カミヒトエ
=…少しばかり、優しすぎる=

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 人はそれを優しさと呼び、彼はそれを臆病さと呼んだ。








 時は昼休み。
 騒々しくも活気あふれる生徒達の声が内から外から響いてくる、そんな時間帯。
 いつものようによれた白衣を引っかけ、ついでに起き抜けのごとく覇気のない面もぶら下げ、犬神は保健室の扉を開いた。
 わざと音を立てるように乱暴に開いた扉の向こうには、ここ最近よく見かける顔が薬棚に手をかけた状態で固まっていた。
 うっとうしいほど長く伸ばされた前髪の隙間から覗く目が、珍しく感情をあらわにしている。



「いぬ……がみ、センセ……ェ」
「こんなところで何してるんだ、緋勇」



 驚きからか呆然とした口調で名を呼ぶ緋勇に向かって、何気ない風を装い犬神は声を掛ける。
 緋勇は一言二言声にならない母音を零し、ぎくしゃくと薬棚から手を下ろした。
 袖の隙間からシャツとは違う白い物が覗いていたことを、犬神は見逃さなかった。


「勝手に薬品を使うことは校則で禁止されているはずだが」
 さらに声をかけると、視線をそらせたままぼそぼそと口の中で言い訳じみたものを呟き、緋勇は足早に犬神の元へ――――正確には出口へと向かう。
 間近までやってきたとき、犬神はドアの前から体を引いた。その横を、うつむいたままの緋勇が通り過ぎようとする。
 だが脇を通り抜ける一瞬、犬神は無造作に緋勇の脇腹を小突いた。



 ――――瞬間、緋勇は壊れた笛のようなうめきを零し、その場にうずくまった。



 見下ろす、黒い学ランに包まれた比較的しっかりした背中が脅えた小動物のようにぶるぶる震えている。
 犬神は眼鏡の奥の瞳を胡乱げに細めた。
「蓬莱寺達はどうか知らないが、教師の目はごまかせないぞ、緋勇」
 頭を垂れてうずくまったままの生徒の脇に手を入れ立たせてやりながら、一言。



「お前、怪我をしているだろう」



 指摘した緋勇の両目には、痛みのためか、じんわりと水の膜が張られていた。












 あんまり白いとも言えない背中というキャンバスには、見事なまでの斑模様が描かれていた。
 擦り傷の赤。打ち身の青。痣の紫。乾いた血の黒。かさぶたの茶。
 背中一面、鮮やかにデコレーションされた様は、まるで子供の落書きのようだ。
 犬神は解いた包帯を手に、呆れのため息をついた。
 拍子に、丸イスに腰掛けさせた緋勇の背中が震え、縮こまる。
「どうしたんだ。喧嘩でもしたか」
「……転びました」
 小さくなった背中に向かって問いかければ、ぼそぼそとまた聞き取りづらい声で緋勇は答えた。



 ……ずいぶんオリジナリティも面白みもない言い訳をほざく。



 立ち上がった犬神は見下ろした背中に向かい、鼻を鳴らした。そして、そのまま何も返さず薬棚に向かう。
「病院には行ったのか」
 背中越しの問いに対し、緋勇の答えは即座の頷きだった。
 そこでまた犬神は眉を寄せる。
 ……早すぎる。不自然なほどに、答えるのが早すぎる。おそらく、あらかじめ答えを用意しておいたのだろう。
 そんなことをせずとも、病院に行っていないことは雑に巻かれた包帯からすぐに分かる。
 このぼんくら教師なら簡単に騙せると見くびっているのか、あるいはそんなことにも気が回らぬほど動揺しているのか……。
 おそらく、正解は後者。
 なにせ、薬棚の硝子越しに見る今の緋勇に、校内で見かけるような沈着冷静さはない。
 あるのは年相応の――――いや、それよりももっと幼い、まるで迷子の子供のような心許なげな空気だけだった。











 ――――緋勇が怪我を負った訳を、犬神は知っていた。



 犬神は"護人"として緋勇達の戦いをあらかた見てきた。
 ずっと、なにもかもすべて、ではない。
 見ていたのはここ数ヶ月の間。それも、彼らが旧校舎に侵入してきたときだけだったが、彼らの動向を知るには十分だった。
 犬神は彼らが旧校舎に潜り続けることを止めなかった。
 いや、潜りだした当初こそ他の"侵入者"の二の舞になっては面倒だと出入りを止めることも考えたが、止めたところで聞く連中ではないことはよく分かっていた。
 なにより、龍脈の影響を受け魔人としての力に目覚めた彼らが、そうたやすく斃される事はないだろうと高を括っていたところもある。



 そう――――彼らは魔人だ。



 人を超えた力を持った、人間。
 彼らが得た力は強力なものだった。
 常人には余るほどの力を日々の戦いの中で己が物へとしてゆく彼らを見続けてゆく内、犬神はあることに気がつく。
 それは、今後ろで縮こまっている彼らの中心人物、緋勇龍麻についてのことだった。









 緋勇はいつも、率先して戦いの中心へとその身を投じる。
 どれほどの数。どれほどの強敵。どれほどの悪条件でも、それは変わらない。
 敵の姿を見るや疾風のごとく挺身し、鍛えられた拳と技で瞬時に相手を斃す。
 その素早さと雄々しさは正く雷神。
 常に前へ前へと突き進む姿に発憤し、仲間達もまた戦いへと身を投じそして勝利してゆく。
 戦い終わる度に仲間達は彼の勇猛さを讃えた。
 緋勇も、仲間達の声に淡々と賞賛を返す。
 確かに緋勇は強い。一体たりとて見逃さずに殲滅する姿には闇の眷属に通じる非情さすら漂っている。
 しかし犬神はそんな緋勇の姿に違和を感じていた。
 味方を勝利へと導く冷厳なる軍神。
 だが、敵陣へと乗り込むその雄々しい姿には――――なぜか常に焦燥がつきまとっているような気がした。



 犬神は、敵に打ち込む緋勇の拳が震えているのを何度も見た。
 無謀にも敵の群れへと突っ込む仲間に気を取られ、自分が攻撃を受け窮地に立たされる様も見た。
 敵の猛攻で仲間が傷つくたび、まるで己が心臓を掴み出されるかのような恐怖の色で瞳が翳ろうのも見た。
 そんな姿を見続けている内に、犬神は気がついた。
 気が遠くなるほど長い年月、人の世を歩み人を見続けていた犬神だから気がついたこと。



 ――――緋勇龍麻という少年は、戦うことを恐れている。











「何か妙なことにでも巻き込まれたか」
 目当ての薬を手に、振り向きざま問う。だが、犬神の質問に答えは返ってこない。
 俯き、沈黙したままの緋勇の姿に犬神は小さく肩をすくめた。
「まぁ、話したくないなら別にいいが」
 イスへと戻った犬神はそう緋勇の背中に声をかけながら薬を開く。
 痣だらけの背中はやはり何も答えない。
「教師に言いづらいなら、友人に相談してみるのも手だぞ」
「出来ません」



 ――――即座の。そして鋭い答えだった。



 断ち切るかのような答えに、犬神は薬を手にしたまま眼鏡の奥の瞳を眇めた。
 見つめる背中からは、焦燥とは違う何か張り詰めたようなものがにじみ出ていた。
「これは、俺の問題ですから。他の人は関係ありません」
 感情の籠もらない声で紡がれた言葉は、聞きようによってはずいぶんと冷たい台詞のように思えた。
 身を案じる仲間達さえ必要とあらば切り捨ててしまいそうな、そんな冷酷な言葉。
 だが、犬神は緋勇の言葉を額面通り信じることなど出来なかった。
 盗み見た膝の上で、握りしめられた緋勇の拳が痛みを堪えるかのように震えている。
 犬神は言葉の裏に隠された真意をおぼろげながら感じ取っていた。
 昔――――永き時を生きる犬神にとってそう古い話ではないが、しかし人の世が移ろうには十分すぎるほど昔。
 人の世に絶望し無為に生きていたあの頃。




 緋勇によく似た面差しの――――やはり傷を隠すことに長けた男が居たのを思い出した。




 強い男だった。静かな男だった。何より無口な男だった。
 常に周囲とは薄い壁一枚隔て接しながら、それを周囲に悟らせない"つもりでいるような"、そんな男だった。
 特別親しくしていたわけではなかったが、たまに居酒屋で顔を合わせると言い交わしたわけでもないのに同じ席に着くことが多かった。
 あるとき、男はぽつんとこんなことを言った。




 "自分はどうしようもない臆病者だ"と……。




 人が傷つくのが怖い。人を傷つけるのが怖い。
 誰かが傷つき倒れる様を見るのが、逃げ出したいほどに恐ろしい。
 誰かが心痛め涙する様を見るのが、心臓をえぐられるほどに苦しい。
 だから自分は前に出る。
 誰かが傷つくぐらいなら、己が盾となってすべてを受け止めよう。
 勇猛なのではない。
 誰かが傷つく様を見て、自分の心が痛むぐらいならば自分の体が壊れた方がまだマシだ。
 誰かの体が斃れるのも、誰かの胸が痛むのも見たくはない。




 そんな自分は、臆病で卑怯で、そして贅沢なのだろうと男は嗤った。




 あの時は酔っぱらいの戯れ言と聞き流したつもりだったが、百年近くたった今でも思い返せるなど、存外強く胸に残っていたらしい。
 その男と、今の緋勇が重なって映る。
 男は己のことを臆病だと言い、嘲笑った。犬神から見ても、男は紛れもなく臆病者だった。
 だが、その臆病さの裏には優しさがあった。
 真実臆病なだけならば、とっくにすべてを見捨てて逃げ去っていたことだろう。



 しかし男は最後までそれをしなかった。



 最後まで仲間達を庇い、戦い、傷つき、それでも逃げずに戦い抜いた。
 緋勇とてそうだ。
 本当に、先ほどの言葉同様冷たい人間ならば、こうまで傷つかない。
 この傷は仲間を庇い、戦い、そしてついた傷だ。
 過ぎる優しさを臆病と取り違え、自分自身では気がついていないらしい。
 たとえ緋勇が本心を吐露したとしても、仲間達は彼を臆病者と蔑んだりはしないだろう。
 ――――もっとも、愚か者だと、怒りはするかも知れないが。









「おい、緋勇」
 一面真っ白になるほど薬を塗りたくりながら、いまだ緊張したままの背中に向かい犬神は声を掛ける。
「さっき、"蓬莱寺達ならともかく教師の目は誤魔化せない"と言ったがな……」
 犬神の耳が、廊下の端からやってくる数名の足音と声を拾う。
 声の中には、幾つも目の前の生徒の名が含まれている。
「あれはどうやら俺の勘違いのようだ」
 緋勇は犬神の言葉に、怪訝そうな顔で振り向いた。
 戸惑いで揺れる瞳に向かって犬神はにやりと笑うと、薬だらけの背中を叩く。




「奴らは、どうやら思っていたより鋭いらしい」




 緋勇が目を丸くするのと、見慣れた一行が血相を変えて飛び込んでくるのとは同時だった。

あとがき

優しい君への五のお題Byリライト
「…少しばかり、優しすぎる」

本人は気づいていない、あるいは取り違えている優しさ。
後ろ向きに全速前進主人公と傍観者に徹しきれない犬神先生。
申し訳程度に外法主人公も登場。
あれだよ、外法主人公はよく(特に意図せず)犬神先生と居酒屋でご同席してたらいいなぁと言う妄想。

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