「帰れ、死神」
時は十七時、夕暮れ時。 祭りの興奮をいまだ引きずったまま早々に学校を去るものや、明日の最終日に向けて最後の追い込みに入る者様々にいる中で、たった一人だけ、その場の高揚した雰囲気にそぐわぬ者がいた。 ふらふらとおぼつかない足取りで廊下を行く少女は、とある教室の前でぴたりと足を止めると力のない手で戸を開いた。 「こーんばーんわァあー……」 「帰れ、死神」 入り口で机を片付けていた少年から、即座に退場を命ぜられる。 しかしは素直にそれに従わず、手近に合った椅子に腰を落とした。 がっくりと力なく背もたれに背を預け、天を仰ぐ。 その表情には散々たるものがあった。 両目の下には黒々とした隈。開いたままの目は死んだ魚のように濁っている。顔色は、死者というよりもはやゾンビに近い。 「顔が悪いぞ、」 「顔の後に"色"が抜けてるぞ、さっちゃん。もし"色"は元々つけるつもりが無いというなら、この顔は生まれつきだ。悪かったな、さっちゃん」 「俺を"さっちゃん"って呼ぶな!!」 自ら片付けていた机に拳を叩きつけ、少年は吠えた。 桃城のようなつんつん頭から湯気が出ている。額には、綺麗に青筋が浮かび上がっていた。 少年の激昂する様にもは眉一つ動かさず腰を曲げると、床に落ちたノートを拾い上げ、パラパラと捲る。 「構わないじゃないか。名前が幸(さち)だから、さっちゃん。分かりやすくて。小絹先輩もそう呼んでるし」 「――――呼んだ?」 そう広くない教室の奥から、自分の名前を聞きつけたか、一人の少女が顔を出した。 「どうかしたの、さっちゃん」 と、不安げに少年を呼ぶ。 呼ばれた少年は大きなどんぐり眼をめいっぱい広げると、 「さっちゃんって呼ぶな!」 「あ、ご、ごめん……」 少女は、いつものようにつり目を伏せがちにすると猫背をますます丸め、脅えるように謝りを入れた。 ひょろりと高い身長はともすれば威圧を感じてしまうほどなのに、こうしていると弱弱しい事この上ない。 思わず瀕死のキリンを思わせる。ならば少年は、さしずめ牙を向いたハリネズミか。 少年――――部内唯一の一年ボウズは、驚いた事にこの弱気な先輩と幼馴染の関係にあるらしい。 さらに、今年入った新入部員の中でを除くと唯一部活を続けられている生徒だったりする。 ほとんどの生徒は、副部長の奇抜さに恐れをなし一日で退部届けを出したと言うが、少年は周囲の人間が舌を巻くほど熱心に部活に通った。 通った――――だけである。活動にはさほど熱心ではなかった。と、言うか華道自体に興味はないらしい。 特に花に興味もない少年が華道部に居続ける理由に、弱気な少女がある事ははたから見るものには分かりすぎるほどよく分かった。 恋愛関係にはまったく気のまわらないにも分かるほど、少年の絡み方は露骨だった。 このままいけば泣き出すこと必至な先輩を救うため、は重い腕を何とか振り上げると、分厚いノートで少年の頭を思いっきりひっ叩いた。 スピードはそんなになかったものの、ノートの厚みや予想しない方向からの攻撃だったせいか、少年は大きく前によろける。 さし伸ばされかけた少女の腕を少年は振り払うと、今度はに向き直り、 「なにすんだ!!!」 「君が小絹先輩を苛めるから悪い。――――それに入部は後だか、私は仮にも君より一年年上だ。"さん"か"先輩"くらいつけたまえ。……さっちゃん」 「さっちゃんって言うなー!!」 耳に煩わしいばかりの少年の怒声を意識下で完全にシャットアウトして、は再びノートに眼を向けた。 ノートは、その日華道部の展示にやってきた人の名簿になっているらしかった。 様々な字が紙面を埋める中、はあることに気付く。 「――――昨日はそれほど入らなかったのに、今日になったらまたずいぶんお客が入ったようですね」 「あぁ――――部長が帰ってきてたから」 幼馴染を宥めるのに気を回していた少女の答えに、は得心して頷いた。 華道部の部長は、その筋では徐々に名を上げ始めている新進気鋭の華道家だ。 活動範囲は国内より主に海外が多いから、学校に来ることは珍しい。出席日数云々の理由で進級が危ぶまれる事もあるが、今のところ成績などでカバーできていると言う。綱渡り状態である事に変わりは無いらしいが。 おそらく名簿の大半は、どこぞの有名人やら何やらが、わざわざ部長とお近づきになりたくてやってきたのだろう。 名簿を見ていると、流暢な筆遣いやしかめつらしい名前が多い事に気付く。 は名前の羅列から顔を上げると、 「さっちゃん、部長は?」 「奥。副部長と話し込んでる」 訂正する事を諦めたか、しかしそれでもへの字口は解かずに、少年は顎で奥を指す。 静かに耳を済ませると、聴きなれた副部長の馬鹿笑いの合間合間に、花の香りを乗せた春風を連想するような声が聞こえる。 はノートを閉じると、どっぷり溜息をこぼし、 「いつもの格好か」 「いつもの格好だ」 聞きたくなかった答えを聞かされ、は力なく肩を落とした。矢先。 「ちゃん」 鈴を転がすようとはこの事か。 耳に心地のいい声で呼ばれ、は恐る恐る顔を上げた。 「お久しぶりね。元気だった」 「変わり無く。お久しぶりです。部長……」 マシュマロみたいにふんわりと甘い声で彼女はたぶん、笑った。 たぶんというのは、顔が見えないからだ。 なんせ、相手は大仏の被り物を被っていらっしゃったので――――。 初めて部長と出会ったとき、彼女はバリ奥地の民族に伝わると言う悪魔のお面をかぶって現れた。 二度目にあった時は中華街のお土産屋にあるような、目の細い中国人のお面。 三度目の時、ゴジラの着ぐるみ姿で挨拶された時など、冗談でもなんでもなく腰が抜けた。 とうの本人は別に驚かそうとしてあんな格好をしているわけで無く、ただたんに普段着感覚と言うか趣味として楽しんでいるのだと言う。 その証拠に、副部長から彼女の載っている雑誌を見せてもらった時、自分の作品となにやら偉そうな老人に挟まれた部長は、ごく普通の少女の顔をしていた。部長の素顔を見たのはそれが最初で――――ひょっとしたら最後かもしれない。 お面云々を取り除けば、彼女はものすごく部長らしい部長だ。 めったに部に顔を見せないが統率力もあるし、性格もいい。一歩引いた所から人を見ることのできる大人でもある。 副部長の破滅さを補って余りあるほどの御仁だ。 しかし――――。 (まぁ――――他人の趣味にとやかく口を出すのも、なぁ) その辺はすでに諦めきっているであった。 「よっ。」 女子制服を着た大仏――――もとい部長の影からチェシャ猫よろしくニヤニヤ笑いを貼り付けた副部長が顔を出した。 「魂抜かれたような顔してんなぁ。しょうがねぇか。昼から今の今まで天使の皮かぶった悪魔と羊の皮かぶった狼に校内引きずり倒されてたんだから」 「見てたんなら助けて」 最後の体力を振り絞って、副部長を睨みつけるだが、相手は柳に風とばかりに視線を受け流す。 そして、ますます顔をニヤケさせると、 「見守ってやってたんだよ。それに、あんな面白い見世物止めさせるなんてとんでもない」 副部長の慈悲が溢れてすぎてうっかり手近な机を投げそうな言葉に、部長は首を振りながら溜息(たぶん)をつくと、 「相変わらず人が悪いのね。あなたに付き合うちゃんが可哀想だわ。そんなだから、後輩はおろか同級生からも"奇人"なんて呼ばれるのよ」 (それはあなたもですよ、部長) は心の中でこっそりツッコむ。 もしも青学中等部内で奇人変人ランキングを催すならば、問答無用でこの二人がワンツーフィニッシュを決めるであろう。 ――――あえて、どちらが一位か二位かなんて考えたくなかった。 いつの間にやら自分の話を脱線して和気藹々と談話に徹する部長、副部長コンビの横で、は気取られぬようこっそり溜息を吐く。 その瞬間、気弱な先輩と眼があった。部内唯一の常識人は同情するように笑みを浮かべる。 同じ様に引きつった笑顔で答えたは――――もう一度、止まらない溜息を吐いた。 |
あとがき
もう、オリジナルで書けばいいじゃないかとツッコミをいただく前に、隔離してみました。 息抜き程度に読んでいただければ幸いです。 |