「えっ?」 
      「なッ……」 
      西の空からオレンジ色が忍び寄る頃。 
      見詰め合う数秒がまるで永遠のように感じた――――。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      部屋の中は湯気と美味しそうな匂いで天井までいっぱいだった。 
      石造りの釜の中では葡萄パンが香ばしい香りを立て、食べ物で溢れかえる机の端では成形済みのパイが、自分の番は今か今かと待ちわびている。 
      リズミカルな包丁のアンサンブルの中、台所の端では一人のメイドが籠いっぱいのジャガイモと格闘していた。 
      ゴツゴツした岩のような表面をナイフで削り取ってゆく。 
      作業自体は単調だが、同じ体勢を何時間も続けるのはかなり辛い。 
      「――――終わったぁ」 
      最後の一個をボールに入れ、スタンは大きく溜息を吐いた。 
      椅子から立ち上がって大きく背伸びをすれば、骨が控えめな音を立てた。 
      床に落ちた皮屑を拾い集め、ゴミ箱に投げ入れてから、スタンはボールを手に、 
      「ジャガイモの皮むき、終わりましたー!」 
      「ご苦労様です。スタン様」 
      「誰かー、薪きれちゃったんだけどー」 
      「俺いってきます!」 
      手を上げるや否や、戦場のような台所を巧みにすり抜けスタンは勝手口を出た。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      高い塀が張り巡らされた裏手を、スタンは歩いていた。 
      薪は台所から少し離れた小屋に山を成して置かれている。 
      スタンは急ごうと走りかけて、止まる。 
      スタンは忌々しげにスカートを摘み上げた。 
      昨日一日メイド長から教わった『メイドの心得』なるものの一つに『いついかなる時も慌てず騒がずおしとやかに』とあったのを思い出したからだ。 
      だがスタンがメイドでいるのは、一週間の間だけ。 
      はっきり言ってそんな心得教え込まれても、この先の人生で役に立つとは思えない。 
      だがみっともなくスカートを端折って走る姿をメイド長に見られでもしたらと思うと……。 
      スタンは身も凍るようなメイド長の微笑みを思い出し、ブルリと背筋を振るわせた。 
      「早く薪持って帰らないと、サボったとか思われる!」 
      スタンはスカートの端をつまみ静々と、だがまるで滑るような速さで薪置き場へと向う。 
      だがその時、差し込む西日に陰りを感じて、スタンはふと塀の上を見上げた。 
      「えっ?」 
      「なッ……」 
      今まさに塀を乗り越えようとしているルーティと眼が合い、二人は互いに絶句した。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「そー言う事……」 
      溜息と一緒に零れた言葉に、スタンは身を小さくした。 
      ちなみにここは客室の一つ。 
      ソファーに向かい合うように座ったスタンは、ルーティの言葉に何一つ返答せず黙り込んだままだった。 
      二人を隔てるテーブルの上には、上手そうなクッキーと紅茶がほのかに甘い香りを立たせ、口に運ばれるのを待っている。 
      スタンは部屋に入ってから一言も喋らなかった。こうなった経緯は一緒にいたメイド長がすべて説明してくれた。 
      だがそのメイド長も今は別の仕事があるとかで部屋にいない。 
      二人きりの部屋は、嫌な沈黙が横たわっていた。 
      ただ黙々と時間だけが流れる中、スタンの頭の中はグルグルと混乱していた。 
      どうしてこうなったのかだとか、何で自分はこんな格好してるんだとか、――――結局薪は誰が持って行ってくれたのかだとか。 
      おまけにバレて情けないやら、焦るやら、色んな感情がコーヒーに溶けるミルクのように、グルグルグルグルと渦巻いている。 
      スタンはただ馬鹿の様にボゥッと座り込むしかなかった。 
      その時――――陶器の触れ合う音で、スタンは混乱から解けた。 
      「スタン……」 
      「なっ、何だ!?」 
      ルーティは指をちょいちょいと動かして招いた。 
      スタンは訳も分からず、素直に従う。 
      目の前までやってきたとき、立ち上がったルーティはおもむろに……、 
      「うわぁッ!!」 
      スタンの腰をがっしりと掴んだ。 
      「ちょ、おい、ええッ!?」 
      突然の事に言語中枢のおかしくなったスタンは酸欠の金魚のように口をパクパクさせながら慌てた。 
      だがスタンが慌てる様子などどこ吹く風のルーティは、しばらく腰を掴んだ手を凝視して、 
      「ズルイ……」 
      ポツリと呟いた。 
      「る、ルーティ?」 
      「アンタ!また腰細くなったんじゃないの!?」 
      「ええェッ!?」 
      スタンは仰天して一歩引いた。 
      そんなスタンに構う様子も無くルーティは眦を吊り上げる。 
      「異様に女物が似合う割に女に見えないのね。それにこの腰の細さ……。ダイエットでもしてんの?」 
      「無いよ!ってか、何でいきなりそんなこと言うんだ!!」 
      「ほんとの事じゃない。似合ってる」 
      「ナイ!」 
      泣きそうな面持ちで睨みつけるスタンを、ルーティは笑いを含んだ目で見つめる。 
      こういう所がリオンと姉弟なのだと、スタンは妙な所で得心した。 
      ぶすくれた顔のままソファーに戻ったスタンは、冷め切った紅茶で唇と喉を湿らせた。 
      このままやられっぱなしは癪だ。 
      スタンはルーティを強気に睨み返すと、反撃に出た。 
      「――――で、ルーティはどうしたんだよ」 
      ルーティの眉が僅かに跳ね上がる。 
      「何で塀なんて乗り越えてきたんだ」 
      「そんなの、アタシの勝手でしょ」 
      「あんな所から来るなんて、泥棒に間違えられたって知らないぞ」 
      「よけーなお世話」 
      ルーティはツンとそっぽを向いた。 
      こういう所は旅をしていた時から変わらない。 
      「どうせリオンに会いに来たんだろ?」 
      「ッ!?」 
      ギョッと目を剥くルーティを無視し、スタンはやけに物の分った口調で、 
      「長い間離れてた上に第一印象が最悪だったのは分る。でもさ、姉弟なんだし、今はわだかまりも無いんだから堂々と玄関から入ってきても……」 
      「チョイ待ち!!」 
      慌てた様子でルーティはスタンの目の前に手を広げ、ストップをかけた。 
      「どーして……どーやったらそういう理屈にいっちゃう訳?」 
      こめかみをひくつかせるルーティに対し、スタンはきょとんとしたように、 
      「え。だって、ルーティがここに来るなんてそれ以外考えられないじゃないか。あー、でも今リオンは仕事でいないから、今度にするか?えーっと、次に帰ってくるのは〜……」 
      頭の中でリオンの予定を反芻していると、またしても慌てふためくルーティからストップが入った。 
      「ちょ、ちょっと!違う、チガウ!アタシが会いにきたのはあんた!!」 
      「へっ?」 
      スタンはルーティをぽかんと見つめた。 
      それからマジマジとルーティを見つめると、 
      「俺?」 
      「……そーよ」 
      ルーティは気まずそうに視線を逸らす。 
      対するスタンは変わらず呆けた顔で頭をかきながら、 
      「えっと……何で?」 
      「――――っ、アタシが会いにきちゃ悪い!?」 
      ルーティの剣幕に押されてスタンは千切れそうなほど首を振る。 
      「そんな事無い、そんな事無い!!」 
      「あ、アンタが……」 
      「ん?」 
      「アンタが、自由に外で歩けないなら、こっちから会いに行くしかないじゃない。でもアイツと鉢合わせしたら――――ほら、門前払いくらいそうだし」 
      「いや、いくらリオンでも……」 
      訂正しようとしてスタンは考え直した。 
      リオンなら……やるかもしれない。 
      「わざわざ会いに来たんだから、ちょっとは感謝して欲しいわ」 
      相変わらず視線を合わせず、ルーティは言う。 
      (あぁ……何だ) 
      多少ひねた所のある彼女だから理解するのに時間はかかったが、なんて事は無い。 
      ルーティは滅多に出歩けない自分を心配してくれていたのだ。 
      仲間の友情が嬉しくて、スタンの顔は笑みに綻んだ。 
      「ええっと……あのさ、ルーティ」 
      「何よ」 
      「もう今日は遅いしさ、今日はこのままうちで夕飯食って泊まっていかないか?」 
      「えっ……」 
      ルーティは面食らったように目を丸くした。 
      スタンは言葉を選びながら、 
      「あのー、ほらさ、今日リオンいないんだ。飯食うのも一人じゃ寂しいし……。いや、ルーティの都合がいいんなら、だけど……」 
      「……アンタの口調、まるで亭主の留守中に浮気相手家に上げる奥さんみたいね」 
      「なッ!」 
      「ああ、それともご主人様に内緒で恋人を招待しちゃうイケナイメイドさんの方があってるかしら?」 
      「ルーティ!!」 
      スタンは顔を真っ赤にしてルーティに食って掛かった。 
      亭主だの奥さんだの恋人だの、なまじあたっている部分が無いでもないので、余計に焦る。 
      自分でも怒っているのか、恥ずかしいのかよく分らない状態で、スタンは反論の言葉を捜した。 
      だがそんな状態で上手い言い返しなど見つかるはずもなく。 
      「ま、せっかくだから泊まってあげる。これで宿代節約できたし、助かったわぁ〜」 
      「っ――――!」 
      スタンが返す言葉もなくスカートの裾を握り締めると、ルーティは実に楽しげに微笑んだ。 
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