玻璃の花
=白=

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 明かりのない夜だった。



 新月のためか月の姿は空のどこにも見えず、星すら死に絶えたかのように瞬きを止めている。
 いつもならば磨き上げられた鏡のように月光を鮮やかにはじき返すトラン湖も、今日ばかりはただ静かに水面を揺らすばかり。
 その湖に護られているかのように建てられた城の一室。石造りの寒々しい部屋は静寂に包まれていた。



 時は夜半である。
 部屋の中に明かりはなく、ただ微かに青みがかった闇が部屋全体を包み込んでいた。
 部屋の中央近く。
 簡素な部屋に似合いの簡単な寝台の上で、一人の少年がその身を横たえ眠りについていた。
 よほど眠りが深いのだろう。身じろぎ一つせず、静かに眠り続けている。
 その顔色は、闇の中でも分かるほどに青白い。
 微かに上下する胸の動きがなければ、死人と間違えてしまいそうだ。
 それほどまでに、眠る少年の姿は儚く幽かだった。
 死にも似た静寂と青い闇に包まれた部屋の中、眠り続ける少年の寝台、その傍らに突如"闇"が生まれた。
 漆黒に塗りつぶされた部屋の中、光の手助けを受けず生まれた闇は、まるで粘土のようにグニャグニャと何度か形を変え、やがて一つの"姿"をとった。




 それは一人の少女の姿だった。




 足首まで届こうかと言うほど長い髪は、老婆のような白髪。肌の色もまた白く、その色は雪花石膏を思わせる。血を吸ったかのように不自然なほど赤い唇が、余計に肌の白さを際だたせていた。
 少女らしい華奢な躯が纏うのは、美しい花嫁衣装。
 なめらかな手触りと光沢を持つ紅い生地に、金の糸で鳳凰の刺繍が施されている。
 しかし、何より特筆すべきは闇が身に纏う装飾具の方だろう。
 触れれば容易く手折られる花の茎を思わせる細い首には、無骨な鉄の首輪。
 長い袖の裾から覗く手首、裸の足首にも同様に鉄で拵えられた錠と鎖が嵌められ、動きを束縛している。
 拘束は視界にすら及んでいた。
 粗布で目隠しされた上に、まるで封印でも施しているかのごとく鎖が二重三重に巻かれている。
 あたかも虜の姫であるかのようなその姿。
 しかし闇は、悲運の姫君などではない。闇は正しく罪人であった。





「あぁ……」
 と、少女の姿をした闇は――――死と生を食らう紋章はあえかな声を上げた。



 眼下では、宿主たる少年が昏々と眠り続けている。
 紋章はその場に跪くと、噛みしめた唇から悲痛な呻き声をこぼした。
 眠る少年を見つめる瞳には、深い憂いと困惑が滲み出ている。
 紋章は許しを請うように小さく宿主の名を呼ぶ。
 意識を失い石のように眠り続ける主は紋章の声に気づく様子もなく、ただ寝台に横たわり続けている。
 何も返事を、眠り続ける姿に変化を期待していたわけではないが、しかし。
 身じろぎ一つせぬ宿主の姿に、紋章は身のうちから零れ出る嘆きを呑み込んだ。



 ただの紋章には不要であるはずの心が、目の前に横たわる主の痛ましい姿に痛みを訴える。
 己に痛みを感じる資格など無いというのに、心に似たものは勝手に傷つき血を流す。
 紋章は恐る恐る、主の胸へと指を伸ばした。
 微かに上下する胸が、主が生きていることを伝える。
 そのままなぞるように指を動かせば、真っ白な包帯の巻かれた首に触れる。
 包帯に隠された箇所から伝わる、血の巡る感覚。
 主が、生きているという何よりの証拠。
 指に伝わる感触に紋章は安堵の息を零し――――ついで、粗布の裏できつく瞳を閉じた。



 探る指の下には、傷がある。
 今日行われた帝国軍との戦いの最中負ったもの。
 主が目覚めぬ原因となったもの。





 ――――主自らが、貫いた痕。





 紋章はその時の様子をよく覚えている。そして思い返しては恐怖する。
 乱戦の最中、敵の攻撃を受け折れた肋骨が宿主の肺を貫いた。
 本来ならば肺と心臓を守るべき鎧が、身を貫く剣と化したのだ。
 心臓は無事だった。
 だが、骨の刺さった肺はその機能を止め、本来全身に送られるべき酸素は皆開いた穴から抜け出ていった。
 息が止まっても、人間はしばらくの間意識を繋ぎ止めておくことが出来る。



 痛かったのだろう。苦しかったのだろう。



 その場で崩れ落ちる体。無意識の内にか、肋骨が折れた方の胸を押さえ、呻き声を上げることもなく、ただ金魚のように口は開閉を繰り返すばかり。
 側にいた幾人かの人間が主を助けようと駆け寄ったが、すぐさま敵に阻まれ足を止める。
 紋章以外に、主を助けることのできる者は居なかった。
 主が倒れ臥した瞬間、とっさに紋章は力を使い肺の穴を塞ごうとした。



 だが……。



 紋章はその時を思い返し、絶望に震える体を抱きしめた。
 瞼の裏に鮮やかに甦るのはその後の主の行動。
 苦しみが長く続くくらいならば、いっそ自らの手で人生に幕を引こうと思ったのか。
 最後の気力を振り絞った主は地に落ちていた誰かの剣を手にすると――――それを一気に自らの首に突き立てた。



 首の後ろまで一気に貫かれた白刃が血を吸い、赤く濡れ輝く。
 引き抜かれることもなく突き刺さったままの剣からしたたり落ちる血が、他の者の血と混ざりあい小さな池を作る。
 真っ赤な池に映る主の顔には、微笑のようなものが映っていた。
 それは、今までの主が今わの際に見せたものと同じ顔。
 それを見た瞬間、紋章の胸を痛みが貫いた。



 あぁ、やはりか、と。



 やはり彼も、これまでの主と同じようにひたすら続く永劫の生に絶望していたのかと。
 今まで背負ってきた大事なものも者もすべて捨ててしまえるほどに疲れ切っていたのかと、紋章は嘆いた。
 それからのことはよく覚えていない。
 気がつけば戦は終わり、皆無事とは言わないまでもたいした損害もなく城へと戻ってこれた。
 城へ戻ってこれた者の中には、主もいた。
 無論戦死者としてではなく、重傷者として、だ。





 結局主の願いは叶わなかった。





 もはや首に巻かれた包帯の下に風穴はない。肺も同様だ。紋章が治した。
 できるならば肋骨も元に戻しておきたかったが、それは紋章の力の範疇を超えていた。
 紋章が居る限り主が死ぬことはない。だが、怪我は別だ。生と死を司るこの力にも、限界はある。
 どれほど紋章が望もうと、主から完全に苦痛の種を取り除くことはできない。
 紋章に出来ることはただ奪い、与える事だけ。
 奪うものは未来と希望と死。
 与えるものは戦乱と絶望と生。
 奪い、与え、そしてまた奪う。
 紋章は、ただそれを延々と繰り返すのみ。
 主のあげる嘆きの声は紋章の力となり、さらなる力を持って主や、主の愛した者達を飲み込み喰らう。
 まるでウロボロスのように、悪しき連鎖は絶えることがない。
 この苦しみの輪が解かれるときが来るとするならば、それはきっと主が死を迎えたときだけなのだろう。
 だがその身に紋章を宿す限り、生の呪いを受け続ける限り、主に死が訪れることはない。
 ウロボロスは己を喰らい続け、同じだけ生み出してゆく。
 奪い、与え、喰らい、産みだし、また奪い、与え、喰らい、産みだし。
 それは永遠に続く負の連鎖。途切れる事なき悲しみの輪。



「ああ――――だけど」



 紋章は胸の上で祈りの形に組み合わせた手を震えさせた。
 だけど、願い叶うならば。



「奪いたく……ない……」



 戦く唇が、吹き込む夜風に溶け消えるほど小さく呟く。
 奪いたくなどなかった。喰らいたくなどなかった。 
 喩えそれが紋章の存在する"意味"であったとしても、主の愛した者達の魂を喰らうなどしたくはなかった。
 紋章は、主が彼らをどれほど愛していたのか知っている。



 ――――紋章は見ていた。



 まだ"主"が"主"となる前から。まだ、ただの少年であった頃から。一つ前の主が出会った頃から。
 ずっと。ずっと、見ていた。
 おとなしい少年だった。思慮深い少年だった。何よりも、情け深い少年だった。



 ――――紋章はずっと見ていた。



 時の流れに心を痛め、長引く生に疲れ果てていた一つ前の主のことをとてもよく気にかけ、その心を癒していった。
 仕事で忙しい父親に代り家を守り続けていた青年のことを慕い、青年も少年を本当の家族として愛していた。
 英雄として名高い父を畏怖しながらも、同時に同じ血が流れていることを誇りにしていた。



 ――――紋章はすべて見ていた。



 心を通わせた親友が、死んでゆく様を何も出来ずただ見ていることしかできなかった。
 親とも兄とも、また友人とも言える従者が主を庇い扉の奥で朽ち果ててゆくことを止められなかった。
 愛し、誇り、焦がれていた父を自分の手にかける事を選ばざるを得なかった。
 主が愛した者達を身に取り込む度、彼らの悲鳴に身が引き裂かれる。



 もっと生きていたかった。もっと慈しみたかった。もっと愛したかった。



 紋章の中、反響する悲鳴はきっと主自身にも届いているのだろう。
 愛した者達を喪う度、主の心は加速度的に壊れてゆく。
 紋章はその姿に、玻璃で出来た花の幻を見る。



 強く気高く咲いていたその花も今は罅いり、このままではわずかな風にも散り消えゆくだろう。
 儚く脆い花を守ろうと身を挺し庇うが、強く抱きしめれば抱きしめるほど花の罅は深くなり花片は欠けてゆく。
 庇う己の体も玻璃で出来ており、欠けた花片に傷つけられる度に砕けて散る。
 砕けた欠片は冷たい刃となって玻璃の花に降り注ぎ、さらに花を傷つけてしまう。
 咲けば罅いり、守れば壊し、庇えば傷つけ、どうすることも出来ない。
 それでも、紋章は花を――――主を守りたかった。
 もてる力をすべて捧げ、あらゆる災厄から主を庇護したかった。





 だから紋章は自分が消えることを選べない。





 己が消えれば、少なくとも永劫の生は解かれ不死の苦しみから逃れることが出来る。
 もう、愛した者達が紋章に喰われる様を見なくてすむ。



 だがそれでは守れない。



 突然襲う事故から。忍び寄る老いの苦しみから。そこに繋がる死の恐怖から主を守れない。
 自分が矛盾していることを言っている自覚はある。
 けれど紋章は主から離れることが出来ない。
 紋章はもうずいぶん前から、己が主に惹かれている事を知っていた。
 永い人との交わりのなか、紋章は自分でも知らぬ間に"心"を持ってしまっていた。
 その心が叫ぶのだ。
 主から離れたくないと。離れれば、きっと先に紋章の方が壊れてしまう、と。
 だから離れられない。だから消えられない。だから主を解放してあげられない。
 浅ましいと思いながらも、それだけは譲れなかった。
 どれほど主を苦しめようと、紋章は主の側を離れることが出来ない。
 結果、主の精神はますますすり切れ朽ちてゆく。



 だったらせめて。



 主の心が守りきれないのなら、せめて肉体だけでも守りたいと願う。
 あらゆる怪我。あらゆる痛み。あらゆる死から、主を守りたい。
 その為なら、自分など裂けてもいい。砕けてもいい。壊れてもいい。
 だから。



「側に置いて……」



 動くことなどない己の心臓を服の上から握りしめ、涙を流すことのない目を伏せ、祈る。



わたしに……あなたを護らせて……」



 ――――この祈りすらもまた、主を刻む刃になると知りながら、紋章は願わずにはいられなかった。

あとがき

中二病作品再び。読みにくいったらありゃしない。
一応前作「玻璃の花=黒=」と対になっていたりして。
イメージ的には、献身的なエゴイストといった感じ。

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