遣らずの雨
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ばたばたと、水音が硬いものを叩く音で龍斗は目が覚めた。 目覚めたといっても春泥の如き生温い夢の沼からいまだ意識は完全に掬い上がらず、ただ目ばかりが動きを再開しただけ。潤いの足らぬ瞳にぼんやり写ったのはしみの浮いた天井。 ついでひくつく鼻が拾ったのは埃と皮脂の臭い。虱のたかっていないのが不思議なほど朽ちた煎餅蒲団は布団と言うより一枚の薄衣のようで、床に寝ているのと大差はない。記憶の飛ぶ少し前まで散々暴れたせいか、仰臥した体の各所がぎしぎしと痛む。 痛みが意識の覚醒を促した。 どこか遠かった水音が鮮明さを増す。 出所を探ろうと音の聞こえる方へ目を向ければ、見慣れた――――しかし常ならばいるはずのない後ろ姿に、最後、頭が覚醒した。 こちらに背を向け、おぼろに明らむ格子戸の向こうをじっと見つめる僧形の男。 ――――九桐。 名を呼ぼうとするが、できなかった。渇いた喉に言葉が引っかかり、声は咳に変わる。 目覚めたばかりの肺腑は呼吸の仕方まで睡りの中に置き忘れてしまったようで、咳を抑える事ままならない。 何度か体をくの字に曲げ咳いていると、痙攣の隙間を見計らって横から椀を差し出された。 縁の欠けた椀から生じる酒の香りが気付けとなり、喉の震えを抑える。 差し出される椀を手に取ろうと片肘ついた拍子に体から上掛けが滑り落ち、湿った、冷たい空気に肌を舐められ、龍斗は己が一糸纏わぬ裸身であることを思い出した。 酒などより、こちらの方が絶大に効果があった。 半醒半睡から一気に目覚めた龍斗は跳ね起きるとたちまちのうちに全身を朱で染め上げ、九桐から身を隠そうと上掛けを引っ張り上げる。 その有様を見てもう大丈夫だと思ったか、それとも大の男が生娘のごとき応えをした事に呆れたか椀を枕元におき、九桐自身は再び格子窓のそばへ。 龍斗は九桐の目が離れた事に安堵し、同時に薄い反応に不満を覚えつつ、置いていった酒に手を延ばす。 ぐい呑みの底、蛇の目が見えるほど透き通ったそれは香りこそすれ薄めている為味はほとんどなく、しかし今はそれがかえってありがたい。啜れば、荒れた喉に引っかかることなくするりと入りこみ、舌の根が潤うのにほぅっと法悦の吐息。 乾いた唇と腹が湿り気を帯びる頃、龍斗はようやく人心地ついた。 まだ体、特に腰から下には気怠い余韻が残っているもののそれを楽しむ余裕はなく、龍斗は布団の周囲に散らかされた着物をのそのそと着込む。ながら、龍斗は九桐の方を打見した。 九桐は相変わらず格子の向こうを見やったまま、それこそ忘我の境。地蔵のように動かない。 どれほど時が経ったか知らぬが、枕を交わしていたとはいえ敵であるはずの龍斗に背を見せたままなど今この瞬間打ち倒されても、それこそ幽鬼にでもならねば文句は言えまい。 よほど、強襲されても返り討ちにできる自信があるのか、それとも龍斗ならばけして手を出さぬという信頼の現れか。 もとより泰然自若、蒼穹を行く雲のごとく捕らえどころのない男である。 さっぱり考えの読めぬ情人の後ろ姿に漏れ出しそうな溜息は、懐から取り出した煙管の中に消えていった。 ――――いったいいつから、そしてどのようなきっかけで九桐と情を交わすようになったか龍斗は覚えていない。 幕府転覆を狙う鬼道衆である九桐と、公儀隠密である龍斗は相容れぬ敵同士。 互いの肌に触れあうようなことがあったとしても、それは殺意を込めた拳を交わす時ぐらいであり、けして欲を孕んだ愛撫などではなかったはずだ。 それがなぜこのような――――人目はばかり朽ちかけた御堂の中、互いの肉を貪るような関係になったのか。 戦い終わった体の火照りを別の形で鎮めあったがはじめか。 それとも、酒の上での過ちがはじめか。 きっかけがあやふやなら、終わりもまた曖昧で。八卦見でもない龍斗にはこの先のことなどまったく判らない。願わくば、血生臭い結末だけは迎えたくないものと思う。 九桐も同じであろうか。 問いかけを視線に込めるも九桐は答えない。 いつものことだ。特に落胆は覚えることもなく、龍斗は視線を外す。 二人で逢う時の九桐は普段の豪放磊落さを家に置いてくると見えめっきり大人しい。 いや、互いに持ち寄った酒を酌み交わす時こそ多少は話弾ませるも、じき空気は情欲を孕み、言葉を奪う。 もとより龍斗もしゃべりの達者な方ではない。 湿り気を帯びた温い、重い空気に押されるように二人、床に入ればもはや言葉などあってないようなもの。 息をするのも惜しむほど口を吸い、境目を失うほど肌を合わせ、獣のごとく交わりあう。 軍場と同じか、いやそれよりも激しく生まれる熱に蕩ける理性の抑制。名を呼ばれる、ただそれだけで燃え上がる炎がうねりを高くし身の裡にあるもの――名を冠するならば仲間達への背徳感だとか――を攫う。 本来ならば男の欲を受け入れるに適さぬ体。肉の交わりは龍斗に獄卒に責め苛まれるような苦痛をもたらすが、それさえもやがて悦楽へと代り、弾け、さらに陶酔の高みへと龍斗を導く。 体の奥に命結ばぬ精を受ける頃には、息も絶え絶え。そのまま眠りに落ちることも珍しくはない。 互いの身に通うのは情欲のみ。 これが世に言う恋仲などであれば最中睦言の一つもかけるだろうが、あいにくこれまでそんなもの掛けたこともまた掛けられたこともない。 今こうして同じ空気を吸い、手が届く距離にいるのが夢現ではないかと疑っている程なのに……。 雨音は相変わらず御堂を叩き壊さんばかりに振り落ちる。 まるで水でできた花火がそこらこちらで炸裂しているかのような有様。 天から降る水の飛礫にあちこちから御堂の悲鳴が聞こえる。 格子窓から見える外は紗をかけたように薄白く、かろうじて今が日中である事を物語っていた。 常ならば、こんなに明るくなるまで九桐はそばにいたりしない。 龍斗が目覚めるその前に、もう身支度を済まし消えているはずだ。 いかに旅慣れた九桐でも、こんな暴雨に身を晒すは躊躇うと見える。 視界の中で九桐の肩が揺れた。 龍斗はともすればすぐ九桐の背中を追う目線を無理矢理床の木目に戻す。 目が、まるで聞き分けのない幼子になったかのように自分の意志を無視し勝手に九桐に向くのを止めきれない。 ちろり、と。渇いた唇を舐めた舌は思った以上に濡れて、熱い。 散々体を痛めつけた後だというのに、いまだきしむ体をもてあましているというのに、九桐がそばにいると言うだけで空気に不穏な色がつき、入り込んだ龍斗の肺腑から血と共に全身を巡り、今ひとたび熱を生まんと欲をくすぐり、ひっかき、弄ぶ。 女の肉を知らぬ龍斗にとって、九桐との関係は糖蜜にも勝る、甘やかに身を蝕む毒も同義であった。 毒も毒。体だけでなく精神までも犯す、いずれは死に至るであろう猛毒だ。 かの大江山の鬼に振る舞われた毒酒もこのような甘露であったろうかと、益体も無い想像を巡らせるほどに危うく、それでいて求めるを止められぬ。 毒が血に代り龍斗を動かす。 床の上を躙りながら、手が九桐へと向かう。 が、それを見越したかのように再び九桐の肩が揺れた。龍斗はとっさに手を引く。 九桐、と呼びかけは初めと同じく言葉にはならなかった。 膝立ちした九桐は、格子に近づくと天を仰ぐ。 九桐の両の足にはすでに草鞋が結びつけられていた。 「止みそうだな」 天を仰いだまま、九桐。 たしかに、雨音は初めの頃より弱く聞こえるがそれでもまだ変わらず御堂の外、視界を遮り、叩き続けている。 いまだ雨雲の去る様子はない。 「まだ、強い」 こちらは九桐の背を見つめたまま、龍斗。 視線と言葉で留めようとするも、九桐は少しも意に介さず戸に手を掛ける。 「走って帰る間に止むさ」 「この時期の雨は重い。濡れて 「乳母日傘で育てられた子供じゃあるまいに。それほど繊細な質じゃない」 引き留める龍斗の憂いを九桐は鼻で笑って立ち上がる。 もとよりそれほど言葉巧みでない龍斗、誘いの言葉に窮し、話の接ぎ穂を失った。 これがあの隻眼の天狗ならば、もっと上手く九桐の腰を落ち着かせる事ができただろう。 先ほどまでの会話を省みれば、縋る我が身があまりに未練で無様で、伸ばしかけた手はそれっきり。再び布団の中へと逆戻る。 下唇と一緒に噛みしめた苦みの正体は悔しさか、無力感か。 見つめる龍斗のその前で、御堂の戸はとうとう開かれた。 開いた格子戸から雨に冷やされた空気と濡れた土の匂いとが混じり合い入り込み、淀んだ御堂の中の空気を洗う。 先ほどまで漂っていた夢の残骸は、これで綺麗さっぱり払われた。 肌寒さに小さく震える龍斗に向かって、九桐は振り向いた。 その面に、どこか労るような笑みを浮かべて、 「じゃあ、またな」 短い言葉を置き去りに雨の紗の向こうへと飛び出してゆく、九桐の背中。 数度、きしむ音をたて戸が再び元の位置に納まる。 もはや御堂の中を満たすは控えめになった雨音と、薄い酒の香りと、龍斗の鼓動、ただそれのみ。 匂いさえ引き残さず、九桐は消えた。 一人置き去られた形の龍斗は、先ほどの笑みを脳裏で反芻し、反響させる。 はたして九桐の言う「また」とは、鬼道衆としてか、それとも龍斗の情人としてか。 こんな曖昧でどうとでもとれる言葉を掛けるなど、破戒僧の分際で禅問答でもあるまいに。 だがどちらの意味で誘われたにしろ、龍斗はけして断れない。 前者ならば江戸の人々を守る公儀隠密として、後者ならば自分でも抑えきれぬ情炎を持て余す一人の男として、九桐の誘いを蹴ることのできぬ自分がいる。 意志薄弱は生来のものとはいえ、九桐の気分、さじ加減一つでこうも右往左往どうにも情けなくて、やるせない。 さながら釈迦の掌上で遊び遊ばれる斉天大聖の心持ちか。 反面、二人の間に生まれた縁を断ち切ることなくまた次に繋げた事に安堵しているのだからどうにも救えない。 龍斗は自嘲しようとしたが、しかしやめた。 代わりに溢れたのは小さな欠伸。 九桐がそばにいる間中、知らず張っていた心情の糸がたわめば、途端体を襲う眠気の渦。 もとより抗う気などさらさらない龍斗、薄い布団を頭からひっかむれば、僅かに残っていた九桐の残り香に知らず頬が緩む。 雨音も足音ももはや遠くなりつつある。 龍斗は体の奥の残り火を守るように己が体を抱きしめ、そのままゆるゆると睡魔の掌へと落ちていった。 |
あとがき
べた惚れ龍斗。
惚れたが負け。しかし自覚はないという。
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