『すし詰め』と言う言葉がこれほど似合う場所は他にないだろう。 動く箱の中に他人と一緒に放り込まれ、運がよければ目的地まで座ったまま移動できるのだが、そうそう幸運が転がっているわけではなく、それ以外の者はしたくもないおしくらまんじゅうを要求される場所。 ―――ラッシュ時の電車とはそういうものである。
(これは・・・酷いな・・・) 入った瞬間クロードはそう思った。 電車の中は定員をゆうに越えている気がする。 ガ、その実、進行方向に向かって横三列、その後ろに順番に並べば通常のラッシュ時の人数よりニ〜三人分の余裕ができるらしい。 だが朝っぱらからそんなことに余裕のある人間がいるはずもなく、今日も朝の電車はおしくらまんじゅうなのだ。 ま、そんな事はおいといて。 クロードはいつもこの電車の一本か二本あとの電車ばかり利用しているので、この時間帯のラッシュは知らなかった。 なぜかというと、起きて家から走って駅につくころにはこの電車はとうに発車していて、いつも仕方なくその後の電車に乗り込むのだ。 人は俗にこれを『遅刻』と言う。 だが今日は珍しく目覚ましが鳴るより早く起きて、いつもより三十分も早く家を出ることが出来た。 ――因みにそのせいかどうかは知らないが、冬だと言うのに蝉がいっせいに孵化し、近隣の住人をパニックに陥らせていた。 無論、そんな事クロードには知ったこっちゃねぇなのだが。
(ッ・・・足踏まれた・・・) 満員の電車の中で人間の、特に女性の足と言うのは凶器と化す時がある。 実用性と重力を完全に無視したあのハイヒールはまるで鋭利な刃物のようだ。 そして過剰なまでの匂いの装飾。 香水と言うものは本来仄かに香るモノ。 が、こうも自己主張されるとさすがに閉口する。 しかも密閉されたこの空間で人間の体臭と他の様々な香水とで微妙にブレンドされ、悪臭に変わっていた。 それはもう眩暈を覚えるほどにキツイ。 朝の爽やかさなどこの箱の中では無意味なものらしい。 (あ、本気でマズイ・・・) 慣れない早起きと悪臭とのダブルパンチでクロードの顔面は既に真っ青だ。 せめて、せめてでいい。 一時的にこの人いきれから逃れられないものか・・・ そう思っていたとき。 「あっ・・・」 突然ぐいっと腕を掴まれ、後ろに引っ張られた。 「大丈夫か」 「えっ」 移動させられたのはドア付近。 突然の出来事に、クロードの頭はいつものように働かなかった。 「すっげー、気分悪そうだったぞ」 「だ、大丈夫です!ちょっと・・・満員電車って慣れなくて・・・」 「人に酔ったんだな」 「ええ・・・まぁ・・・」 情けなく笑って頭を掻く。 そういえばさっきから少し自分の周りにスペースが出来ている事に気がついた。 みると目の前の男性が両手をドアについて壁を作ってくれている。 「あのォ・・・」 「あン?」 「辛くないですか?」 「別にィ」 男性は唇だけで笑った。 「俺よりお前さんのほうが辛かったろう?こんな所で倒れられても困るしな」 そんなに酷い顔をしていたのかと、クロードは顔を赤く染め、俯いた。 そんな様子を、男性は興味深そうに見つめていた。 こりゃ、はたから見ればラヴラヴだな・・・ たいして違和感ない所が恐ろしい。 しばらく俯いていて、クロードはあることに気がついた。 (何かの匂いだ・・・) さっきまで嗅いでいた悪臭とは違う匂い。 かなり強い、煙草の匂いがする。 その出所はどこかと面を上げると、どうやら目の前の男性からしているようだ。 そしてもう一つ。 (何か・・・何処かの場所の匂い・・・) たとえば、子供のころとにかく嫌いだった場所。 一つの独特の世界を形成している場所。 (どこだったかなぁ・・・) 「ついたみたいだぞ」 男性の声に、クロードははっとした。 気がつけばドアの外には見慣れた駅構内。 電車は同じ制服を何人も吐き出している。 「ああ!もうついちゃったぁ!」 クロードは慌てて出ようとし、ドアを降りた所で振り向いた。 「あの!」 「ん?」 「ありがとうございました!!」 勢いよく頭を下げるクロードを見て男性は驚いたような顔をしたが、すぐさっきまでの顔に戻ると、片手を上げ、 「じゃ、気ィつけてけよ」 「ハイ!」 クロードが歩き出したのと同時に、ドアが閉まり電車は次の駅目指して走り出した。
いきなり時間は飛んでその日の昼休み。
「しっかし不思議だよねぇ・・・」 クロードは売店から調達してきたパンをぱくつきながら窓の外を見、呟いた。 「何が不思議なの?」 クロードの向かいで、可愛らしく盛り付けられた弁当に箸をつけながら、レナは首をかしげた。 「だって、今朝はあんなに晴れてたのに学校に着いた途端雹が降るなんて・・・」 しかもその降り始めた時間が、クロードが学校に着いた時間とジャストタイムだなんていったい何の因果だろうか。 気象すら操れるのか、この少年。 「しかも朝から学校の全電気系統がショートしちゃうし・・・」 因みにその時間もクロードが学校に着いた時間とぴったり合う。 「本当に今日は不思議な日だよねぇ」 真剣な表情で尚降り注ぐ雹を見るクロードと、その様子を複雑な顔で見つめるレナ。 どう声をかけてよいものか分からないらしい。 ――某古本屋の言葉を一部掻い摘んで借りるなら、不思議と言うものはこの世に存在しないらしい。 この世に起こることはすべて必然。 「偶然」や「奇蹟」と呼ばれるモノは必然が重なり合いかろうじてそう見えるだけのものだという。 ――じゃ、この異常現象も必然と言うのか? 冬に蝉が鳴いたり野球ボールクラスの雹が降ってきたり学校の電気系統がイカレるのもすべて必然? いっそ超常現象すべてがクロードの行動一つで決まるものならそれはそれで説明が楽でいいと思うけど・・・
「あ、そういえば保険の先生の後続、決まったのかな?」 視線をレナに戻し、クロードは言った。
実はクロードの学校では、突然保険医が諸事情で辞めることになり、その後任がいまだ決まっていないらしい。
因みに保険医が辞めたのは一週間前。 一週間も保健室が閉鎖だなんて、なんてアバウトな学校だ。 「早く、決まって欲しいよね・・・怪我人がでるたびに中等部まで行くのも面倒だし・・・」 ついでに、中等部から高等部までの距離は約200m。 出血多量のときなんてほとんど保健室へ行く意味がない。 救急車を呼んだ方がまだ早いだろう。 「ほんとう、早く来てくれないかな〜。保険の先生」 窓の外を見ながら、クロードはしみじみと呟いた。 ・・・あ、今ガラスに雹がぶつかった。
さらに時は飛んでその五日後のこと。 今日は珍しく寝坊もせずにクロードは、朝礼を聞いていた。 多分絶対そのせいだと思うが、本日は大型台風12号がゆっくりと北上してくるはずだったのにどういうわけか、かくっと西にそれて、街は暴風雨に見舞われることなく清々しいほどの快晴であった。 ――しかしこう度々異常に見舞われると気象庁も予報士も、嘆いているか或いは発狂しているかもしれない。 まぁ、やっぱりそんな事クロードにとって知ったこっちゃねぇなのだが。 校長の長い長い長い話も終わり、生徒会の連絡事項も終わり、ついで教頭が壇上に上がった。
「では、本日最後に新しく配属される事となった保険医を紹介する」 その言葉に、会場のあちこちでは安堵の溜息が洩れたり、「やっとかよ・・・」なんて声がしていた。 クロードもその中の一人だった。 「やっとか〜・・・」 これで怪我した時など安心だが、自分よりもっと安堵している人物もいるだろう。 学校内で保健室の使用頻度bPのアシュトンや、自分の発明品の暴走で怪我を負うプリシスなんかがきっと今ごろ感涙してるかもしれない。 「こら、静かにしろ!」 ざわめく生徒達を一喝し、ミラージュ教頭はおもむろに壇上脇へ向かって「どうぞ」と呼んだ。 シィンと場が静まり返る。 壇上脇のカーテンから一人の男が姿を表した。 短く刈った焦げ茶の髪。端整な部類に入る整った容姿。真っ白な白衣を翻し、多少よれたネクタイを締めたその姿は・・・。 「!!」 椅子を蹴落とさんばかりに立ち上がったクロードは叫んだ。 「あー、あの時の!!」 それは正に五日前、満員電車の中を人いきれから救ってくれた男性、その人であった。
「こら、そこの生徒。待望の保険登場だからって、興奮するな」 茶化すような男性の言葉に、はっと我に帰ったクロードは耳まで真っ赤にして椅子に腰掛けた。 まわりからくすくす笑いが聞こえる。 男性はその様子を見て、ふっと笑うと、前へ向きなおし、
「改めて、本日付で星海学園高等部保険教諭となりましたボーマン・ジーンです。いつもたいていは保健室にいるので、怪我や病気の時だけでなく何か悩みがあるときには遠慮なく来て下さい。では、これからどうぞよろしく」
「ほんっとうに驚きました!!」 朝礼が終わって、一時間目の授業が始まり、そしてそれが終わった後、クロードは一目散に保健室へ向かった。
ドアを壊さんばかりに開き(実際ガラスにヒビが入ったかもしれないけど)中に入ると、新任保険医は持ち込んだという椅子に腰掛け、 「よぅ。やっぱり来たな」 そう、にやりと笑って言った。 薦められた椅子に腰を降ろし、渡されたコーヒーを手に興奮冷めやらぬ声でさっきの科白。 「まさか、あなたがここの先生になるだなんて・・・!」 けれどそれで納得がいった。 あの満員電車の中で、ボーマンから嗅いだ匂い。 薬の匂い、病院の匂いだ。 「ま、偶然って奴は恐ろしいもんだな」
なんて白々しくうそぶいているが、実は電車から降りたあとクロードの制服からどこの生徒か割り出し、ちょうど保険教諭の募集をしていると知って、その朝いの一番に勤めていた病院に辞表を出し、学校に採用してもらった・・・なんて経緯をクロードはもちろん知らない。 それにしてもある意味この行動力には賞賛を送りたい。 ・・・たとえその目的が不純極まりないものであったとしても。 「あ、このコーヒー美味しい・・・」 「飲みにきたけりゃいつでも来ていいぞ。ご馳走してやるよ。・・・ついでにベッド使いたい時もな」 保健室の使用目的を激しく誤解してはいませんか、そこの人。 だが、ボーマンの真意など分かる筈もなく、クロードは無邪気に「はい!」と笑った。
色々な人物が登場して収拾つかなくなりそうになりつつも話はまだまだ続く。 まて、次回!
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