となりのテリオンさん。
=夜深死闘編=

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 その日は寝苦しい夜だった。
 九郎は薄い毛布をあごまで引き上げ、もう何度目か分からない寝返りを打った。
 スプリングの硬いベッドは、寝具としては最低だろうが、長年慣れ親しんだ硬さだ。
 それに、今日も一日相棒の断章を追いかけたり、トレーニングしたりと疲労が溜まっている。
 いつもだったら、横になった途端夢の世界へダイビング……のはずなのに。
(寝れねぇ……)
 何かが高ぶっている。
 六感のすべてが何かを感知して眠りへの道を閉ざそうとしている。
 それは怪異と対峙した時に似ていた。
 この世ならざるもの。この世の外の住人。
 外道。外法。怪異。異端。
 人の理性を打ち破る汚穢なる生き物たち。
 魔道に触れ、魔道の世界に身を投じた九郎にとって、それは親しみ慣れた感覚だった。
 最初はアルの気配かとも思った。
 アル――――正式な名はアル=アジフ。
 狂えるアラブ人、アブドゥル=アルハザードの記せし世界最強の外道宝典。
 一度は捨てた魔道の道へなし崩しに九郎を引きずり込んだ相棒は、可憐な容姿に似合わぬ戦士の魂と外道の知識をもった魔導書である。
 初めの頃は、その強すぎる魔力に中てられ何度か怖気や寒気に襲われたものの、今では慣れたのか、まったく普通に接する事が出来る。
 だが今感じるそれは、ダンセイニに寝っ転がり太平楽に寝息を立てる相棒のものとは全く異質だった。
 冷たく輝く氷の星のような。この世のあらゆる汚れを封じ込めた水晶のような。
 異質。汚穢。なれど、美しい。
 これは――――。
「息災そうだな、大十字九郎」
「ぎゃーっ!?」
 九郎は革を引きちぎるような悲鳴を上げて飛び上がった。
 心臓が口から飛び出るかと思うほどの衝撃。と言うか実際飛び出た。心臓とか、肺とか、ランゲルハンス島とか、五センチくらい。
「――――っ! ――――っ! ――――っ!?」
 壁にべったり張り付いて今まで自分が寝ていたベッドを指さす九郎。衝撃が言語中枢を占領。自分の中にある言葉が全て白旗揚げて逃げていってしまったため、九郎の口はパクパク開閉を繰り返すばかりで全く音すら出さない。
 震える指でさしたソファの上には、怪異の極地が悠然と寝そべっていた。
 日の光と称するには違和感を感じる黄金色の髪に縁取られているのは、雪すら欺く白いかんばせ。気怠げにソファへと投げ出された体からは、淫猥な色気が漂っている。
 こちらを見据える目は金。普段は退屈そうないろに染まっているはずの瞳から、今はなぜか獣のごとき餓えが見え隠れする。
 曰く、聖書の敵。曰く、666獣の数字。強大な力を持ってして犯罪組織ブラックロッジを統べる、九郎の、否、アーカムシティの憎むべき敵。
「マスター……テリオン!?」
 ひくつく声で忌むべき怨敵の名を叫ぶ九郎に対し、マスターテリオンは口角を優美につり上げ笑うと、
「そんなにじっと見つめるな。照れるではないか。それほど余が恋しかったか?」
「んな訳ねぇだろ!」
 ぽっと白い頬を染める魔人に、思わず渾身の力を込めてツッコむ九郎。いったいどこを絞り出したらそういった思考が出てくるのか。
 九郎はツッコんだ勢いが消えぬ間に次々言葉をぶつけた。
「何でオマエこんな所にいるんだよ!? 何でよりによって俺の寝床の隣!? つか、大ボスがひょいひょい出歩くな! っていうかなぁ、だいたいオマエっ」
 いったん言葉を途切れさせる。そして肺一杯に空気を吸い、次の瞬間それを全て言葉として吐き出した。
「何で裸なんだよッ!?」
 九郎の追及するとおり、シーツから半身を起こしたマスターテリオンの上半身は裸であった。
 シミ一つ無い白い肌は、窓から飛び込むビル明かりを眩く照り返し、妖艶さをいっそう増長させている。
 常日頃腹を出した服を着ているが、今に至っては完全に裸である。
 露出なんてものじゃない。露出狂の域だ。今更だが変態だ。
 だが、九郎の大喝を受けてなお平然とした様子のマスターテリオンは、気怠げに髪をかき上げると口元にわずかな笑みを漂わせ、
 「寝室で服を着ていることほど無粋なこともあるまい。だが貴公がそう言うと思って、下着は履いている」
 一応人並みに下着を履くのかと感心した九郎は、次の瞬間激しく頭を振った。
 感心している場合ではない。
 寝床で服を着ることが無粋というなら、いっそ無粋でいい。というか、無粋のままで居てくださいお願いします。
 何と言っても、寝室で裸の野郎と向き合うことの恐ろしさと言ったら筆舌しがたいものがある。
 今度こういうシチュエーションに陥る事になったら、是非ともモンローも真っ青な金髪美女をリクエストしたい。
 ……次があればの話だが。
 しかし、たとえ下着一丁の限りなく素っ裸に近い姿で野郎の寝床に潜り込む変態だったとしても、この男はマスターテリオンである。
 幾人もの上位魔術師を抱える無法集団ブラックロッジの頂点に立つ男だ。
 魔術師としての実力は、世界でもまず五指に入るだろう。なにせ、あのデモンベインをたやすく捩じ伏せてしまえるのだから、その"力"は推して知るべし。
 九郎は意識をマスター・テリオンに固定したまま、相棒の姿を探す。
 アルは旧支配者の奴隷ショゴスのダンセイニで造ったベッドに身を沈め、眠りこけている。
 こんなにも危険な空気だだ漏れの男が近くにいるのに、アルは気づくそぶりも見せずただ寝息をこぼす。
 九郎はそんな相棒の姿に、かすかな違和を覚えた。
 小さな違和は棘となり、九郎の不審を煽るようにちくちく刺激する。
 おかしい。おかしすぎる。これでは、まるで……。
「術はよく効いているようだな」
 突然、体が影に覆われたと同時に顔のすぐ間近で声がした。不審に気をとられ、マスター・テリオンから一瞬意識をそらせてしまった。
 とっさに前を向いた九郎は、次の瞬間、
「ウギギャーッ!?」
 目に飛び込んだ映像に、かのオカマ道化師のような悲鳴を上げた。
 ――――窓から差し込むビル明かりにシミ一つない肢体が照らし出されている。
 白磁よりもなお白い肌が月光をまろやかに弾き返す姿には、あたかも月神が舞い降りてきたかのような錯覚さえ覚える。
 あんまり肌の色が白いものだから、月明かりとの境界が見えず、姿がどこか朧気に見えた。
 うっすらと桜色をした唇と乳首が、男のものとは分かっていてもいやに艶めかしい。
 すらりと伸びた手足が為す身体のバランスは、美事なまでの黄金律。
 どんな芸術家も、これほど完璧な肢体を作り出すことは出来ないだろう。
 確かに鑑賞するには十分すぎるほど美しい男だ。
 が――――しかし。
 九郎は極力"ソレ"を見ないようにしようとした。
 だが"ソレ"はあたかも引力を持っているかのように、九郎の目を引きつけようとする。
 引力の誘惑に堪えきれず、九郎は一瞬だけ、"ソレ"に目をやった。
 "ソレ"とは、マスター・テリオンの下腹部。もっと具体的に言うと、股間、であった。
 正直男の股間なんぞまじまじ見る趣味はないのだが、そこはそれ、恐いもの見たさと言うものだろう。
 虫歯とおぼしき箇所を舌で突いてみるような、そんな余計な好奇心。
 マスター・テリオンは、先ほど自分で言ったとおり、下着をはいていた。
 いったいどこで手に入れたのか、"ソレ"は黒いブーメランパンツだった。
 まるで、股間の膨らみを強調するかのような、食い込みのきついパンツ。
 イメージにそぐわないその姿に、九郎は頬を引きつらせ視線をそらせた。
 いったいどんな心境でこのパンツを選んだのか、この男は。
 正直、まだふんどしの方が救われたかも知れない。いろいろと。面積的に。
 そんな救われない男がじりじりと近づいてくる様ほど怖ろしいものはあるまい。
 事実、九郎は恐怖していた。
 近づく畏怖に。相容れぬ怪異に。理解したくない戦慄に。
 いつだったかどこかで――たとえばミスカトニックに在籍していた頃――似たような恐怖を味わった気もするのだが、ソレを思い出そうとする前にマスター・テリオンとの距離が縮まっていることに、そして己の置かれている状況に気がつく。
 近づくマスターテリオンから逃げようと後ずさるのだが、どっこい背中はとうに壁に張り付いている。これ以上下がれる隙間なんて一ミリもない。
 後ろに逃げられないのなら、いっそ退路を抉じ開けてやろうと相手の隙を窺ってみるが、そこは聖書の獣と怖れられる男。たとえノーベル変態賞を受賞しかねない野郎でも、さすがはブラックロッジの長。
 隙なんぞ、九郎の明日の生活費ほどもない。つまり、絶望的にない。
 九郎はアルが今すぐ目覚めてくれるよう祈った。願った。懇願した。
 マスター・テリオンの姿に驚愕したアルが放つ魔術の巻き添えを食ってもいい。
 とにかく目の前の恐怖から逃げることが出来るのなら、数週間ぐらいベッドの上だけで過ごすなどお茶の子さいさいだ。
 なので、とにかく起きて欲しい。今すぐ目覚めて欲しい。早く。早く――――。
「無駄だぞ、大十字九郎」
 九郎の必死のテレパシーを読み取ったかのごとく、マスター・テリオンは笑った。
 その表情にはどこか愉悦の色が見え隠れする。
「アル=アジフならば目覚めぬ。少なくとも、朝まではな」
「んなっ!?」
 低い笑いと共に告げられた信じがたい話に、九郎は驚愕の声を上げ、アルに視線をやった。
 ダンセイニの上で眠りにつくアルは、まるで精密機械のように規則正しく寝息をこぼしている。
 規則正しく。従順に。そう、あたかも――――おとぎ話に出てくる、呪われた姫君のように。
「ページを失われているとはいえ、あれほどの力の持ち主に術をかけるのは、さすがの余でもなかなか骨の折れる仕事であった。まぁ、その間退屈は紛れたがな」
 低く喉を鳴らすマスター・テリオンを九郎は睨み据える。
 やはりだ。やはり、この男が何らかの術をつかってアルを強制的に眠らせたのだ。
 いかに力を失っているとはいえ、世界最高峰の魔力を誇る魔道書に術をかけるなど、並の人間に出来る話ではない。改めてこの男の強大さを思い知る。
 と、同時にこの男が倒すべき敵であると思い知り、九郎の萎えかけていた闘志に火がついた。
「てめぇ……。アルをあんな目にあわせやがって何が目的だ!?」
 せめて気迫だけでも負けてはいけないと九郎はマスター・テリオンに向かって吠える。
 言葉と視線に込められた憎悪に気がついているのか。
 マスター・テリオンはくすぐったそうに頬を緩ませ九郎の目を見つめると、
「余は乾いておる。餓えておる。――――そして何より欲しておる」
 囁きかけられた言葉に九郎は首を捻った。
 まさかマスター・テリオンはわざわざ退屈を紛らわせるために、敵である九郎とドンパチやりたくてここまでやってきたのか。
 そこまで考えて九郎は心中で頭を振った。
 それではわざわざアルを眠らせたことに対する辻褄が合わない。
 魔道書がないことには、九郎はマギウススタイルになるのはおろか魔術を使う事すら出来ないためだ。
 ならばいったい何が目的なのか。
 再び思案の海に沈みそうになった九郎の目が何かを捕らえた。
 それはこちらを見つめるマスター・テリオンの瞳。
 いつもは冷たく、全てのものに絶望し退屈しているかのような瞳が、今は暑苦しいまでの色を宿して九郎を見ている。
 一瞬、九郎の脳裏にある映像が横切った。
 それはインスマウスでの夜のこと。
 九郎にトラウマを植え付けたあの忌まわしき強制女装の刑の最中、同席していたDr.ウェストに向けられた視線。
 蜜のような甘さと、灼熱のような熱さと、何より悪夢のように怖ろしい視線……。
 鍵をかけていたはずの記憶がよみがえった途端、九郎の背筋を冷たい戦慄が走った。
 あり得ないことに、記憶の中のDr.ウェストと今目の前にいるマスター・テリオンとが重なったのだ。
 あり得ないというよりは的中して欲しくない予感に、九郎の体は再び後ずさろうとする。
 が、出来るはずがない。壁をぶち抜きでもしない限り後ろに逃げることは出来ないとさっき散々思い知ったからだ。
 そんな九郎の足掻きをさも楽しげに見つめていたマスター・テリオンは、おもむろに両腕を壁につけ、九郎の体を囲った。
 九郎の喉から、壊れた笛のような悲鳴が上がる。
「お、オオおお、お前っ」
 崩壊する言語中枢。神経の末端まで行き渡る恐怖と絶望。しかし、それでもなお諦めずに足掻こうとする理性。
 うちに存在する感情が全てバラバラに動いて結局何も出来ない。
 そんな九郎の様子に、マスター・テリオンは愉快気に声を弾ませると、
「先ほども言ったように、余は乾いておる。餓えておる。なにより欲しておる」
 大十字九郎、貴公を――――。
 甘く甘く。悪夢よりも甘く囁かれた言葉に九郎の意識はブラックアウトする。
 意識を完全に失う瞬間、九郎が見たものは、この世のものとは思えぬほど艶やかなマスター・テリオンの笑顔であった――――。



 ――――翌朝。
 深い眠りから目覚めたアルが目にした物は、部屋の中に漂うわずかな魔力。そして、部屋の隅で呪詛を呟き続ける、なにやら新たなトラウマを植え付けられたらしい半裸の主人の姿だった。

あとがき

 あんまりにもデモンベインの女性向けがないような気がするので、
自給自足。
マスターも執事さんもドクターさえも、みんなみんな九郎ちゃんを好きすぎだと思う。
いいぞ、もっとやれ。

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