手の上
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はじめその光景を見たときは、起きながらに夢でも見ているんじゃないかと思った。 障子一枚隔てて優しい木漏れ日が、相変わらず本で埋もれた部屋を満たしている。 家人の性格を模してか、部屋の雰囲気は暖かく柔らかかった。 その部屋の中で薄く汚れた白い物体は異色であった。 異色の正体は小股潜りの又市。 いつもの様に鈴がなり、いつものように窓越しで揉めて、そしていつもの様に又市がおれた。 ここまでは何一つ変わらぬいつもの風景である。 ただそこから先、百介が母屋へ茶と菓子を取りに行った後。 帰ってきた百介はちょっと珍しい光景を目の当たりにした。 色あせた畳の上、ほぼ隙間無く書物と埃で埋め尽くされた空間の中で、ピクリとも動かぬ薄汚れた布の固まり――――もとい又市。 本当に微かとも動かないので、よもや死んでしまったかと青くなり床に乱暴に置いた茶が零れたのにも関わらず慌てて近寄り、首に触れる。 指先から鼓動がした。 さらに落ち着いて見てみれば、静かであるがちゃんと息をしている。 拍子抜けした。 又市は死んだのではなく眠っていただけなのだ。 「又市さん……」 安堵と僅かな恨みを込めてその名を呟き、百介はノロノロと廊下へ戻る。 茶を新しく淹れ直して戻ってきた百介が見たものは、いまだ正体無く眠りこける客の姿であった。 よほど疲れているのだろうか。 まったく身じろぎ一つしない姿は、周りの書物同様もう何年もそこにいるかのような錯覚を受ける。 百介は湯気の立つ湯飲みを盆ごと文机の上に置き、そっと近づいた。 壁を背にし、両腕を組んで又市は眠っている。 思えばこんな風にまじまじと又市の顔を見るのはこれが始めてだ。 この小悪党はいつだって気を許さず、隙がない。 床を共にした朝ですら、自分が目覚めた時すでに身なりを整えぼんやり煙草なぞ吸っている。 ――――正直悔しかった。 どれほどまでに想っても、自分と又市とでは住む世界が、覚悟が違う。 安穏と暮らす自分と、常に危険の只中に居る又市と。 いつだって細く、しかし深い溝を二人の間に作られているようで、悔しかった。 だが今はどうだ。 目と鼻の先に顔を近づけているのに、男はピクリとも動きそうにない。 安らかな寝息。閉じられた瞼の裏で一体どんな夢を見ているのか。 「私の夢なら嬉しいんですけどねェ……」 言って、まるで生娘のような自身の言葉に百介は勝手に頬を赤らめた。 頬に手を当て、熱が引くのを待ちながら百介はまた又市を見つめる。 これほどぶしつけな視線を送っているにもかかわらず、やはりまだ又市は夢の中のようだ。 信頼されていると取っても――――いいのだろうか。 燻っていた内の嫉妬が薄れてゆく。 代わりに首をもたげたのは、子供のような悪戯心だった。 なんだかんだと毎度体よくあしらわれている事への些細な復讐心。 「起きないでくださいよ」 温度の低い又市の頬に手を当てて。 「起きないでくださいね」 ぼやけるほど近づけた顔に鼓動を高鳴らせながら。 そっと。唇を近づけて……。 「ッ!?」 いきなり腕を取られ頭を掴まれた。 腕の正体に気をやる間もなく歯列を割り舌が忍び込む。 激しく蹂躙する舌の動きは憶えのあるもの。 驚きも抗議も吸い取られ、やっと唇が離れる頃、百介の息は上がっていた。 「ま……また、イチ……さん!」 「へい。何でやしょう」 唇から垂れた滴を舐めとる様にまた熱が上がるのを感じながら、百介は又市を睨みつけた。 「いつから起きてたンですか!?」 「さァて、一体何時頃やら……」 白々しく惚ける様に百介はまた声を荒げようとする。 が。 「それより先生。先生は奴にいってェ――――何を為さろうとしてたんで」 逆に質問をされ、百介は言葉に詰まった。正直に答えられるわけもない。 「ど、どうでもいいでしょう。そんな事」 「まさか奴の寝首でも掻こうとしてたんで」 オォ、怖えェ――――。 言いながらも又市の顔はニヤニヤと笑っている。 ――――知っているのだ、この男は。 自分が何をしようとしていたのか、知っていた上でそれを聞き出そうとしている。 なんて……なんて意地の悪い。 「先生ェ。いい加減答えてくれやせんかねェ」 「知りませんよ」 百介はからかう又市の視線から逃れるように顔を背けた。 どうせ何をやったって釈迦の手の上。 仏すら騙くらかしそうなこの男に一矢報いようとした方が間違っていたのだ。 「先生ェ」 「知りません」 甘やかな言葉に何もかも白状してしまいそうになりながら、百介は煙草の匂いの染み付いた又市の胸元に顔を埋めた。 そして百介は目を閉じる。 聞こえる確かな鼓動に、安らぎを覚えながら……。 |
あとがき
旧巷説サイトのキリ番・六千三百番・はさみねじさんお題「日向でほっこりしているような甘い感じの又百」
……角砂糖を五十個丸ごと噛んでいる様な気分に陥るのはどうしてでしょう?
日向ってぇと昼寝が思い浮かんで、先生は又市の寝顔って見たことあるのかしらンとか考えたらこんなものが出来ました。
又市が非常に性悪な上に、二千五百番と似たような終わり方になってしまいました。
はさみねじさん、呆れずに受け取ってくれただろうか……?
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