朱絆

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遠くで鳥が鳴いている。
騒がしい雀のではなく、間延びした梟の声。
聞きなれない鳴き声に百介は目を開いた。
まだ何処かぼうっと霞がかった頭で、きょろきょろと辺りを見回してみる。
そこにうずたかく積まれているはずの書物の姿は無い。
障子を透かして忍び込む月明かりの中に照らし出された部屋の姿は、見慣れた自室ではなかった。
(あァ、そうか)
百介はそっと自分の頬に手をやった。
(私は……)
その手には、何も付いていなかった。



















面白い書物が手に入ったと兄から連絡があったのは、百介が小旅行から帰ってきた頃であった。
帰ってきて昼も食べずに早速八王子へ向えば、別に本は逃げないと苦笑されながら出迎えられた。
そしてその日はそのまま兄の家に泊まる事になった。
最初から泊まる気で来た訳ではない。
現に日が西に傾き、山の方から桔梗色が迫る頃一度帰ろうと百介は腰を上げたのだが、それを阻んだのは他でもない軍八郎だった。
「今日は泊まっていけばいいだろう」
気軽に言う兄の言葉に百介は困り、視線を外した。
「――――如何した?」
「いえ、あの……」
自分でも何を戸惑っているのかよく分からない。
しいて言うならば遠慮――――だろうか。
兄と呼び始めてそれなりに立つが、離れていた年月はなかなか埋まらない。
いまだ、兄との間には溝が横たわる。
余計な気は使わせたくなかった。
「ご、ご迷惑ではありませんか?」
おずおずと顔を上げた百介の目に、意味を解し切れていないように目を丸くした軍八郎が映った。
「どうしてそんな事をいう」
「っ、だって……」
「百介、お前真逆遠慮しているのではあるまいな」
吐かれた言葉はそのものずばりで、百介は思わず顔を背けた。
反論は無い。
「百介……」
呆れるような溜息が兄の口から零れた。
「なんだ、今日は太助が留守で碌なものを食わせてやれないからさっさと帰りたいのか?」
「そんな事ありません!」
次第に落ちてゆく語尾に、百介は泡を食った。
「そんな、そんなんじゃないンです!!」
「だったら泊まってゆけ」
首を振る百介に、兄は穏やかな口調で言った。
「一人身相手にどうして遠慮する必要がある。幼い時に別れはしたが二人だけの兄弟なんだぞ」
百介ははっとして軍八郎を見つめた。
「たまには兄らしいことをさせろ」
笑う兄に、百介は目の周りが熱くなってゆくのを感じながら、
「ご厄介に、なります……」
深々と頭を下げた。


















それから一番星も出る頃、差し向かいで食事をした。
事前に断られていた通り、実に質素だったが嬉しかった。
兄のかける言葉の一つ一つが優しくて、味など関係なかった。
珍しく酒も入ってほろ酔い加減で布団に入ったのが亥の頃。
兄はまだ片付けなければならない書類があるとかで、戻っていった背中をうつらうつらと見送ったのを憶えている。
その後はどうも記憶が曖昧だ。
たしか尿意を催し、布団を出て厠へ向った。
戻る途中で――――そう、人に会った。陰に重なって顔は分からない。
しばらくどちらも動かなかった。
動けなかった。
まるで足が凍りついたかのようにその場から動けなかった。
先に見えない縛を解いたのは向こう。
相手の手の中に握られていた白刃が月光を鮮やかに照り返すのを見て、逃げるより先に悲鳴を上げようとした。
けれど。
相変わらず体は凍り付いていて、声さえ上がらなかった。
それから。それから。
(――――そうだ)
こちらへ向ってくる前に、相手の体が崩れた。
吹き出る熱いものが頬を濡らし、視界を染める。
――――気を失う一瞬前、目に映る月明かりがやけに赤かった。

















「気がついたのか」
ほっとした声に手のひらへ向けていた視線を障子のほうへ向ければ、兄が安堵した表情で立っていた。
その手には手ぬぐいの垂れた小さな桶があった。
「私は……」
「まだ起きるな」
起こしかけた体を軍八郎は押し戻そうとする。
その手をそっと払い、百介は大丈夫だと首を振った。
それでも軍八郎はまだ心配そうにあれこれ訊いて来る。
百介は兄の言葉を遮り、先ほどからの疑問を口にした。
「兄上……私は、いったい如何したのですか……?」
軍八郎は百介の問いに一瞬戸惑ったようだが、なおも見上げているとそのうち観念したように重い口を開いた。
「お前があったのは、押し込みだ」
百介は飲み込みきれず目を見張った。
あまりに自分自身と押し込みという言葉とが重ならなくて、理解するのにだいぶ掛かった。
やがて唇を湿らせるとゆっくり、
「同心の家に、押し込みですか……」
「一人ならどうとでもなるとでも思ったンだろう。舐められたものだ」
軍八郎は苦笑した。
百介は――――呆けていた。
よもや同心の――――しかも本物の武士が集うと謳われた八王子千人同心の家に押し込み……。
まったく心中察しがたい。
百介はそこでふと思いついた。
「仲間はいなかったンですか」
「仲間はいた。庭先の植え込みにいて、ばれたと分かったや否や逃げようとしたのだが一人捕まえた。残りは――――探している途中だ」
「最初の押し込みは……どうなッたんです?」
「斬った」
何処か吐き捨てるような口調に、百介の体温はスゥッと下がった。
「ちょうど厠へ向おうとして、お前と向かい合って固まっている曲者が見えてなァ。とっさに刀を取りに行って戻ってきたらお前を襲おうとしている。後は――――何も考えられなかった」
「お咎めの事も……ですか」
百介は膝の上で布団を握り締め、震える声で問うた。
軍八郎は静かに頷く。
「何も無かった。お咎めだの、盗人を捕まえなければなど、何もなかった。武士としてあるまじき行為だろう。だが――――手が動いていた」
見つめてくる軍八郎の視線はどこまで優しく、安堵に満ちている。
「お前が――――無事ならそれでよかった」
「――――」
百介は自らを貫く衝撃のままに、軍八郎へ飛びついた。
そのまま首にかじりついたまま動かない。
「百介ッ!?どうした、やはり何処か悪……」
「兄上が――――」
声が、掠れていた。
喉が渇いていたせいか、それとももっと別の理由か。
「兄上が」
「私がどうした」
「――――死んでしまわれたのかと思いました」
肩辺りを彷徨っていた軍八郎の手が止まったのを感じた。
「どういう事だ」
問う声は訝しげだ。
「どうして私が死んだなんて思った」
「分かりません。でも相手が、押し込みが斬られた瞬間――――兄上に重なったんです」
崩れる躯。後から吹き出る血。体に飛び散る熱い体液。
「恐ろしかった」
一瞬の間に、百介は確かに恐怖を感じた。
絆の象徴である血の朱に視界を塞がれ、断ち切られるような錯覚を覚えた。
他人(ひと)が聴けば哂うような子供じみた考えだろう。
けれど、ただ一人。
自分にとってただ一人の人を失うのは、
「怖かった――――」
「……」
耳元で軍八郎が息を呑むのが分かった。
躊躇わせている。戸惑わせている。
それが分かっていても、この手を解く事は出来ない。
やがて軍八郎の手が、百介の背を撫ぜる。
赤子をあやす様に優しく、暖かく。
――――やがて鳥の声も消え去り、あたりには夜の静寂が満ち始めた。

あとがき

兄百……と、言うよりただの兄弟話?
自分が書くと先生がどうしても乙女化してしまいます(汗)
違うんだ、偽者って自覚はあるんだけど改善できないんだ……ッ!(致命的)
今度はもうちょっと幸せそうなものを書きたいです。

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