――――ご主人様はお忙しい。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
 まだ日も登り切らぬ暁頃。 
 その日の朝食当番である私は、 竈に火を入れるべく台所へと向かっていた。 
 まだ外は夜明けまで若干余裕があり、 窓の外は暗い。 
       眠い目を擦り擦り歩いていると、 半分ぼやけた視界が見慣れた――――しかし最近はめっきりご無沙汰な人物を捕らえた。 
 射干玉の闇よりさらに暗い髪と、それに縁取られた白い貌――――。 
「り、リオンしゃま!?」 
 思わず声がひっくり返る。 
 視線の先にいるのは何を隠そう最近復興めざましいオベロン社の若き社長。 現オベロン邸の主、リオン様だった。 
 まだ幼さの残る顔立ちながらも、その風貌はすでに一人前の財界人然としており、きっちり正装した姿には一分の隙も伺えない。 
 対して私は、自分の姿のあまりのだらしなさに青ざめ、ついで慌てた。 
 メイド長の目に留まれば穏やかな笑顔で特大の釘を刺されるだろうが、どうせまだ一番鶏も起きていないような刻限。 
 誰の目にも触れる事なんて無いだろうと高をくくっていたのがいけなかった。 
 薄手の寝間着の上にショールを引っかけただけの姿なんて、人に、ましてや異性に見せられるものではない。 
 私は慌てて隠れられるような場所を探したが、その時にはもうすでに遅く。 
「おい」 
 リオン様の呼び止める声が聞こえて周囲を見渡す。 
 当然のようにあたりには人っ子一人いない。 そう、私以外には。 
 早朝の静けさの中、やけに頭に響く靴音が一歩一歩こちらに近づいてくる。 
 私は精一杯のあがきと言わんばかりにショールをたぐり寄せ胸元を隠そうとした。 
 羞恥に赤らむ顔を見られまいと俯けた視線の先に、磨き込まれた革靴が映る。 
「お前が、今日の朝食当番か?」 
「は、はい!」 
 頭の上から振る声に、つっかえながらも返答する。 
 正直、リオン様と直接言葉を交わすのはこれが初めてだった。 
 なにせここの主人と来たら、どんな国の王様よりも忙しい身分。 
 世界ワーカーホリック選手権なんてモノが催されたら、問答無用で一位をもぎ取ることだろう。 
 なにしろ、先の災乱においてもっとも深刻な被害をもたらし、そしてもたらされたオベロン社はまず世間への信頼回復の第一歩として各地の復興支援を積極的に行ってきた。 
 社長自らが世界各地に飛び、直接指示をとる。 
 世界中を文字通り飛び回っているため、家にいるのは一月の内一週間かそこら。 
 昨日がその貴重な日で、たしかみんなが寝静まった頃、自宅であるにもかかわらずあたかも泥棒のごとく静かに帰宅された。 
 それからまだ数時間しか経っていないのだが、きっちりと服を着込んでいるところを見ると、もうご出立らしい。 
 リオン様はせかせかと私の横を通り過ぎながら、メモでも読むかのように短く、 
「朝食はいらない。今日の夕方頃帰る。それと……」 
 言いよどみ、不自然に区切られた言葉と立ち止まった気配に何事かと私は恐る恐る面を上げた。 
 玄関に佇んだリオン様は、じっと二階を見上げていた。 
 視線を辿れば、ある部屋にたどり着く。 
 記憶の糸を手繰るまでもなく、そこが誰の部屋か分かった。 
 この時間帯なら、あの方は当然のごとくまだ……。 
「お前に一つ頼みがある」 
 突然聞こえた静かな言葉に、私は肩を跳ねさせた。 
 いつのまにかリオン様がこちらを見ている。 
 アメジストのような深い瞳に射抜かれて私は体を強ばらせた。 
 ――――よく訓練された兵士のように、直立不動でリオン様の言葉に耳を傾けていた私は、命ぜられた内容にゆっくり顔から血の気が引いてゆくのがわかった……。 
 
 
       
       
       
       
       
       
       
       
      ――――ご主人様は手厳しい。 
       
       
       
       
       
       
       
 重いカーテンを引くと、天井いっぱいまである窓から爽やかな朝の光が部屋の中に滑り込んできた。 
 部屋の中央には天蓋付きのベッドが一つ。寝相の悪い巨人が二、三人一緒に寝たって、きっと誰ともぶつかることなく一晩ぐっすり眠れてしまうだろう巨大なベッドその上で、ぐーすか太平楽に寝息を立てるのはこの屋敷の見習いメイド。 
 本来ならば誰より早く起きて仕事をしなければいけないはずなのだが、メイドと言っても正式なものではなく、主人の気まぐれからさせられていると言うこと。そして主人に次いで仕えるべき相手であると言うこと。さらにこれが一番の理由なのだが――――。 
「……やっぱり、起きてない」 
 部屋に差し込む朝日(もうすでに昼近い)の目映さに目を眩ませていた私は、次いでベッドの上の人物に対して眉を顰めた。 
 ベッドの中央には、四肢を投げ出した豪快な寝姿の青年が一人。 
 男の身ながら主人たるリオン様の命によりメイドとして働いているスタンという青年だ。 
 私たちは彼がメイドの身になってからも「スタン様」と呼んでいる。 
 未だメイド服には慣れていないらしく、よく裾をからげて走ってはメイド長に叱られている。 
 この事から、スタン様がいかにお元気な方かよく分かるだろう。 
 実はこのスタン様、大層なねぼすけでこれまで朝になって素直に起きてくれたためしがない。 
 毎朝毎朝貴重な時間を割きながら挑戦し、撃墜されたメイドは数知れず。 
 スタン様自身もこれではいけないと思っているのか、一応の努力はしているらしいが、今のところその努力が実る気配はない。 
 なので、今日も撃墜記録は着実に更新され――――るわけには流石にいかない。 
 ベッドの脇に仁王立った私は今朝の主人の言葉を思い出し、肩を落としてため息を吐いた。 
 実のところ、スタン様の寝坊に対しての攻略法がないではなかった。 
 スタン様のご生家に伝わるとされる(と言うより、こんなモノが伝わる辺り、歴代エルロン家の人間の苦労が偲ばれる)秘技を、私達メイドは密かに習得していた。 
 しかし――――この技は出来るなら使いたくない。 
 下手を打てば自分はおろか隣近所にも跳ね返ってくる、諸刃の剣。 
 正直、好んで使いたい技ではない。 
 だが、私は今朝方リオン様に言われたのだ。 
 
「どんな手段を使っても構わん。 あのバカを――――スタンをきちんと定刻通りに起こせ。 甘やかしたのではアイツのためにならないからな」 
  
 "主人の命令は絶対。主人が鴉を白と言えば白と答えよ。" 
 メイドの心得としてまず真っ先に教えられるモノである。 
 まぁ、甘やかすなと言うリオン様の方が、一番甘やかしているような気もするのだが。 
 めくれ上がったパジャマの裾からいくつもの赤い印を見つけて私は眉を下げる。 
 瞼の裏のリオン様に向かって苦笑すると、私はおもむろに耳栓をした。 
 そして右手にお玉。左手にフライパンを構える。 
 お玉はすでに本来の使い道から大きくかけ離れた使われ方の所為で、底の部分が平らになっていた。 
 私は瞳を閉じると、大きく深呼吸して二つを構える。 
 大事なことは腕の振りと、動きを止めない腕力。 
 そして轟音につぶされない頑丈な鼓膜。 
 以上の重要事項を再度頭にたたき込んだ私は瞼を開き、そして。 
「秘技・死者の目覚め――――ッ!!」 
 
       
       
       
       
       
 時は清晨。場はオベロン邸。 
 時ならぬ金属の大絶叫に、近所の犬は一斉に抗議の雄叫びを上げた――――。 
  
  
 
       
       
       
       
       
      ――――ご主人様はお優しい。 
       
      
  
       
 私は先を急いでいた。 
 手に干したばかりの毛布を携え、中庭目指して歩き続ける。 
 どれだけ急いでも走らないのは、「いついかなる時も淑女であれ」というメイドの心得が骨の髄まで染みついているから。 
 急いでいるのは、先ほど中庭で見かけたスタン様の姿が瞼をちらついているからである。 
 私は、今朝の後遺症かまだ痛みの残る耳と、ついでにこめかみを押さえて己の軽率さを責めた。 
 いかに範囲が狭いからと言って、スタン様お一人に中庭の花壇の手入れを任せるべきではなかった。 
 時刻は昼下がり。風もなく日差しも穏やかで大層過ごしやすい陽気である。 
 とくにスタン様に任せた中庭は日の入りがよく、しょっちゅう近所の野良猫がうたた寝をしに来る知る人ぞ知る絶好の昼寝ポイントだ。 
 そんな場所に早起きさせた(一般人がとうに起きている時間帯であったとしても)スタン様を、一人で放置しておくなど猫に鰹節、飢えたオオカミに子羊、ルーティ様に現金。 
 私が様子を覗きに来たときにはすでに遅く、スタン様は庭に設置されたベンチに寝転がり惰眠をむさぼっておられた。 
 モンスター相手には百戦錬磨のスタン様とて、やはり睡魔には勝てなかったらしい。 
 土で真っ黒に汚れたエプロンと軍手。そして、ベンチまで点々と続く土のついた雑草が、睡魔VSスタン様の闘いがいかに激しかったかを物語っている。 
 昼下がりの陽気がいかに心地よいとて、やはりそのままでは風邪を引く。 
 だが気持ちよく眠るスタン様を起こす真似も、成人男性をおぶるだけの腕力も私にはなかった。 
 せめて上にかけるものでもと、こうして毛布を手に先を急いでいたわけだが、中庭が見えるところまで来て、私は思わず立ち止まった。 
 ベンチの上で眠りこけるスタン様の前に誰か居る。 
「……リオン様」 
 私は思わず目を見張った。 
 今朝方仕事に出かけたばかりのリオン様が、なぜか庭先に居る。 
 たしか、夕方頃帰るとは言っていたが、少々早過ぎはしないか。 
 もしかしたら仕事が早く終わられたのかも知れない。 
 ああ、だったら何故潜むように中庭に現れたのだろう。 
 私はここに来るまでに何人かのメイドに会い、さらにメイド長にまで会ったが誰もリオン様が帰られたことを知っている者はいなかった。 
 自宅で人目を忍ぶ必要がどこにあるというのだろう。 
 私はスタン様に掛ける毛布を手にしたまま、声をかけられずにその場で立ちつくした。 
 リオン様は、眠るスタン様をじっと見つめている。 
 その目に宿る光は普段の冴え冴えとしたものとは全く違い、小春日和のように暖かなものである。 
 ご自分では気づいていらっしゃらないだろうが、スタン様と対峙されるとき、リオン様はいつも穏やかな表情になる。 
 それだけ見ても、リオン様がスタン様を大事になさっていることはよく分かった。 
 スタン様も同じく、リオン様が帰ってこられるととたんに顔を輝かせて出迎える。 
 きっとしっぽがあれば、ちぎれそうなくらい振り回していることだろう。 
 リオン様とスタン様の仲睦まじさには正直妬く暇もないほどだ。 
 このお二人が仲良くされているとなんだか嬉しいというのは、家の者共通の気持ち。 
 私は未練がましくお二人に向けた視線を剥がすと、足音を立てぬようにゆっくり家の中へと向かった。 
 わざわざあの二人の間に割ってはいることもない。 
 それに、リオン様がそばに居られるならむざむざスタン様に風邪を引かせるようなことはしないだろう。 
 あの場でメイドの私に出来ることと言えば、お二人の邪魔をせぬようそっと立ち去ることだけ。 
      「メイドの心得その一、主人の幸せを第一に考え、それに向かって最善の行動をとるべし……か」 
       最重要の心得を口にしながら、私の心は早今日の夕食の準備に向かっていた。 
       
 
 
 
 
 
 
 
 お忙しくて、手厳しくて、けれどとてもお優しい。 
       いつまでも幸福でいて欲しいと願う。 
 これが、私のご主人様。 
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