囚影
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吹く風にいまだ夏の残り香が漂う、初秋の事。 さて、こいつはこんな奴だったかと、京悟は一人で首を捻った。 ここは鬼哭村の九角邸。 ちょうど木漏れ日が程よく当たる静かな縁側で、京悟は眼下を見つめながら自問自答していた。 縁側には、一匹の巨大な猫が四肢をだらしなく投げ出し眠りこけていた。 頭を振って化け猫の幻覚を払うと、そこにいたのは二十歳に手が届こうかという青年の姿だった。 程よく筋肉のついた長い手足は、今にも縁側から落ちようとしている。 普段はきりりと引き締まった薄い唇からは、今は太平楽な寝息しか零れない。 見たこともない相棒の一面に、京悟は困惑と驚きの為か眩暈さえ覚えた。 (……コイツ、こんな奴だったっけ?) 京悟はしゃがみ込み目線を相棒の顔に近づけると、手をそっと龍斗の額に置いてみた。 龍斗は、気づく様子もなくただぐーすかと眠っている。 その顔には警戒心も何も感じられず、ただ母親の腕の中にいる赤ん坊のような安堵の色に染まっている。 見知らぬ相棒の姿に、京悟は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。 思えば、龍斗ははじめて出逢った時から自分に対して何かしら壁のようなものを作っていた。 はじめは、それを知り合って間もないからだと思っていたが、何度も共に死線を掻い潜り親密さを深めていってもその壁が消えることはなかった。 薄く透明で、そのくせ堅固な壁を四方に張り巡らせ、誰にもその内へ這入ることを許さない龍斗。 眠るときすらそれは崩れず、たまに寝姿を見ることがあっても、いつも眉には皺がより些細な音にも跳ね起きる始末。 安らかとは程遠いものばかりだ。 京悟自身――――おそらく龍閃組の誰も、龍斗がこんなにもゆったりと眠る姿など見た事はないだろう。 それが今はどうだ。 ついこの間まで敵として刃を交えていた相手の本拠地で、こんなにも無防備に、こんなにも安心しきった顔で眠っている。 京悟は思わず息を詰めた。 そうでもしないと、溶岩のようにどろどろと煮えたぎる何かが、口から溢れ出ると思ったからだ。 京悟は膝を折ると、眠る龍斗の髪をそっと梳いた。 閉じた眼はピクリともしない。 きっとそれだけ安心しているのだろうと感じて、また胸が痛む。 「……なぁ、龍斗」 京悟は、もう一度龍斗の前髪を掬った。 すこし硬質なそれは、すぐにさらさらと指の間から逃げてゆく。 「龍斗……」 もう一度、願いを込めて名を呼ぶ。 名前を口にするたび、苦いものが喉の奥からこみ上げた。 何故気がつかない。こんなに近くにいるのに。 何故分からない。何も見ないようにと眼をそらす。 何故。どうして――――俺を見ない? 龍斗はいつも誰を見ているのだろう。 京悟は龍斗から向けられる視線に、いつも違和感を感じていた。 まるで、自分を透かして誰かを見ているような――――そんな居心地の悪さ。 森の奥底にひっそりと存在する湖水のように、深い深い眼をして、いったい誰を見ている。 悲しく虚ろな視線は、いったい誰を哀れんで向けられたものなのか。 「気づけよ」 感じた思いが、そのまま声となって外に出る。 気づけ。一度でいいから、自分もまた龍斗を見ていることに気付いて欲しい。 言葉にすればあまりに女々しく、陳腐な思い。 我侭だとは知っていたし、分かってもいた。 けれど。 「お前の隣にいるのは、俺だろ?」 小さな泣き言が口を突く。 自分に重ねた誰かの影などでなく、自分自身を見て欲しい。 京悟はいまだ目覚めぬ龍斗の瞼に、そっと指を這わせた。 「龍斗……」 声が震える。指先が瞼の形を撫ぞる。 すると、震える声と一緒に龍斗の瞼が震えた。 眼が開く。 慌てて指を引っ込めると二、三度瞼を痙攣させた後、深い夜を思わせる濃藍の瞳が姿を表す。 まだ夢の色に染まった視線と京悟の視線がかち合う。 瞬間。 ――――……やかたさま。 顔中に喜色を走らせ、龍斗は見知らぬ誰かの名を呼んだ。 京悟の背骨に灼炎が走る。 「龍斗!」 吠えるように一喝すると、いままでぼんやりと眠りの隙間を漂っていた龍斗は眼を見開き飛び上がった。 「きょ……ぉご?」 「今、誰を呼んだ」 戸惑ったように眼を白黒させる龍斗に、京悟は詰め寄る。 言っている意味を理解できていないのか、それとも知っていてとぼけているのか。 龍斗は声にならぬ息ばかりを零し、首を横に振る。 京悟は龍斗の態度に歯噛みした。 先ほど感じた衝撃の残滓が、まだ脊髄に残っている。 龍斗が呼んだ相手の名が知りたかった。 自分が、いつも龍斗にこう想って欲しいと願う形を向けられている相手が、ただ憎たらしかった。 そして、姿の見えない相手に憤る自分が酷く惨めに思えた。 掴まれた肩が痛むのか、龍斗が苦しげにうめく。 「どないしてん、京梧……ッ」 戸惑うように問われた言葉に、京梧もまた苦しげに眉を顰める。 どうしたのか。 そんなもの、自分が一番知りたい。 どうして龍斗が他の――――知らぬ人間の名を呼んだだけでこんなに心乱されるのか。 分からない。 自分がいったい何を拒み、恐れているのか――――。 そう思うと、なぜだか龍斗がどこかへ行ってしまうような気がして、京梧は不意に肩を掴んでいた手を背中に回し、龍斗を力いっぱい抱きしめた。 龍斗の熱が、触れた表面から全身に伝染してゆく。 龍斗が苦しそうに身をよじらせた。 「きょう……ご……?」 「悪ぃ、龍斗。でも今は、このまま……」 言って、さらに腕に力を篭める。 骨が軋むのか。龍斗が体をこわばらせ、息を詰める。 ところが、龍斗は引き剥がすどころか京梧の背に手を回した。 そして、何も言わずまるで幼子にするように背をなで、あやす。 触れてくる手のぬくもりに、目の周りが熱くなった。 龍斗は、京梧がどんな思いで龍斗を抱きしめているかきっと知らない。 京梧自身、なぜ龍斗を抱きしめたくなったか分からない。 分からないが――――こうしているだけで、なぜか今だけは救われる気がした。 それでも、まだ心の内で灼熱の波は京梧と龍斗を焦がそうとうねりを高くしている。 京梧は得体の知れない熱と、自身に付きまとう影に浚われないように、龍斗の体をいっそう強く抱きしめた――――。 |
あとがき
五周年連続更新企画作品
なんだか、京梧=子供 龍斗=おかあさんな図。
設定としては【陰】→【陽】→【邪】<いまここ
龍斗は鬼道衆時代の記憶を全部失ってます。
京梧がやたら女々しすぎる。
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