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       あなたに花を捧げよう。 
この世でもっとも美しい。 
この世でもっとも赤い花。 
あなたに道を捧げよう。 
この世でもっとも安全で。 
この世でもっとも呪われた道。 
あなたに私を捧げよう。 
この世でもっとも忠実で。 
この世でもっとも不実な私。 
どうぞ私をお使いなさい。 
私は道具。あなたの道具。 
全てはあなたが望むまま。 
全てはあなたが欲するまま。 
――――あなたに花を捧げよう。 
この世でもっとも美しい。 
この世でもっとも血塗れた華を……。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
波紋が湖面に映った月を打ち消してゆく。 
風に乗った雲が、時折月明かりをさえぎってゆく。 
波紋は広い湖を覆うことなく、ただ進むシグレの周りを、後を追う。 
進むたび、体は湖に沈んでゆく。 
まとわり付く水を、冷たいとは思わなかった。 
「どうかしましたか、我が主」 
胸ほどまで浸かった頃、頭の上からからかいを交えた声が降って来た。 
しかしシグレは声の方に目を向けない。 
視線はずっと、消えてゆく波紋を追っている。 
波紋の先には黒い布に包まれた足があった。 
足は水面に触れるか触れないかの手前で静止している。 
人のなせる業ではない。 
「人の身は弱い。脆い。こんな所にいると風邪を引く」 
ああ、それとも。とさらに声は弾んで。 
「もう汝は人間(ひと)じゃァ無かったか」 
「――――っ!!」 
水の中にだらりと力なく沈んでいた手は水音を上げ目の前の足を掴む。 
上げた眼は、ありありと怒りの色を浮かばせていた。 
「やっとこっちを見た」 
薄い唇を哂いと言う形に捻じ曲げて、さらに楽しげな声を出す。 
「何時までも無視されてたんじゃア……ねぇ?」 
ワタシってば、サミシガリヤだから。 
口元を袖で隠し、人ならざる物は実に人間くさく笑った。 
「ねぇ、何をするつもりだった?」 
おそらく激昂が飛び出すであったろうシグレの唇を指で塞ぎ、目の前まで視線を合わせる。 
水に触れているはずなのに、衣は少しも濡れた様子がない。 
「まさか入水自殺?」 
無駄無駄と、シグレの頬に手を添え、かれは首を振る。 
「ワタシがいる限り汝の命が果てる事はない」 
「知っているさ」 
シグレが始めて口を効いた。 
そのまま頬にやられた手をそっと剥がし、 
「分ってる」 
「あぁ、そう。じゃあこんな夜更けに水浴びなんてしてたのは……」 
何かに気づいたように、衣に隠れた手が、水に濡れそぼつシグレの服をなぞる。 
「この色を取りたかったのかい」 
赤の中に紅がある。 
服の色とは違う、何処か異質で何処か暗い色。 
「思い出せないでしょう。誰がこの汚れをつけたか」 
当然だ、とフードから覗く眼がそう言っていた。 
「殺した人間の数なんざ憶えてらンないからね」 
「っ、まえがァ!!」 
闇夜に怒声が響いた。震える手が胸倉を掴む。 
いつも冷静な紫紺の瞳が、この時ばかりは怒りのせいでギラギラと輝いた。 
「お前が、お前が殺ったんじゃないか!その鎌で、その力で幾人もの人の命を奪った!」 
「そう」 
かれが首元をつかんでいた手をそっと取る。 
「この手は幾人もの人の命を奪った」 
「違う。僕の手じゃない。お前の――――!」 
「どちらでも同じ事」 
空が雲に隠れた。 
あたりに訪れる漆黒。 
己の姿すらも確認できぬ闇の中、合わされた手がまだ相手の存在を証明している。 
やがて荒く吹く風に雲は吹き飛ばされ、闇はほどけた。 
再び月が湖面を照らす。 
シグレの目の前にいたのは――――シグレだった。 
はじめは湖に映った自分の姿かと思った。 
けれど違う。 
その手は確かにシグレ自身の手と合わさっている。 
「我は汝。汝は我」 
その唇から出た言葉は、シグレと同じ、けれど何処か違う響きをもって、二人の間の大気を揺らした。 
「全ては汝が望んだ事」 
「違う」 
「汝が望むならば我は幾人でも喰らおう」 
この手で……。 
合わせた手と手、指と指を絡ませる。 
「さァ、次は誰がいい?」 
もう一人のシグレが愉快気に笑う。 
「親友もやった。従者もやった。そう……あとはもう誰がいる?」 
「止めろ……」 
「気のいい大喰らいにしようか。姉代わりのあの従者にしようか」 
「止めろ……」 
「軍師殿にしようか。それとも可愛らしい忍の少女にしようか」 
「止めろ……」 
「あぁ、あの冷血漢な風使いもいい。冷たい人間の血は色が違うと言うから、ハラワタを裂けばどんな色が飛び出すか楽しみだ……」 
「――――止めろッ!!」 
自分の口から残虐な言葉を聞きたくなくて、シグレは唯一自由な片手で耳を塞いだ。 
「止めろ……。もう……止めてくれ……っ!」 
「どうして」 
「お前が僕の望んだとおりにしてくれると言うのなら頼む。もうこれ以上人を傷つけないでくれ……ッ!」 
「それは、ダメ」 
弱弱しいが必死の懇願を、けれどかれは無情に却下した。 
「それは汝が望んだ事ではないから」 
開いている片方の耳へ、かれは優しく囁きかける。 
「朽ちた屍の上に出来た道を汝は進む。その先にある、英雄と言う玉座に座るために。そして浴びる血を吸い汝は咲く。この世で最も美しく、この世でもっとも醜い華として……」 
合わされていない片方の手がシグレの頬を撫でる。 
頬が赤く濡れた。 
「そんなものいらない!」 
叫んだシグレは両手を払いのけようとした。 
けれど、ゆるく合わされているだけなはずの片手だけ、なぜか剥がれない。 
溢れる涙に、頬を赤く染めていたものが流れてゆく。 
「僕は……そんな事望んじゃいないのに……」 
「それは気がついていないだけ」 
もう一人のシグレは項垂れるシグレを見て、穏やかに微笑んだ。 
「でも、そう思いたいならば今はそれでいい。けれど」 
忘れるな――――と、声は突如として若々しい少年の声でなく、息苦しいまでに重々しい響きを持った。 
「我は道具。汝の道具。汝が望み果たすためならば、いかようの犠牲も厭わん」 
囚われたかのように、シグレの体は動かない。 
天を仰ぎ、見開かれた眼に映るのは銀を纏う月と――――嗤う自身。 
「咲け。狂い咲け。全てに絶望し、一滴の涙すら枯れ果て立ちすくむその時。汝はこの世で最も美しい華となる」 
首に回された手を振り払えない。 
顔が近づく。 
視界が歪む。 
囁かれる吐息は、絶望的なまでにぬくもりが無かった。 
「その瞬間まで、ワタシは汝のために道を作ろう。人の死体で作られた王の道。この手で。この力で。――――この鎌で」 
――――唇が重なり合うのと刃が首に食い込むのと……どちらが早かったろう? 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
「シグレ!」 
叫ぶように名を呼ばれ、シグレははっと我に返った。 
体が胸から下半分、生温い水の中に浸かっている。 
周りを見渡せばそこは薄暗い森の中で……月を覆っていた雲がちょうど離れてゆく所だった。 
「なにボケてんだ、お前!」 
「フリック……」 
バシャバシャと湖面を荒立たせ、近づいたフリックは乱暴にシグレの腕を取った。 
「こんな夜更けにいなくなったかと思えば、のん気に水浴びか?馬鹿野郎!いつ敵が襲ってくるかわかんねェのに、のー天気な奴だな!また今度こんなことしたら、城の二階から宙吊りにするぞ!!」 
呆けるシグレにひとしきり怒声を浴びせると、フリックはそのまま湖岸へと向いだした。 
(……夢か) 
夢。でなければ幻覚。 
そうでしかありえない事。 
浮かんでは消えてゆく波紋を見つめながら、シグレは思う。 
だったらどうして……。 
フリックに捕らわれた右手から、ぽたりと赤い滴が落ちる。 
水の中で波紋に遊ばれ、広がり、溶けてゆく様はまるで――――まるで華が咲いたようだった。
      
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