で脂汗が引いた。 「かかかかか、か、か、かるぷしさん……?」 「キク……」 鶏のように何度も詰まる言葉に返ってきたのは、熱と愁いを帯びた声。 じんわりと潤んだ瞳がこちらを見つめる。こころなしか、息も荒い。 (いけない……ッ!) 菊の脳裏にレッドランプが赤々と点る。いったい何がどうしてそうなるのか知らないが、ヘラクレスは確かに発情していた。 菊はとっさにヘラクレスから距離をとろうとした。が、冬の寒さと年末の忙しさを理由にこれ幸いと引きこもり気味な爺と彫刻に代表される肉体美の見本たるたくましい青年とでは力の差がありすぎる。 腰に回った手は解けぬまま、菊は再びひっくり返った。 自然ヘラクレスが菊を押し倒したような形になってしまう。 見上げたヘラクレスの秀眉がよる。例えようのない色気を大放出して、ヘラクレスはぐっと倒れた菊の顔に顔を近づけた。 熱い吐息が鼻先をくすぐる。 「ああああああああああああああ、あああの、かる、かる、かる……ッ」 「キク……今日は、とても、さむいデスね」 いつものつたない日本語に対し、菊はぶんぶんとちぎれそうなほど首を縦に振って、 「そ、そそそそうでしょう、そうでしょうとも! なにせ雪ですからね! 積雪率八十越えですからね! どうもホワイトクリスマスですからね! ずっとその格好で居られたのなら体も冷えてるでしょう、今すぐお風呂を用意し――――」 「キク」 静かで熱い声に、起き上がろうとした菊の動きが止まる。 相手が。 ヘラクレスが、押し返そうと胸を押す菊の手を掴み、あろう事か掌に口づけたのだ。 ペンだこやインクしみのある手に躊躇いなく舌を這わせるヘラクレス。 ヒルのごとく這う舌の跡が空気に触れひやり冷やされる、と裏腹に羞恥がガソリン注がれたかに轟と燃え盛る。 そのエロティックな動きに菊は息を詰めた。眼の裏が赤銅色に染まりあがり、大写しになったヘラクレスの舌が水面のように揺れ踊る。 即座に手を引き抜こうとする。が、相手の力の方が強く敵わない。 指だけではない。 唾液をたっぷりと滴らせた舌が、唇が、指をすするたび聞こえる水音が菊の鼓膜を打つ。 触覚が。聴覚が。視覚が。ヘラクレスに侵され、犯される。 下手をすればヘラクレス発する媚毒を空気ごと取りこんで、さらに身の裡まで犯されそうで――――もはや逃げるどころか呼吸すらままならない自分がいる。 「キク」 舌を止め、ヘラクレスは囁く。 伏せた眼上げて、しっかと菊へと繋げた視線が、不意に緩む。 眦下げて口角つり上げて、笑う。けれどその貌は普段のあの日向でまどろむ猫のように温く柔らかなものではなく、爪の先に獲物捕らえた獣の愉悦。欲情した雄そのものだった。 (マズイッ) 目の当たりにした菊は意を決し、唇を開く。絞り出そうとした静止の声は、しかし言葉となる前に頬の内側で噛み殺された。 ヘラクレスが、それまで熱心に舌を這わせていた菊の手に自身の指を絡ませ、畳の上に縫いつける。 とっさに振り上げたもう片方の手も同様の、菊の体はかの聖人のごとく磔刑に処された。 どれほど押し返そうとしても無駄なことは押し倒される直前のやりとりですでに立証済み。 こうなる前の段階からもしやよもや、いやいや熱にうなされた挙げ句の間違い行き違い――――とおのれを誤魔化していたのだが、さすがに現実を直視しなければならない段階まできてしまった。 なにせ、絡む指が熱い。見つめる眼差しが熱い。頬をなぞる吐息が熱い。不意に足で擦ってしまった、股ぐらが熱くて硬い。 けれど。 「――――なにしてやがるんでェ……」 ヘラクレスの背後から首に掛かる、刃のきらめきは冷たい。 電燈の灯り受け、砂漠の月のごとく冴えて光る刃の先に、菊は鬼神の姿を見た。 普段は仮面によって隠されている精悍な面が露わになって、浮かべているのは仮面に近い無の表情。だのにヘラクレスの後頭部向けた眸から、手にした鋼よりなおも切れ味鋭い、触れれば切れんほどの瞋恚が伝わる。 「あ……ド、ナン……さん」 菊は恐怖でつっかえる喉を何度も唾液で湿らせながら、やっとそれだけ絞り出す。 と、途端サディクの面昏く彩っていた激憤は和らいで、菊に向けたはいつもの軽口。 「よぅ、本田。しばらく見ねぇうちにやつれたなァ。飯は食ってんのかい? お前さん普段から軽いんだから、気をつけねぇと風船みてぇに飛んでっちまうぜ」 かんらからと磊落に笑う、そのほがらかさにいつもならば菊も微笑を返せただろう。 けれどどうにか頬はつり上げて見せたが、菊の面に浮かんだは到底笑みなどとは言えぬ恐怖と驚愕の混淆相で――――。 「邪魔するなサディク……」 顔前、こぼされた唸りが菊の恐怖を濃く強くする。 声の元へと眼差し転じれば、そこには浮かべていた淫色霧散させ、かわりに苛立ち強く面に表したヘラクレスがいる。 さきほどまで菊を展翅板の蝶と留めていた手もいまは外され、代わりに爪が立つほどきつく掴んだはサディクの刃持つ手首。 「邪魔なのはテメェじゃねぇか」 ぎりぎりと、ねじ巻に似た音が聞こえそうなほど強く捕まれているにもかかわらずサディクの声に苦痛の色はない。 あるのは、有情無情区別なく凍てつかせる蒼い瞋恚の念のみ。 菊など向けられたなら許しを請う暇などなく心臓にとどめを受けそうな憤りを、ヘラクレスは真っ向から受けてたつ。 「……邪魔? なにが」 「てめぇだよ、テメェ。とっとと本田から手ェ放しやがれ。……ったく、いきなりすげぇ形相でフランス野郎を追っかけだしたから何ごとかと思って後追っていきゃあ目の当たりにしたのはこの狼藉。よりにもよって本田を手込めにしようなんざ、ハーク。俺ァお前の育て方間違ったのかもしれねぇなぁ」 サディクの言葉に込められた呆れは、目の前の青年に向けたものか。それとも過去の己へ向けたものか。 苦悩払うように首を振りながらも、視線は一時もヘラクレスから離れることはない。こころなしか、剣呑さが増したようにも見える。 剣呑な……といえば、首筋に刃つきつけられた側も同様の。 背後へ向ける、ヘラクレスの眸には憤りが満ち、瞋恚の矢となってサディクの怒りと真っ向から相射つ。 「育てられた覚えなんかない。それにオレとキクはそーしそうあい。手込めなんて言うな」 「ありもしねぇ迷惑な幻想までほざきやがって……こうなったのも俺の責任だ。ちょっとまってろ本田。このバカがストーカーになってお縄に着く前に、俺が一太刀で素っ首叩っきって始末してやらァ」 「させない……返り討ちにして、キクと続き……」 声に剣呑、眸には瞋怒、手には十字の形した武器をいつのまにか携え、ヘラクレスは菊の上から身を起こし、サディクに対峙する。 いつものじゃれあいとは全く違う。 菊自身、二人が醸す空気には覚えがある。 今は遠き時代。この邦全体に吹き荒れていた軍場の熱風(かぜ)が二人を取り囲んでいる、部屋の中を満たしている。 殺意の圧を徐々に深め行く二人から、菊はずりずりと尻で逃げた。 どうしよう、とさっきとは別の意味で焦る。 どうしよう。どうすればいいのだろう、この状況。 下手に声をかければそれが戦闘開始の嚆矢となりかねない。 この争いの発端が清楚可憐な花の乙女の奪い合いだというのなら、私の為に争わないでと当の乙女が我が身省みず二人の間に身を投じ、争いを停めるという展開もあっただろう。 しかし菊は清楚可憐とは言いがたい御年二千ウン歳のジジイであり、二人の間に休戦の意を示す白旗揚げて飛びこんだとて、邪魔をするなと逆にど突き倒されるが関の山。 第三勢力として実力行使で停戦させようとしても、サディクとヘラクレス、共に屈強で徴兵制度のある国の出である。 長らく実戦とは遠ざかっている菊が参戦したところで、それこそ赤子の手を捻るようなもの。畢竟為す術はない。 どうしよう。どうしよう。ああ、いますぐ助けてください神様、仏様、仲裁の神様菊理姫神様!! 遙かに遠き天つ国へ向かってヘルプコールを出すも当然救済の応え降るはずもなく絶望する菊へ、思いも掛けぬところから救い主は現れた。 もふ、と畳についた手にふわふわしたものが触れる。 何ごとかと恐る恐る、背に怒りの陽炎浮かばせるヘラクレス達から視線外せば、そこにあったのはポチくんのもっふりした優しい毛並み。 愛犬が、濡れる眼差しにめいっぱいの忠義と同情の念浮かばせて、口に咥えているのはさきほど暴走特急と化したフランシスから守り抜いた、原稿入りの封筒である。 途端、菊は己の頭蓋の内側でカチリとスイッチの入れ替わる音を聞いた。 「アー、アー。げんこう、ださなきゃー」 うつろな目で抑揚なく呟いて、菊はポチくんごと封筒を抱え上げる。 廊下と庭を隔てる窓硝子に映る外は、吹きすさぶ風に弄ばれた枯れ葉が盛んに硝子を、壁を叩き、見ているだけで凍えそう。 菊は傍にあった半纏を着込むと、するするとへびのように音もなく玄関へと向かう。 外へと一歩出て、鍵を掛けたその瞬間、家の中から響きはじめる破砕音。 それを背に聞きながら、菊はコンビニに向かう。 身を切るほど冷たい向かい風が容赦なく半纏の隙間から身を撫ぜては体温を奪ってゆく。はたせるかな、天から牡丹雪がはらはらと、舞い降りては視界を白く染めはじめた。 「ほーら、ポチくん。ホワイトクリスマスですよー」 綺麗ですねぇ……と腕の中の愛犬を一撫で。 歩む菊の足は、我が家より聞こえる攻撃の音が激しくなるほど追い立てられるように忙しなく急いて。 「コンビニ着いたら肉まんでも買いましょうか。ああ、あんまんもいいですねぇ」 そうやって寄り道している間に赤鼻お供にかの聖人が、二人の諍いを停めてくれる……なんて奇跡(プレゼント)、くれちゃったりなんかしちゃったりしないものだろうか。 そんな現実逃避を輩(ともがら)と引き連れて、菊の足は雪に凍り始めたコンビニへの道を、さくさくと歩むのであった。 |
あとがき
97年クリスマス地獄編より。
もうどうにでもな〜れ☆By菊
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