迷い猫

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降りしきる雨の音で静かに満たされた、シンプルで殺風景な空間。
部屋の主の隣に小さなイレギュラーを見つけて、劉は持っていた買い物袋を落とした。
「おかえり、弦月」
同居人の唖然とした様子に特別なリアクションは返さず、普段どおり龍麻は声をかけた。
狭い部屋を大またで渡り、玄関先に落ちた今日の夕食を拾い上げる。
隣で突っ立っている劉は、いまだ現実に戻りきれていない。
袋に掛けた龍麻の手に、半透明の仔猫が無い体を甘えるように擦りつけた。













「どないしてん、ソレ」
「ついてきた」
台所も併せて六畳ほどしかない部屋の真ん中。
呪縛から解かれた劉そして龍麻は、互いに無に近い表情を突き合せていた。
龍麻の膝の上では、さっきから呪縛の元が片手に余るほど小さな体を存分にこすり付け、ごろごろと喉を鳴らしながら甘えている。
額にM字型の模様を抱く何とも猫らしい虎雉の毛色は、甘えている龍麻のジーンズの色が薄っすらわかるほど透けていた。
「朝、学校に行く途中、草むらの中で鳴いてた。もう【体はここに居ない】のは見て分かった。けど、帰り道で朝と同じ姿で鳴いてるのを見て、つい手を伸ばしたら……その……」
「――――くっついてきたっちゅーワケかい」
劉が大きく溜息をつきながら、頭をバリバリとかきむしる。
龍麻は叱られた子供のように顔を曇らせると、置き場の無い指で触れられない仔猫の頭を撫でる。
撫でられているのがわかるのか、仔猫は気持ちよさげに翠の目を細めた。
「どないしょぉ……」
龍麻の言葉は、途方にくれていた。
しかし、それは答えが見つからないゆえではなく、最初から答えを知っているから出る、力の無い声だった。
縋るような視線が、劉のキツイ視線と交差する。龍麻はすぐに、視線を色あせた畳の上に落とした。
撫でる手が止まったのを不満に思ったか、仔猫は音の無い声で抗議する。
噛み付こうとした小さな牙は、龍麻の指に突き刺さることなく通り抜けた。
仔猫がまた不満の声を上げる。
思わず頬が緩みそうな光景だ。
だがしかし。いつまでもこうしているわけには行かない。
劉は下がりかけた眉をきりりと引き締めた。
「【送】らなアカンやろな」
いつまでもこうしていたら、自分が死んだ事も知らない仔猫はこの世に留まり続ける事になるだろう。
しかし、それはこの世の理に反している。
死者には死者の世界が。生者には生者の世界がある。
それに、今の東京はこの小さな魂が留まり続けるには酷な環境だ。
「不安定な東京の【氣】に中てられたらどないするん。もしも化けモンになってしもたら、アニキ……どないするんや」
諭す劉の言葉に、龍麻は答えなかった。指はずっと仔猫の頭を撫でている。
長い前髪に隠された漆黒の目が、痛ましい憐憫の色に染まっていた。
情が移る前にと思っていたが、これは過ちだと劉は思い直した。
一目見たときから、とっくに情なんて移っているらしい。
「なぁ、アニキ」
「ん……分かってる。わかってる……」
分かっていたら、どうしてそんな悲しい目をするのか。
劉はそれ以上かける言葉を見失い、龍麻と子猫から視線をそらせた。








静かな部屋は、相変わらず雨の音しかしない。まるでこの部屋だけ、世界から切り離されたようだ。
それならどれだけいいだろうと思った。
この部屋だけが世界なら、宿星も戦いも関係ない安穏な生活が龍麻と共に送れるのではないか。
(って、この部屋トイレも風呂もないから、安穏云々の前に日常生活自体送れへんっちゅーねん)
あんまりにも馬鹿げた考えを、頭の中で茶化して一蹴する。
――――その考えが馬鹿げていればいるほど悲しくなるだなんて、気付きたくなかった。













「あっ!」
澱んだ思考に落ち込んでいた劉は、龍麻の慌てた声に現実へと舞い戻る。
見ると、ついさっきまで龍麻の指にじゃれついていた仔猫が、猛然と玄関へ向かってゆくところだった。
半透明の体が何の苦もなくドアを通りぬける。
「アニキ!」
劉が止めるよりも先に、龍麻は仔猫を追いかけ走り出していた。





外は買い物帰りよりもさらに雨がひどくなっていた。
弾丸のような雨に視界を奪われ、思うように目も開けられない。
とっさに傘を持ったのはむしろ間違いだった。
傘を打つ雨音に聴覚さえも奪われる。
前をゆく龍麻は傘も差さず、ただがむしゃらに走り続けている。
何度も水たまりに足を取られながら、劉は龍麻の姿を見失わないようにするので精一杯だった。




















「アニキ……」
劉が息も絶え絶えに龍麻に追いついたのは、ある民家の手前だった。
二階建てのごく一般的な建て売り住宅の庭先。
垣根の向こうに龍麻より頭一つ分高い背丈の栗の木が見える。
木の根元には、傘を差した女の子がしゃがんでいた。
その隣で、相変わらず半透明の仔猫がちょこんと座り込んでいる。
その顔は、女の子を見てどこか嬉しそうに緩んでいた。
少女は仔猫に気づかない。それでも仔猫は精一杯自分に気づいてもらおうと音のない鳴き声を上げている。
やがて家の中から母親と思しき女性が顔をだし、女の子を呼んだ。
声に反応して立ち上がる女の子。
仔猫は歩き出した女の子の足に甘えようと体を擦りつけ――――通り抜けた。
転んだ形のまま固まる仔猫。女の子はやはり気づかず玄関に消える。
仔猫は、女の子が諦めきれないかのように、玄関先をうろうろとうろついていた。
龍麻は、そんな仔猫の姿をただ見つめていた。劉の差し出した傘にも気づかない。
どうしようか、迷っているような顔だった。
仔猫はまだ玄関をうろつき、時折女の子を呼ぶように鳴く仕草をする。
女の子には仔猫の姿が見えないようだった。気づくわけがない。
龍麻の顔が、耐えきれないかのようにゆがんだ。
「ちぃ……っ」
悲鳴のような声が、雨音に紛れる。
瞬間。仔猫が龍麻を振り返った。
大きく見開いた目は、純粋な驚きに満ちている。
龍麻と仔猫との間に、雨音と言いしれぬ緊張が重なる。
そのうち、仔猫は丸く見開いていた目を笑うように細めると。

――――にゃあ。

嬉しそうな声一つ残して、仔猫の姿は雨の中に解けて消えた。
初めて聞いた鳴き声の余韻が消え去る間に、劉はぽつんと、
「……逝ったか」
瞬時に激しい雨音がかき消したつぶやきに、龍麻の肩が小さく揺れる。
仔猫は逝ってしまった。自分が死んでいることを理解し、いるべき世界へと逝ってしまった。
「なんや、まるでアイツ笑っとったみたいやなぁ」
「……せやな」
龍麻は頷く。うつむいた顔は劉からは見えないが、もしかしたら泣いているかも知れない。
この優しすぎる少年は、わずかに触れあった魂のために涙を流す。
たとえそれがどんなに小さな魂であったとしても躊躇わない。
今もそうだ。
名前を呼ばれ、自分の存在を認めてもらい、満足そうに天へと上っていった仔猫のために心を裂く。
いつかその深すぎる情に自分自身で溺れてしまわないか。
劉はいつもそれが不安でたまらない。
「アニキ」
劉は龍麻の肩に手を掛ける。
振り返った龍麻の頬は、雨の所為だけでなく濡れていた。
「迷子も家に届けた事やし、帰ろか」
「……あぁ」
龍麻が頷く。口元にはほんの少しだけ、笑みが戻っていた。
最後に一度だけ木に向かって拝むと、龍麻は身を寄せるように傘の中に入る。
小さな傘の中、肩を寄せ合いながら劉達は帰路につく。
道すがら、劉は小さく、「よかったな」と呟いた。
聞きとがめたらしい龍麻が、劉の顔をのぞき込む。
「何がよかったんだ?」
「あの猫。アニキに会えて、良かったと思てるやろなぁって」
「……ありがとぉ」
龍麻は顔を背け、照れたよう耳朶を染める。
劉の頬も、思わず緩む。
その時。

――――にゃあ。

後ろから賛同するような声が聞こえて、劉は一度だけ振り返る。
だが、振り返った先には、ただ「ちぃ」と書かれた小さな墓標が雨に霞んで見えるばかりであった。

あとがき

五周年連続更新企画作品。
一番始めに書き出したくせに、一番最後に書き終わった作品。
いろいろ力不足と描写不足で分かりづらい話になってしまいました(泣)。

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