夢想寸話
−【陽】−

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――――夢を見るんだ。
 赤くて、紅くて、怖い夢。
 追いかけられる。追い詰められる。追いつかれる。
――――悪夢に、狩り立てられる。














 それは深夜。
 闇夜に跳梁跋扈する物の怪達も、月が傾くと同時に己が住処へと帰ってゆく。
 涼浬が龍斗を見かけたのは、そんな刻限のことだった。
 厠から部屋に帰る途中、門前を出る見慣れた後ろ姿がいた。
 最初は見間違いかと思った。
 時は夜半。常ならば眠りについている時間帯である。
 しかし忍びとして養われた眼力が、先ほど見た後ろ姿を気のせいにしてしまうのを否定する。
 涼浬はほんの少し逡巡した後――――闇に紛れるように後を追い始めた。













 相手の足はしっかりしている上に速かった。
 どうやら寝ぼけて床を抜け出したわけではないらしい。
 月はとうに隠れていた。明かりは頼りない星明りだけのなか、龍斗の足はまるで昼日中を歩いているかのように迷いがなかった。
 町中とはいえ、時刻は丑三つ時を過ぎているためか、周囲に人の気配は全くない。
 時折風が道端の木々を揺らすだけで、それ以外は全くの静寂。
 足音に注意すれば気配が。気配に注意すれば足音が疎かになる。
 尾行にはよいとも不適とも言い難い夜だった。
 しかし、そのことが逆に涼浬の忍びとしての誇りを疼かせる。
 たかが人の気配がないくらい何だというのだ。
 兄ならばこれぐらいの不利、まったく意に介さず任務を全うすることだろう。
 この程度、飛水の人間にかかればどうと言うことはない。
 現に、龍斗は全くこちらに気づいた様子もなく歩みを進めている。
――――しかし、いったいどこへ行くというのか、彼は。
 なんだか目的があるように思われるが、まったく行き先の見当が見えてこない。
 尾行を初めて十数分。
 涼浬ははじめて、自分がなぜ龍斗をつける必要があるのか首をひねった。















 やがて、涼浬は再び首を捻ることとなる。
 尾行の相手が立ち止まった。どうやら、ここが終着点らしい。
 やってきたのは、龍泉寺とそう離れていない川端だった。
 大川ほどではないが、豊かな水量に恵まれた川だ。岸辺にはえた柳の下で相手が佇んでいる。
 いったい何をしているのだろうか。龍斗は立ち止まったままその場から動かない。ただじっと川の流れを見つめているようにも見える。
 柳の下に幽霊はつきものだが、もしや牡丹灯籠のように契りを交わした女の幽霊と逢い引きの約束をしているとでも言うのか。
 馬鹿げたことを考えている内、龍斗の背中が本当に死神に取り憑かれているかのように見え始めた。
 よもやこのまま川に飛び込んだりはしないだろうか。
 声をかけるべきか否か。わずかの逡巡が隙を生んだ。
「えっ……」
 ふっと顔を上げた涼浬は、柳の下にさっきまでいた姿が消えているのを見て動じる。
 まさか本当に飛び込んだ……?
「ひゆ……」
「なんしとん」
 突然、思いもかけない方向から声をかけられ、無表情の下で涼浬は動顛した。
 さっきまで後をつけていた相手が、怪訝な顔で隣にいる。
「ひゆっ……う、さま」
「また任務か?」
「あ。いえ……私は……」
 落ち着け。これしきのことで狼狽えてどうする。仮にも忍びたるものこれぐらいのことで。
 動揺する心中を悟られぬよう、涼浬はこっそり深呼吸した。
 そして、心臓が落ち着いたのを確認すると、
「緋勇様は、いったいこちらで何を?」
 さっきから疑問に思っていたことを問う。
 龍斗は、いつもと同じ無感情な顔で、
「俺の質問には答えてくれんのかいな」
「お答えする必要はないと判断いたしましたので」
 涼浬はことさら平静に答える。
 馬鹿正直に尾行けていたと答えるのは少々ばつが悪い。
 まるで、好奇心に負けた子供や犬のように思われるのは嫌だった。
 幸いにも龍斗はそれ以上追求はせず、代わりに空を見上げた。
 月はとうに西に傾き、空には漆黒とまばらな星明りが輝くばかりだ。
 龍斗は空を見上げたままぽつりと、
「月に誘われて……っちゅうンは、アカンけぇ」
「はぁ……」
 言われて涼浬は気の抜けた返事と共に龍斗を見返した。
 ぼんやり天を眺めたままの龍斗の姿に、そういうものかと思わず納得しそうになる。
 闇夜に溶け込むかのような龍斗の姿。
 微かな星明りを照り返す黒髪。夢を見ているかのように薄く開いた形の良い唇。いつもは前髪に隠された射干玉の瞳は遠くを見つめたままどこか潤んで……。
――――錦絵にでもしておきたい光景である。
「似合わんか」
 声をかけられ、涼浬はつかの間自分が夢の世界に飛び立っていたことを知る。
 空を見ていたはずの龍斗がいつのまにかこちらを見ていた。
 心の内を見透かすような強い視線に、心臓がはねた。
 思わず狼狽えてしまった事に対してまた狼狽え、涼浬は無の仮面の下で大いに慌てた。
 とっさに龍斗の言葉を否定しようとするが、それより先に踵を返された。
「あのっ」
「俺、もう帰るわ」
 飛水のンも遅ならん内に帰りやぁ、と間延びした上方訛りで龍斗は手を振る。
 歩き出した龍斗に、涼浬は一瞬躊躇した後、静かにその背中を追いかけた。
 道中龍斗は無言だった。
 やはり気分を害してしまったのか。
 歩調こそ、置いてけぼりにするでもなく、かといって追いつかせるでもない早さを保ってはいるが、ただひたすらにしゃべらない。
 そして、涼浬もそんな龍斗に会わせるように押し黙った。
 好きで無口になっているわけではない。
 現に、今まで何度も話しかけようと口を開いてはいるモノの、その全ては声になることなく喉の入り口で消滅した。
 涼浬は、自分が雄弁な人間でないことを知っている。
 いつだってとっさにうまく口が回らなくて、その所為で誤解を受けることもたびたびあった。
 言いたいことをうまく言葉に出来ない。今感じている想いを文になおし、言葉として外に発することが出来ない。 相手の顔色を窺い、気持ちを慮り、相手がかけて欲しいだろう慰めを思いつくことすら出来ない。
 今だってそうだ。
 うかつな一言で龍斗の気分を害し、相手との距離が開くことが嫌だった。
 まるでモヤのように纏まりきらぬ想いを抱えたまま、龍泉寺までの道は縮まってゆく。
 胸を詰まらせる焦りから口を開くものの、唇はふるえるばかりで全く言葉を紡ごうとしない。
 この気まずい空気のまま、寺に着き、そして明日を迎えてしまうのだろうか。
 何度目かの唇の震えの後、突然目の前で龍斗の体が揺れた。
「緋勇様!?」
 慌てて駆け寄り、抱き留めようとするも、体格差から完全に支えきれず互いに膝をつく。
「――――すまん」
 抱き留める涼浬の手を、大丈夫だと押し返す手はひどく冷たかった。
 よくよく間近で見れば、普段は前髪に隠された目の下には濃い隈ができている。
 荒い息を整えようと深呼吸を繰り返す様が逆に痛々しかった。
 まさか、何か重い病でも患っているのだろうかと、抱き留める腕に知らず力がこもる。
「緋勇様、どこかお体に悪いところでも」
「――――」
 こんなときですら平坦な涼浬の声に、龍斗は首を横に振った。
 そして、しばらく考え込むかのように黙り込む。
 沈黙が二人の間に降りる。あるかなしかの風が柳を揺らし、ざわざわと音を立てた。
 やがて落ち着いたのだろう。龍斗は静かに口を開いた。
「堪忍や。心配かけて」
「そんな……」
 今度は涼浬が首を横に振る。
 さらに慰めの言葉をかけようとしたが――――やはり何も浮かばない。
 言葉が出ない代わりに、涼浬は今の不安を、龍斗を支える腕に込めた。
 龍斗がその手を緩く握る。こちらを見る目が、わずかに細まった。
「飛水のンが心配するようなことは何もないんやで。ただ、ちょっと……」


 寝てへんだけや。


 続けられた龍斗の言葉に、涼浬はわずかな自嘲を感じた。
「緋勇様……」
「ほんま、アホらしい理由やねん。ほんまに……ほんま――――アホや、俺」
 涼浬の手を掴んでいない方の手で、己の髪をかき乱す龍斗。
 緩く捕まれた手と語尾が震えているのに気がついて、涼浬はさらに龍斗が痛ましくなった。
 そして、自分でも思っても見ない一言が口をついた。
「――――その眠れぬ理由を訊いてもよろしいでしょうか」
 髪を乱す龍斗の手がぴたりと止まる。長い前髪の隙間からこちらを見る目が驚きに見開き、次いで笑うかのように細まった。
「人に言うたところで笑われるような理由やけどな」


 夢を――――赤い夢を見るのだと龍斗は言った。
















 それは何もかもが曖昧にぼやけた世界。
 まるで大陸の水墨画のように、淡くふやけた白黒の世界。
 その世界の中に、四人の男女がいた。
 背景と同じくかろうじて男か女か判断できるくらいにぼやけた人物が、四人。
 いずれもまるで折り重なるように倒れている。
 一人の男を護るかのように重なり倒れる女。そばには男性と呼ぶにはまだふさわしくない子供。さらにその隣には武器を握りしめたままの男がいた。
 見たこともない人々だ。
 今まで出会ったこともないはずの人々。
――――けれど不思議なことに、自分は彼らを知っているようだった。
 知っている。けれど知らない人々。
 いったい彼らが誰なのか。思い出すためよく目を凝らして彼らを見つめていると、あることに気がつく。
 色があるのだ。
 白と黒以外を排斥した世界に、ただ一つ存在する彩。
 折り重なる彼らから生み出されるそれは――――。


 赤。


 炎の赤ではない。花の赤でもなければ、夕日の赤でもない。
――――それは血の赫。
 認めた瞬間、世界はその色に染まった。
 燃えるかのように。呑まれるかのように。喰らうかのように。
 赫が覆う。赤が喰らう。龍斗を呑み込む。
 あらゆる全てが紅蓮に呑まれ――――そして目が覚める。
 赤など一つもないはずの夜の闇の中で、自分の荒い呼吸音だけが耳につく。
 目が覚めて、夢だと気がついても胸中をしめる絶望は晴れることはない。
 心に積み重なるのは、恐怖と果てのない後悔。瞳の奥にこびりつくものは夢よりさらに暗さを増した赤。
 夜が去り真白い朝が訪れるまで、龍斗は闇の中、ずっとその赤に怯え続けた。


 夜が訪れ夢に落ちるたび、繰り返される紅い悪夢。
 見たくはない。視たくはない。観たくはない。
 だから――――













「寝とおない」
 だからこうして散歩に出るのだ。まるで、悪夢から逃げるかのように。
 自嘲混じりの告白を聞き終えた涼浬は、龍斗を支える腕にわずかに力を込めた。
 そうでもしなければ、龍斗がこのまま砂のように崩れて消えてしまうような気がしたからだ。
 実態のない夢におびえる様は子供のようで、しかしその姿をあざ笑うことは出来なかった。
 閉じた瞼の裏では、まだ悪夢の赤が龍斗を呵み続けているのだろうか。
 伏せた睫毛が震えるのを見て、堪らず涼浬は口を開いた。
「……呼んでください」
 小さな、しかしはっきりした言葉に、龍斗が面を上げる。
「ひす……」
「呼んでください。もしも悪夢が貴方を苛む事があったなら、その時は私を呼んでください。私が、貴方を守ります」
 それは、雲を掴むような話だった。
 現実に、敵がいるわけではない。
 流石に飛水の里も、悪夢を倒す術など持ってはいなかった。
 具体的にどうすればいいかなど今の涼浬には分からない。
 だが、目の前でこうして苦しむ龍斗を。かつて、自分が兄に対する捨て切れぬ情に苛まれ続けていたのを、助けてくれたように。
――――救いたい。
 今度は自分が龍斗の助けになりたい。
 胸の一角に、消えぬ決意の炎が宿る。
 しばし龍斗は涼浬の宣言に唖然とした様子で固まっていた。
 見開かれた、射干玉の闇よりなお濃い瞳がこちらを映し出している。
 瞳に映る、自身の決意に満ちた表情に、涼浬は再び想いを強くする。
 そのうち、龍斗の瞳がふっと緩んだ。
「――――かなんなぁ、飛水のンには」
 張り詰めていたモノが一転、口元には微笑さえ浮かんでいた。
 まだその姿には痛々しさが残る。
 しかし。
「おおきに」
 支える手を握りかえす龍斗の手には、力強さが戻っていた。
 こちらを見る瞳に、先ほどまでの絶望に怯える色は見あたらない。
 それでもまだ龍斗を暗雲のように悪夢の影が覆う。
 しつこく食らいつく死神のごとき夢の残骸に、涼浬は胸中の決意をさらに固めた。

あとがき

痛いのは管理人の頭の中身だと思います。
龍斗が弱々しすぎます。お前はどこの乙女だとツッコみたい。
ちなみに、【陰】スタートですが、龍斗は【陰】での記憶をなくしています。
あと、これの【陰】バージョンもあります(そちらでは風祭→龍斗)

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