刻印

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ちくりと。
証が甘く痛む。














百介は筆を滑らす手を止めた。
燈が隙間風に煽られ、壁に映った影をゆらゆら揺らす。
書き物を始めてもうどれくらい立つのか。
疾うに時間の感覚はない。
百介はそっと嘆息を零して、強張りきった肩を何度か揉んだ。
と、眼があらわになった腕の傷にとまる。
はじめは遊女の唇のように鮮やかな紅色をしていたそれも、今では桜の花弁のように淡い桃色へと変わっている。
すでに直りかけているにもかかわらず、見咎めた瞬間傷はつけた本人の記憶をも呼び覚まし、うずいた。
あの人は今どのあたりにいるのか。
確か三河まで足を伸ばすと言っていたはずだ。
あまりに朧な記憶と、遠い距離感、そして長時間の疲れから百介は後ろに倒れこんだ。
積み上げられた書物が揺らぎ、埃が舞い上がる。
今にも崩壊しそうな書物の量に整理をしなければと思っても、思うだけで体が動かない。
腑抜けている。自覚はある。それでも体が動かない。
今の自分の姿を見たら彼の人はどう思うだろう。
結局そこに思考が持っていかれる。
百介はクスリと笑い、窓を見上げた。
薄く開いた障子から見つめる月は完全な球体から欠け始めようとしている。
又市に最後に触れた晩は、確か逆だった。
半月から望月へと変わろうとしているのを、こんな風に見上げていた。
傷をつけられたのもその時だ。











皮膚を削るようにつけられた傷がぴりぴりとした痛みを訴えかける。
「何をするんですか」
睨みつけると、相手は飄々とした顔で唇を舐めた。
「なァに。唯の虫除けでやすよ。先生は花みてぇな方でやすからね」
花――――?と百介は訝しげに眉間を寄せる。
「雑草でもこんな貧相な花ありませんよ」
「分ってらっしゃらねェ」
いいですかい、と又市は百介の腕を取ったまま、子供に言い含ませるかのようにゆっくりと言う。
「先生ってェお人は花なんでやすよ。匂いこそしねぇが甘ァい蜜で虫どもを誘う花だ」
「そんな――――」
反論しようとして開いた百介の唇に指を押し付け、又市は続ける。
「真っ昼間に見せるのは蕾の姿。真夜中にゆっくりとその花を開く。引っかかっちまったが最後、もうどうにも抜け出せねェ。――――どうでやす」
「どうって――――」
「引っかかっちまった哀れな虫が言うんだ。間違いねぇ」
「――――」
からかうような視線に覗き込まれ、百介は熱が上がるのを感じた。
「だからこうして傷をつけるんですよォ。奴が居ねぇ間に摘み取られねェように。こうやって印を――――ね……」
耳元で囁く声は低く、耳に入った瞬間思考を蕩かせる。
腰に重い熱がわだかまる。
つかまった手が――――まるで焼け付くようだ。
百介は空いた手で又市の体を抱き締めると、首筋に顔を埋めた。
「ッ!」
又市が軽く声を上げ、首に手をやる。
そこは浅く傷つけられ、血が滲んでいた。
「私以外の、誰の蜜にも惑わされないように……」
赤くなっているであろう顔を見られないように、百介は又市の衣に顔を埋めたまま動かない。
一拍の間の後、頭上で溜息とも微笑とも取れる吐息が聞こえた。
「だったら先生ェ、奴が忘れねぇように今夜はたっぷり味あわせていただけやせンか」
先生ェの甘ァい蜜を――――……。
囁く声に、百介は薄く笑って答えとした。













あれからもう幾日。
又市からは何の便りもない。
仕事が上手くいっていないのか、あるいは順調すぎてこちらに気をやる暇もないのか。
いずれにせよ、まだしばらく帰っては来ないだろう。
百介はつけられた傷跡をそっと撫でた。
人の記憶は不確かなもの。
傷と共に記憶もぼやけ始めている。
百介は起き上がると、桃色の痕にそっと舌を這わす。
そして僅かに濡れたそこへ、歯を付きたてた。
薄くなりかけていた傷が又赤く血を滲ませる。
垂れ落ちそうな血を見て、百介は満足そうに笑んだ。
傷の痛みと共に記憶が鮮やかさを増す。
またあの人と繋がっていられる。
百介は想い人を真似て、傷に唇を当てた。
彼の人が最上の美酒のように酔わすと言った蜜の味。
――――だが残念ながら、百介自身には唯の鉄錆にしか感じられなかった。

あとがき

シリアスなんだか甘いんだかまた判断付かないものを書いてしまいました(汗)
何かこう、パターン化されてるみたいですね、自分の書くものって。
ボキャブラリーが貧困だから言い回しも一本調子になるし……。
もっと精進したいと思います。
ところでこれを読み返している間、百介が
「家の留守を預かる新婚妻」
に思えたのは自分だけですか?(笑)

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