遠雷
≫戻る≪
幼い頃の記憶には、決まって母が傍らにいた。 父の記憶は薄い。思うに、軍務で月に数日もいない事が多かったせいだろう。 だからたまの休日、父が家にいる事の方が異様な事に思えて、珍しく遊んでやろうかと手を差し出されても、脅えて母の陰に隠れるばかりだった。 そんな自分を見て、父も母も、グレミオ達もみな一様に困ったように笑っていたのを憶えている。 あの頃の自分は、笑えるほど母が中心だった。 ――――あれは確か麦秋の頃だ。 「かあさま」 よく回らぬ舌で呼べば、母は決まって微笑みかけてくれた。 初夏にしてはきつい日差しの下、白い日傘を差した母の姿を、幼心に睡蓮の花のようだと感じた。 国の華とまで謳われた母は、子を一人生んだとは思えぬほど清らかで美しかった。 しかし、その姿は同時に儚さをも孕むものだった。 生まれた時から太陽の元を遊ぶ事も出来ず、結婚してから初めて街を出たという母。 実際、親戚の集まりなどで良くぞこの体で子が産めたものだと話していたのを聞いた事は何度もあるし、一日たりとて家に医者の来ない日はなかった。 母の部屋はいつも薬の匂いで満たされており、医者が帰ったあと部屋を訪ねると決まって寝台に体を横たえたまま、遊べなくてごめんなさいねと申し訳無さそうに言う。 母が悪いわけではない。ただ、母の体に巣食う病魔が悪いのだ。 なのに、どうして母は自分が悪いかのように責めるのだろう。 唯一そこだけが、母を嫌いな点だった。 だから初めて母と散歩に出かけられたとき、嬉しくてはしゃぎすぎた。 共にグレミオ一人連れて、街の外へ出る。 あるかなしかのそよ風に逆らいながら、草原を走り回り、遅れる母をせっつく。 たしなめるグレミオの隣で、母は嬉しそうに笑っていた。 けれど、母の歩む足は速度を上げず、焦れた自分はついに文句を言いながら引き返した。 その足に、小石が引っかかる。 たちまちに転んだ自分を、いつものように慌てた従者が抱き起こそうとする。 それを阻んだのは、母だった。 「立ちなさい。シグレ」 いつもならば優しいその声が、厳しく名を呼ぶ。 顔だけ起こした状態で、眉を引き締めた母の顔を、涙でぼやける目で見つめる。 いったいどうしたのかと思った。 母ならば。いつもの母ならばきっと抱き起こしてくれると思っていた。 しかし、母の手は日傘の柄をしっかり握ったままだった。 そのうち痛みと母の思いがけぬ厳しさに眼が潤む。 零れ掛けた涙を止めたのは、始めて聞く母の叱責だった。 「立ちなさい、シグレ。自分の足で、ちゃんとお立ちなさい」 言葉の裏に甘えを一切排除する強い意志を感じ取って、潤む眼はそのままにゆっくり立ち上がる。 はんば呆然としていた自分の汚れた膝を、いつもの笑顔の母が優しく払ってくれた。 「かあ……さま……」 「偉いわ、シグレ。一人で立てたわね」 急に変わった母の表情に手を出しかねていた従者共々呆然としていた自分は、無意識のうちにこくりと頷く。 汚れた顔をハンカチで拭いながら、母は歌うように言った。 「あのね、シグレ。少しだけお母様の話を聞いて」 自分はもう一度頷く。その頭を母は愛しげに撫でてくれた。 「シグレ、人はいつか、一人で立ち上がらなければならない日がくるわ。その時あなたは、今日のように一人で立派に立てる人になりなさい」 「ひとり?かあさまは。グレミオや、とおさまはいないの」 「ええ、いないの。シグレ、あなた一人だけ」 それは、当時の自分にしてみれば死刑宣告にも似ていた。 幼い頃の自分は、母が大地であり、その存在に支えられやっと立っている状態だった。 その支えから、いつかとはいえ消える日が来るといわれたのだ。 自分は泣きながら母のか細い腕を取り、懇願した。 「いや!そんなのいやだ!かあさまは、ずっといっしょじゃなきゃやだよ!グレミオも、とおさまも、ずっと、ずっといっしょにいるの!」 目の端に同じ様に泣きかけているグレミオがただオロオロしているのが見えたが、そんなものはお構い無しだった。 わあわあみっともない位泣き喚く自分に、母は根気よく言い含めた。 「聞いて。シグレ、お母様の話は小さなあなたにはとてもとても酷な事でしょう。けれどもね、これは本当のことなの。いつかお母様たちは見えなくなる。消えて無くなるわけじゃないわ。けれど、そばにいてあげる事が出来なくなる。その時、あなたは一人で立ち上がれる人間になって欲しいの。誇り高い帝国軍人であるお父様のように」 「とうさま……?」 母の話を聞き始めてから、初めて脳の中を絶望以外が過ぎった。 浮かんだのは、城へ上がる朝の父の後姿だ。 将軍の鎧と外套を身にまとうその姿には、帝国軍人としての誇りがありありと映し出されていた。 威風堂々たる父の双肩には、帝國の秩序と威厳が重く圧し掛かっている。 しかし、それに屈することなく城へと参じる様はシグレの心にずしりと重い、それでいて手放すわけには行かない何かを抱かせた。 それを「誇り」と呼ぶことを、シグレはつい最近母に教わったばかりだ。 「あなたにはあの気高いお父様の血が流れているの。シグレ、覚えておきなさい。あなたは、常勝の将軍テオの息子。その事実が、やがて血となり肉となり、あなたを支えることになる。――――強くおなりなさい、シグレ。強く……そして、優しい人になりなさい」 強く言い含める声が、やがて優しい、いつもの自分が知っている母の声に戻る。 正直、その時自分は母の言うことの十分の一も理解できていなかった。 強く――――父のように強く。 そうすれば、母を守ることができるだろうか。 強くなれば、母を、自分の大事なものを苦しめる数多から、守り抜くことができるだろうか。 それは分からない。分からないけれど――――。 「――――なるよ。かあさま、ぼくつよくなる」 決意もあらわに断言すれば、母は少し驚いたように目を見開いた後、自分の体を優しく抱きしめてくれた。 ――――強くなろう。父のように、気高く、誇り高く。 ――――優しくなろう。母のように。慈しみ深く。情け深く。 そしていつか、この腕に抱くものすべてを守りきれるほどに――――。 抱きしめ返した母の驚くほどにか細く、壊れやすそうな体に、決意は再度強く固まった。 それからわずか数ヶ月の後。母は雪を見ることなく――――この世を去った。 葬送の日。空は、母の死を悼むかのように涙を流し続けていた。 途切れることなく墓地に流れ続ける嗚咽。そこに、父の姿は無い。 数日前から軍務についていた父は、はるか遠方の地にいた。知らせは届けたが、帰ってくるのはもっと先の話になるという。 その場にいた誰もが、母の早すぎる死に嘆き悲しみ、運命の理不尽さに憤っていた。 自分は、グレミオの腕に抱かれたままただ無感情に母の眠る棺を見つめていた。 あまりに幼な過ぎた自分は、母の死を正しく理解していなかった。 なぜ母はあんな狭い場所で寝ているのだろう。こんな寒いところで寝ては、風邪を引いてしまうではないか。 どうしてみんな、母を起こさないのだろう。 いっそ自分が眠ったままの母のもとへ行き、おはようと起こしてあげたかったが、腹に食い込むグレミオの腕がそれを阻む。 ――――やがて静かに永遠の別離はやってきた。 母の眠る棺が、土中深くへ降ろされ見えなくなる。 シャベルを手にした男達が、冷たく濡れた土を棺に被せてゆく。 「……やめて」 何をしているんだ、彼らは。 どうして母をそんな暗く淋しい場所に置いてきぼりにしようとする。 「やめて。ねえ、うめちゃったら、かあさまがくるしがるよ。やめて……やめて……やめてっ!」 慌てて止めに入ろうとするが、グレミオがそれを許さない。 「はなして!グレミオ、はなしてぇ!」 暴れる自分をしっかり抱きしめ、グレミオが耳元で悲痛に叫ぶ。 「坊ちゃん!奥様は……お母様はもうお亡くなりになったんです!もういらっしゃらないんです!」 「いやだ!いやだ!いやだぁっ!!」 大人たちは冷たい土を次々棺に被せ、母を隠そうとする。 いるじゃないか。ちゃんと母はそこにいる。 きっと今は眠っているだけだ。自分がおはようといえば、きっといつものように笑っておはようと返してくれるはずだ。 なのに……。 「かあ……さま……」 こんなに叫んでいるのに、母は目覚めない。 笑ってくれない。怒ってもくれない。……もうここにいない。 次第に激しくなる、参列者の嗚咽と雨足。 あの日、初夏の強い日差しの中で見た母の面影が頭をよぎる。 ――――強くおなりなさい。強く……そして優しい人になりなさい。 「かあ、さま……」 もうここには母はいない。残っているのは、母の願いだけ。 遠く響くは鳴神の咆哮。 荒ぶる神は思い残せし魂を導く。 ――――幼かったあの日。強くかみ締めた唇に、初めて血の苦さを知った。 |
あとがき
……絵にしろ小説にしろ、真夜中に書いたものってどうしてこんなにもイタイんでしょうね。
そんな訳で過去模造。坊ちゃんは母親似だったらいいなぁと思います。
BGMはDAIの同名曲。
私的グレ坊またはテド坊ソングです。
≫戻る≪