An infernal kitchen

朱音は今まで生きてきた人生において、迷った事がない。
いや、夕飯を洋食にしようか、和食にしようかくらいは迷った事があるだろう。
しかし、それもだいたい0.1秒とか、「迷う」と言う形容詞が相応しくないほどの時間である。
だいたい、朱音は直感と本能に従って生きると言う、ある意味羨ましいと言うか、人生に疲れた中年サラリーマンが本気で血の涙流して羨望の眼差しを向ける人生を送ってきた。
結局、人間も動物の一種なんだなあと思い知るような生き方である。
だがしかし、と周囲の人間は思う。
漢らしいと言えなくもない即決力。現代日本男児に見習って欲しいほどの即断即決はまだいい。
こうと決めたら一直線。他の何にも眼をくれず、邪魔するものあらば踏みつけてでも進むその猪突猛進振りも眼を瞑ろう。
問題はそこではない。
長い前フリになってしまったが、要するに言いたいのはこう言う事だ。
「お前、迷う迷わない以前に、もっと考えろよ」




















「うぎゃあぁっ!?」
冬にしては日差しの優しい午後。
デニム生地を五枚くらい纏めて引き裂いたような悲鳴が、ホンキートンクに響いた。
「なんなんだよ、いったいっ!?」
「あぎゃあっ!」
噴出したコーヒーで濡れた口元を拭う蛮。
それをもろに被り、悲鳴を上げて流し台に体を突っ込むマスター。
「うきゅう?」
エネルギー不足のせいか、タレたまま椅子の上で居眠りこいていた銀次。
三者三様、それぞれが悲鳴の上がった店の奥に視線を向けた。
「っの!大人しくしろー!」
酷く慌てたような、朱音の声が奥から近づいてくる。
それと同時に、店の中に水音をさせながら飛び出すものがいた。
頭からすっぽりケーキ型を被り、体中に白っぽいとろろ状の液を纏わせ、逃げ惑う十本足の軟体生物。
――――イカだった。
まごうことなくイカだった。
きっと縦から見ようが、横から見ようが、真上から見ようが、真下から見ようが、一回転して見ようが、それはイカだった。
漢字で書いたら烏賊だ。
普段だったら海中か、さもなくば魚屋の店先でしかお目にかかれないような五体満足のイカが、十本の足を器用に使いながら逃げ惑っている。
つづいて、店の奥から再び飛び出すものがいた。
――――朱音だった。
こちらも、頭から白い粉を被り、手にはゴムベラ、体にはイカと同じ液体。エプロンなんて意味がないほどにどろどろのぐちゃぐちゃだった。
「大人しくしなさい!」
怒鳴る朱音の言葉を理解しているかのように、イカはさらに激しく店内を爆走し始めた。
追いかける朱音。逃げ惑うイカ。
残念な事に、これは現実である。けっして、不思議の国のアリスのイカバージョンではない。
もっとも、地下のルイス・キャロルもこんな謎の液体塗れのアリスと、磯臭い白兎はご勘弁願うだろうが。
とにかく人類VS海産物の追いかけっこは続いていた。
「って、おい!」
呆然とする三人の中で、最も早く正気づいたのは、蛮だった。
しかし、いまだ混乱から完全に抜け出したとはいえない。
明日の食事代をかき集めるよりも万倍必死で、自分の中の理性と常識をかき集め、叫ぶ。
「なにやってんだ、錆頭!」
「んん?」
ケーキ型の中にイカを封じ込めた朱音が振り向く。
その顔はきょとんとあどけなく、まるで自分のした事にまったく気付いていないようであった。
押さえつけたケーキ型からはみ出た、吸盤付きの足がびちびち床を打つ。
ギブアップ。なぜか、蛮にはイカがそう言っているように思えた。
……イカと意思疎通したいなど、生まれてこの方思った事はないけれど。
怒りと戸惑いを、絶妙な加減でブレンドした蛮の表情に、朱音もまた、胡乱な視線を送った。
「見てわかんない?」
「分かるかよ。気分は、追い詰めた連続殺人犯に「実は私はお前の父親なんだ」って告白された挙句、服毒自殺された名探偵だ
「ワケわかんない。その揶揄」

眉を顰める朱音。顰めたいのはこちらのほうだと、蛮は苦々しげに舌を打った。
マスターは、いまだ現実には帰ってきていない。きっと、そちらの方が幸せだろう。
銀次の方はと言うと、タレて固まったまま、イカの足を凝視している。
最初は激しく床を打ち殴っていた足だったが、今では殴ると言うより扇いでいるように見えた。
蛮は大きく溜息をついて、床の上でくたばりかけているイカを指差した。
「で、結局の所、その軟体生物はなんなんだよ。何の目的があって、持ってきた」
「ケーキ」
「……はっ?」

朱音の口から飛び出た言葉を、蛮は正しく理解しなかった。したくはなかった。
ケーキと言えばあれである。
小麦粉、卵、砂糖、場合によっては牛乳や生クリーム、チョコなんかを使って作られる、洋風生菓子の総称である。
断じて、間違っても、海産物など材料に含まれない。道具にも含まれない。これっぽっちも入る隙間などない。
呆然と自分の中にあるケーキの定義を再確認している蛮に対して、朱音は得意げに言った。
「ほら、イカ墨ってパスタにも使われるじゃない。最近じゃあ、お味噌使ったケーキもあるって言うし、だったらイカ墨ケーキがあったっていいかなって思って」
「いいかな、じゃねぇよ!五百歩譲って、イカ墨ケーキ作んのにイカ本体丸ごと使う奴がどこにいる!?」
くりんと可愛らしく首を傾げる朱音に、蛮は吠えた。
それに対し、朱音は怒られている事がはなはだ不本意らしく、唇を尖らせ反撃に出る。
「だぁって、墨袋だけ使って本体捨てるなんて、勿体無いもん。それに、生きてるうちに生地の中入れたら、暴れて生地を粟立てる手間が省けるかなぁって思って」
「省くなよ。思うなよ。そもそも考え付くなよ!だいたい、そのイカなんだ!なんで海中でもないのに、もう直らないなんて、手術すら諦めている車椅子の少年に見習って欲しいほど、元気いっぱい地上を走り回ってんだよ!?
「バイオの勝利」
「意味わかんねぇー!?」
ぐっと親指を立てて、どこから出ているのか分らないキラキラしい光で笑顔を輝かせる朱音を、蛮は全否定した。
理解できない。と、言うよりしたくない。
蛮はとりあえず、カウンターにもたれかかると、気持ちを落ち着かせるために煙草を一本、くわえた。
火をつけて、煙を肺いっぱいに吸い込む。
慣れた味に、ようやく思考が現実に追いつき、余裕が生まれる。
煙草一本で生まれる余裕に自分でも安上がりだと思いながら、蛮は視線を朱音の取り押さえているケーキ型に向けた。
「まぁ、もうどうでもいいけどよ。イカ、さっきから動いてねぇぞ」
「ええっ!?」
慌てて自分の下を見る朱音。
蛮の指すとおり、ケーキ型からはみ出たイカの足は、もうピクリとも動いていない。
色を失っているように見えるのは、光の加減か、それとも新鮮だからか。
「これしきでくたばるなんてぇ~ッ。この、根性無し!
「いや、海洋生物に根性求めるなよ」
理不尽に怒る朱音を眺めながら、蛮は煙を吐き出した。
「ったく……とりあえず、この辺片付けてけよ。波児が気がつくまえ……に……」
最後まで言いかけた言葉は、目の前で広がる非現実に途切れる。
蛮は固まった。固まりながら、頭の中で検索をかける。
こんな光景を、いつだったか見た気がしたからだ。
蛮の指から煙草が滑り落ちる。まだそんなに喫んでいないそれを、勿体無いと思う脳のスペースは、今の蛮にはなかった。
まず、型からはみ出たイカの足が痙攣した。
痙攣は徐々に大きくなり、床を打つたび足もまた肥大化して行く。
とうとう足は、重量挙げ選手の腕ほどまでになった。
つづいて、朱音の手の下の型が持ち上がる。
窮屈な器から、堪え切れなかったかのように、イカの足、さらには胴体が零れだす。
やがて、体の全てが外に解き放たれた。白い巨体が、ぬめる肌が、うねる触手が、眼前に晒された。
検索終了――――該当、一件。
「……怪獣映画」
どこからか、勇ましいBGMが聞こえてきそうなその光景に、蛮は開いた口がふさがらなかった。
呆れも、驚きも超越して、ただただ魂を抜かれたように唖然としていた。
「おのれ、バイオ技術!ネバーギブスピリッツには感心するけど、これじゃ、ケーキの型にはまんないじゃない。路線変更ね!」
「他に言いたい事は!?言わなきゃいけない事はないのかー!!」
蛮を正気づかせたのは、皮肉にも張本人というか、この悲喜劇の総監督たる朱音の一言だった。
とっさに、蛮は他の二人の様子を見る。
波児は相変わらず現実に戻りきれていないし、銀次もまた、首をかしげたまま、現状を理解しきれていない。
そのまま、こっちに帰ってくるな。蛮は切に願った。
「コレだけ出かければ食べがいがありそうね。銀次さん!関東風イカ焼きと、関西風イカ焼き、どっちがいいですか?
「もう、お前帰れー!」
「えっ、イカ焼きに関東と関西なんてあるの?」
「お前も律儀に答えてんじゃねぇよ!!」
蛮が吠えた。そして、それに呼応するかのように巨大イカが咆えた。――――気がした。















八大地獄に住まう鬼すら、ママの名を呼び号泣しながら逃げ出す阿鼻叫喚絵巻が繰り広げられる、喫茶ホンキートンク。
しかし、空はそんな事お構いなしに今日も青く澄み渡り、大なり小なりの違いはあるが、世界は平和である。
――――朱音に料理禁止令が出ていたと蛮が知るのは、数日後の病院のベッドの上でのこと。

あとがき

断言します。主役はイカです(をい)
とにかく、地獄絵図とも言うべき主人公の料理風景を書きたかったのですが、
何をとちくるったか、蛮との掛け合いで終わってしまいました。
さらに、銀次中心と銘打っておきながら、銀次が喋るのは最後の方だけ。
久しぶりにテンションのおかしなモノを書きました。
……いつものことじゃないか。

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