指先
今にも泣き出しそうな、どんよりとした冬の空の下。 不二は靴を履くのももどかしげに昇降口を飛び出した。 もう、校舎に残っている人間はほとんどいない。 担任に頼まれた用事で、思いのほか時間を食ってしまった。 一緒に声をかけられながらも、さっさと逃げた英二を恨みながら、校門を目指す。 校門を突っ切ろうとした時、目の端に黒いものが蹲っていて、とっさに視線を向ける。 「――――ちゃん!」 思わず声を上げた不二に対し、やや眼を見張ったは、 「こんにちは」 赤い鼻を擦りながら笑った。 「手塚を待っているのかい?」 隣に立って、理由を問う。 それは質問というより確認に近かった。案の定、は頷く。 「一緒に帰ろうかなと思って」 「そう」 “やっぱり” 後に続く言葉を、苦い思いと一緒に飲み込む。 がこんな行動に出るのは、だいたい手塚がらみであることを、不二は長くない付き合いのうちに知っていた。 「不二先輩はどうしたんですか?今日は、部活無いんでしょう」 「先生に頼まれ事されて、こんな時間になったんだ。一緒にいたはずの英二はさっさと逃げちゃったしね」 情けない顔を作って肩をすくめると、は災難だ――――と言って眉を下げた。 「見かけたら、捕まえておけばよかったですかね?」 「いいよ。それにたぶん、僕に捕まるのを嫌がって、裏口から逃げたろうから」 少し話そうか――――と、隣に同じように座れば、は真っ黒な眼をくるりと丸くむく。 「寒いですよ」 「そうだね」 頷いたが、退く気はない。 いつもの様にアルカイックスマイルを浮かべれば、相手も、モノズキだ――と呟き笑った。 話は、ただ盛り上がるでも無く淡々と続いた。 どちらかが話題をふれば、どちらかが頷き返す。それの繰り返し。 普段二人きりになる機会がまったくないためか、話は尽きることなく連綿と続く。 人気の無い校門にしゃがみ込んだまま、二人の声は暗い冬空へと吸い取られていった。 ――――どれくらい喋り続けたろう。 のくしゃみで話は打ち切られ、不二は始めてそれに気がついた。 「ちゃん、手……」 不二が眉を顰めると、も気付いたように鼻を覆っていた手を見つめる。 剥き出しの手は、指先が赤く染まっていた。 「こんなに寒いのに。手袋はどうしたの?」 「家出る時、忘れちゃって……」 という事は、今の今までこの寒空の下手袋無しで過ごしていたというのか。 非難の眼を向ければ、眉を下げた情けない笑い顔で、は両手を擦る。 殆どかじかんでいるのか、指先は細かく震えていた。 「何やってるんだ」 「うわっ!」 思わず手を取る。手袋を着けた手で包めば、は必死で手を引き抜こうと抗った。 鼻だけでなく、今度は頬まで赤い。 「チョッ、ちょっと、先輩!?」 「あぁ、もう」 手袋越しでは埒が明かない。 不二は急いで手袋を取ると、直接の手を温めにかかった。 石膏細工のように冷たく固い手を何度も擦る。 はまだ顔を赤らめたままで抗った。 「まって、離してくださいっ」 「こんなになるまで……いったい何時間いたんだい」 「い。一、二時間くらい……で、なくて!大丈夫ですから!私、体温高いですから。子供体温ですから!」 「氷みたいな手しといて、なに言ってるんだ!」 一喝。 すると、は体を縮こませ、大人しくされるがままになった。 包んだ手を、持っていたカイロでさらに温めようとするが、まったく温度の変る気配は無い。 手だけが、まるで蝋人形のように冷ややかだ。 自分に対し、無頓着な所があるとは思っていたが、よもやこれほどまでとは……。 不二は溜息すら飲み込み、ただの手をじっと温め続けた。 心配は過ぎれば、怒りに変わる。はじめの様な興奮はもう無いものの、心中ではまだふつふつと感情が煮えたぎっている。 やがて、がおずおずと口を開いた。 「先輩」 「何」 「その……汚いですよ?」 伺うような視線に、こちらも視線で問いを返す。 「何が?」 「あの……私の手」 言われて、まじまじとの手を見返す。 その手は、まだどこか幼さがあった。全体はふっくらとしていて、親指の付け根付近についている膨らみも、自分のものに比べてまだ柔らかい。 しかし、指先は荒れていた。 爪の周りは軒並みささくれており、潤いも無い。指の関節もひびいっている。 包丁か何かで切ったのだろうか。人差し指の付け根には、まだ新しい切り傷があった。 指に向けていた視線を、不二はそのままに向ける。 は、恥らっているかのように頬を赤らめ、顔を背けた。 「ほら、ええと。不二先輩は、綺麗な指が好きだって聞きましたもので……」 誰に、と重ねて聞けば、クラスの女子の噂、と返る。 「だから、ですねぇ。私の手、荒れ放題じゃないですか。そんな手握ってても、嬉しくも楽しくもおかしくも無いでしょうに……」 だから離してください、とは再び手をよじる。 しかし、不二は手を放さなかった。 そんな事か――――と呆れる反面、どうしようもない嬉しさがこみ上げる。 ふつふつと心をたぎらせていた怒りが、今度は自分でもよく分からない愛しさに変わる。 「ちゃん」 「……はい」 「僕はこの手、好きだよ」 微笑むと、はさっきまでの抵抗を止め、きょとんとした顔になった。 言われた事を、理解できていないらしい。 「ちゃんの手は、綺麗だよ」 「ご冗談を」 表情が一転、不審気なものに代わる。 それすらも、今の不二には何の影響も与えない。 「本当だって」 いまだ信じきれていないらしい後輩に向って、不二は諭すような口調で続けた。 「綺麗だよ。だって、この手は頑張ってきた手でしょう?もっと、誇りに思っていいよ」 この手は働く人間の手だ。誰かの支えになり、誰かを助けてきた手だ。 それがどうして汚いなんてことあるだろう。 「そんな事……言われたの初めてです」 の表情が、戸惑うように崩れる。 泣いているような、照れているような、そんな表情。 「なんか、嬉しいけど……照れますね」 「そう?」 言って、不二はそのままの指先に唇を落とした。 「っ!先輩!?」 「あっ。一気に温まってきたね」 慌てるに、悪戯っぽく笑みを返す。 「こ、こんな所、ファンに見つかったら!」 「その時は、二人で一緒に逃げようか」 手を繋いで――――。もう一度だけ唇を落とす。 は言葉にならないうめき声を出しながら、うつむいてしまった。 耳が、湯気でも出そうなくらい真っ赤に染まっている。 それを見ながら、不二はまた――――今度は声を忍ばせて笑った。 |
あとがき
不二がニセモノモード夢。 そして、相変わらずホノボノなんだか何なんだかよく分からない微妙な雰囲気の話。 とりあえず、指先にキスが書きたかっただけ。 |