[――――やぁ、メアリー・アン。]
"それはまぁ、なんてへんてこな光景だったのでしょう!" 「――――やぁ、メアリー・アン。私の扇子と白い革手袋はどうしたんだい?」 扉を開いて、部屋の中を見回してからたっぷり三分後。 一番最初に口をついて出たのは、自分の姿と目の前の後輩の姿を考慮した上でのジョークだった。 だが後輩はこのジョークをお気に召さなかったらしい。 いつもよりもっと不機嫌そうに。いつもよりもっとかわいらしい顔をしかめ、いつもよりもっと険のある声で、 「何言ってんのか、全然わかんないんだけど」 「うん。いや、分からないのは私の方だ。いったい何なんだいこの――――この、狂態は」 そこに広がっていたのは、テニス部の部室では無く、一種の桃源郷であった。 なんて言うのか、ダリ、みたいな。珍花繚乱、みたいな。この一室だけ歌舞伎町にワープ、みたいな。 とかく言葉にするには難しい情景が広がっていた。 部屋の内装は今までと全く同じである。 何も変わったところのない、ごくごく普通の体育会系の部室。 しかし――――そこにいる一部の部員の姿は、いつも通りとはかけ離れた状態であった。 「うっわぁー、ちゃんだー!」 いつものように歓声を上げて飛びついてきたのは、菊丸だった。 いつもの賑やかさ。いつもの重み。 それを受け止めたは、いつもとはほど遠い菊丸の姿に思わず足をよろけさせた。 なぜだ。 なぜ柔らかい。 ――――どうして頬に当たる胸の部分が柔らかい。 と言うか、その格好はなんだ。 は視線で訴えかける。 菊丸の今の姿は、一言で現すなら"ニッポンの女子コーセー"だった。 指先まで隠すだぼだぼのカーディガン。その胸元からのぞくのはどうやらセーラー服の襟。 襟の色は紺。赤いスカーフがオフホワイトのカーディガンによく映える。 膝から下には、お決まりのように真っ白なルーズソックス。 型にはめたかのごとく見事に記号化された"女子コーセー"だった。 特にが目を見張ったのは、膝上いったい何センチなのかとメーターを取り出したくなるほど驚異的に短いスカート。 そこからのびるのは、紛れもなくアスリート特有の筋肉の発達した脚。 動くたびにスカートがきわどい位置まで舞い上がるが、幸いにしてスパッツを着用しているため、下着が見えてしまうと言う見られた本人もまた見てしまった人間も不幸になる事故は免れているようだ。 いつもはムースで跳ねさせている髪も、今日は横の髪を一カ所、強引にボンボンのついたゴムで結んでいる。 薄く化粧をしている頬にいつもと同じ絆創膏が貼られていて、は訳もなくほっとした。 「どしたの、ちゃん?」 思わず押し黙っていたに首を傾げる女子コーセー=菊丸。 だがそのうち、かしげていた顔に喜色をさすと、 「あーっ!もしかして見とれてた!?」 悩殺しちゃったーと笑顔五割り増しでさらに抱きつきにかかる菊丸。 違うのだと弁明しようとするが、はしゃぐ菊丸には通じないようだ。 とりあえず、がっちりとはめられた腕の首輪をはずそうと躍起になりながら菊丸の保護者(大石)の姿を探す。 だがそんなが見つけたのは、大石の姿ではなく越前、菊丸と数えて本日三つ目の"驚異"だった。 まず目に飛び込んできたのは、青。六月の雨上がりの空のように、澄み渡ったかめのぞき。 それがチャイナドレスの形をしている。 いや、よく似ているが、肌にぴったりと張り付いた長袖はチャイナドレスにはあまり見られないものだし、腰近くまで入り込んだスリットから、白いスラックスのようなものがのぞいている。 たしか、東南アジアでよく見かけるアオザイとか言う伝統衣装だ。 わずかに露出した手や首が、まるで真珠のように真白く輝いて見える。 こちらに向かって微笑む姿は、睡蓮か桔梗のようなたおやかさに満ちていた。 が、どこかけして屈さない鉄のごとき強さも秘めている。 何も知らぬ人間がこの笑顔を向けられれば、即座に虜となり、命ぜられるまま世界征服ぐらいは成し遂げてしまいそうだ。 その正体を知っているですら、近づいてくる相手に向かい、思わず 「跪いてもいいですか?」 と聞いてしまうほど。 「……ちゃん?」 ――――の吐いた戯言に、不二はマスカラをたっぷりつけたまつげを何度か瞬かせた。 「――――女装コンテスト……ですか」 「まぁ、正確には女装・男装コンテスト、なんだけどね」 張り付いていた菊丸を不二に引き剥がしてもらい、数分後。 は部屋の片隅で相変わらずデータ整理をしていたらしい乾に事情の説明を請うた。 「青学中等部の伝統行事なんだ。各クラブ毎から最高三名、男子なら女装を、女子なら男装をしてコンテストにでる。けっこうみんな真剣でね。ユーモア賞やアイデア賞なんて言うのもあるが、みんな狙っているのは優勝さ。優勝したクラブには、わずかだが部費が上乗せされる」 だから必死なんだよ、みんなと乾は締めくくる。は合点がいったと部屋の中を見回した。 目のあった菊丸が、星が跳びそうなくらいかわいらしくウィンクしてくる。不二は相変わらずのアルカイックスマイルだが、嫌そうな感じは見て取れない。 3−6コンビは結構ノリノリらしい。 そんななか、越前はと言うと、この格好がはなはだ不本意らしく、整えられた眉を手塚ばりに顰め、ベンチであぐらをかいている。 だがそんな姿すら、今はかわいらしく映ってしまう。 本当に、なんて愛くるしいのだろう。 まるで物語の中から抜け出してきたかのようなその可憐さ。 たとえ銀幕のなかを探しても、これほどの美少女はお目にかかれまい。 視線を越前に固定したまま、はうっとりと熱っぽいため息を吐いた。 「――――なに見てンの」 さすがに視線が煩わしくなったのだろう。 越前はの目の前まで近づくと、眉間の皺をさらに深め、睨み付けてくる。 は気後れすることもなく、視線を真っ正面から受け止め、 「いや……まったくどうしてくれようかと思うほどの可愛らしさに目が眩んでいた。妖精のごとくとはこのことだね。今の君はロリコンでなくとも攫ってしまいたくなるほどだよ。可愛い。あぁ、もう、嫉妬するのもバカらしくなるほど、可愛らしいよ……」 可愛い、可愛いと一言口にするたびに、越前の表情から怒りが消え、代わりに呆れが浮かび上がってくる。 そのうち呆れ極まったか、ため息をつきながら首を振ると、 「――――乾先輩。そこの近眼乱視老眼トリプルコンボ食らった人に眼鏡貸してあげて。それが駄目なら、いい精神科の病院紹介して」 「失敬だな、君は。私は近眼でもなければ乱視でもなく、あまつさえ老眼でもない。精神も至ってマトモだ。悪いことがあるとすれば、それは君。君が愛くるしすぎるのがいけないんだよ、"アリス"」 キザな台詞のおまけ付きで再び熱っぽい視線を向ければ、越前はもう何も言うことがないとばかりに、エプロンスカートの裾を翻し、そっぽを向いた。 ――――アリス。 その名を聞けば、大概の人間の脳裏には、あの金髪に青いエプロンドレスの少女が浮かび上がってくることだろう。 ルイス・キャロルの生み出した、"永遠の少女" 奇々怪々、荒唐無稽、摩訶不思議。 時に当時の風刺を交え語られた彼女の冒険譚は、シャーロック・ホームズやマザー・グースのようにいくつもの作品のモチーフとなってきた。 たとえ原作を読んだことがない人でも、他の小説や映画で彼女の"断片"くらいは見たことがあるだろう。 妖精とお化けの国イギリスの生み出した最良質のお伽話。 "不思議の国のアリス" 越前の姿は、まさにその主人公たるアリスそのままであった。 「なんっで俺がこんな格好しなきゃいけないだか」 青いエプロンドレスにストライプのソックス。 金髪ロングヘアーのカツラに大きなリボンまで結ばれても、まだ諦めきれないかのように越前はぶちぶちと文句を言っている。 ふつうここまでやられれば人間観念すると思うのだが、どっこい越前は違った。 未だに隙あらば逃げてやろうという気満々である。 さすが青学テニス部期待のルーキー。そのネバーギブスピリッツには頭が下がる。 周囲の人間も敏感にそれを察しているらしく、誰が逃がすものかと言わんばかりに不二と菊丸の二人がべったり横にひっついている。 この先輩方の包囲網は容易に抜け出せないだろう。 なので、越前はただひたすらにぶつぶつ呟きつづけている。 「別に俺じゃなくたっていいじゃん。他にもいるだろ、大石先輩とか、部長とか……」 「……あのな」 越前のぼやきを聞きとがめたは、思わず渋い顔を作った。 「君、見たいか。くーちゃんの女装姿、君は見たいか。いつか倒すべき現青学最強の男の女装姿を、君は見たいのか?私は見たくないぞ――――そんなモザイクかけてもまだ破壊力のありそうな視覚兵器、私は見たくないッ!」 きっぱりはっきり、万感の思いを込めて叫ぶ。 一瞬曰く言い難い空気に包まれる部室。 誰も彼も、思わず頷きそうな形のまま固まっているのが見ていて異常だった。 まるで、不気味な彫刻の森にでも迷い込んだかのようだ。 そんな重いとも軽いとも言えない沈黙を破ったのは、ゆっくりした越前の呟きだった。 「――――今の、部長が聞いたらどんな顔すんだろ」 「それは興味深いな。、ぜひその台詞、手塚の顔を見ながら言ってくれ」 「呪いグッズで身辺固めて怪奇スポットに一人で突入するより恐ろしいことさせないでください。私にそんな度胸はありません」 眼鏡を輝かせる乾を真顔で突っ撥ねる。 それでも食い下がる乾とやり合っていると、越前達の方から小さな笑いがこぼれた。 声の主は不二だった。 桜色に色づいた唇をわずかにつり上げ、優美に微笑んでいる。 「僕としては、さっきの言葉を聞いた手塚の反応より、今のちゃんの格好を見た手塚がどんな反応をするか。そっちの方が興味あるかな?」 王侯貴族のごとく気品あふれる笑顔に見とれていたは、不二の言葉が終わると同時にはっと正気付き、ついで情けなく顔を歪め、 「笑いたくば笑ってください、不二先輩。私だってリョーマ君のように逃げたいが、制服を人質に取られているものでしてね。結構値ェ張るんだー、制服って……」 遠い目をしたは、無気力な瞳を見られまいとシルクハットの鍔を下げて顔を隠す。 シルクハットには、フカフカしたウサギの耳がついていた。 部室に入ったとたんあんな冗談が口をついたのも、そもそも自分の今の姿と越前の姿がまるで対のように思えたからだ。 光沢のある生地で作られた燕尾服に、細身のステッキ。 内ポケットには文字盤が逆につけられた、逆さま周りの懐中時計。 燕尾の切れ目から覗くのは、フカフカと丸っこい毛玉――――。 「アリスが追いかけてこないから、とうとう自分からやってきちゃったのかな?白ウサギさん」 「アリスを不思議の国へと導く"白ウサギ"――――その名称、実のところ今の私には正しくないのですよ、アオザイ美人のお姉様」 はズリ下げていたシルクハットの鍔を俯けていた顔と一緒にあげると、へらりと情けない顔で笑った。 「今の私は、不思議の国管理局派遣、道先案内人の"黒ウサギ"でございます」 |
あとがき
なんだかやっちゃった感満載の三日目。 女装コンテスト云々は管理人の模造です。 タイトルの「メアリー・アン」は 原典に名前だけ登場するお手伝いさん。 「不思議の国のアリス」をモチーフにはしていますが、 きっと内容は本来の話から脱線しまくることでしょう。 原典ファンの方には、今から謝っておきます。 ごめんなさい(汗) |