うらのおと 関西風景

おとなのための男同士の恋愛小説
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こいびと Act IX


1


 「……はあー……」

 もう何度目になるのかわからない大きなため息が聞こえてきて、おれは仕事の手を止めた。

 鬱陶しい。このうえなく鬱陶しい。

 反応したことがため息の主にわからないように、おれはあまり顔を上げずに目だけを最大限に動かして、同じシマの人間の顔色を探った。

 ため息の主以外のやつらは案の定、このうえなく鬱陶しそうな顔をして、けれどもおれと同じように、自分が反応したことをため息の主に悟られないように、じっと前を見つめて、とりあえずかたちだけは仕事をしている様を装っている。こういうときにやつの相手を買って出るのは、ある意味無謀だ。やつの愚痴を聞き始めると、長くなる。

 けれども、みな、その手がおれと同じように止まってしまっていた。これだけ頻繁にため息が耳に入ってくると、どうしても気になるからな、やっぱり。

 「……はあー……」

 鬱陶しい。このうえなく鬱陶しい。

 しかもあれは絶対に、仕事絡みのため息じゃない。やつが関わっていた仕事が年度をまたいで酷いことになっていたことは、このシマの人間ならみんな知っていることだが、その仕事はとりあえず片がついた。もちろん、そのあとも途切れなく仕事が続いてはいるが、それでもある程度余裕ができていて、去年からずっと死にそうな勢いで働いていたチームの面々は、このところ相次いで代休をとっているところだ。もちろん、やつも代休をとった。先週末の土曜日も休日出勤することなく、たっぷり休みをとっていた。最近は深夜にかかるような残業はしていない。仕事が滞っているという報告も受けてはいない。

 だからあれは仕事絡みのため息じゃない。というか、もうだいたい見当はついている。

 ……晶くん絡みだな、こりゃ……

 「……はーあーあー……」

 これまでよりもひときわ大きなため息が聞こえてきた瞬間、眉間に皺を寄せた表情をしていた斉藤が、たまりかねた様子で辻本のほうを見た。

 さすが斉藤、まだ二十代。その若さゆえに我慢がきかなかったか、それとも、辻本の部下としてスケープゴートになる決心がついたのか。

 「あの、辻本さん…… 体調が思わしくないようでしたら、今日はもう帰らはってもええんや…… なんかあるようでしたらおれがやっときますし……」

 周りの人間が小さくガッツポーズをしているのが見えた。えらい、えらいよ、斉藤。そのまま言いくるめてしまってくれ。頼んだ。

 辻本がどんよりとした、死んだ魚のような目をして斉藤を見た。

 「……斉藤、おまえ、いくつやったっけ……」

 「はい? なんの話ですか、それ」

 「歳。年齢。いくつやったっけ」

 「えと、あの……今年で二八歳になりますけど……」

 「……そーか、一コ下か…… 若いよな……」

 喜多が吹き出しそうなのを我慢して、口元を両手で押さえたのが見えた。それ以外の人間も、頭を押さえたり、苦笑いを浮かべたりしている。

 辻本、おまえ、そりゃ、自分の年齢基準じゃなくて、晶くんと斉藤との年齢差だろーが。いくら残業時とはいえ、社内で堂々と口にしてどうする……

 しかし、これで間違いなくなった。辻本のため息のもとは晶くんだ。決定。

 「しかも、斉藤は新婚ほっやほややもんな。ええな…… いっちゃん楽しいころやんな……」

 「はあ…… それは、そうですけど…… いや、喧嘩したりもしますけど……」

 斉藤がつられたよ……

 「最初のうちって喧嘩も楽しかったりするやん。あとで仲直りすんのが楽しいっつーか。あんまこじれる喧嘩になったりとかはせーへんし」

 「それは、まあ…… まだこじれるような喧嘩は、したことない……つもり、ですけど…… けど、おれらもそれなりにつきあい長いんで、その、つきあい始めのころの、何やっても楽しーとか嬉しーとか、そういう時期はもう過ぎたっていうか……」

 斉藤もあほだ。当の結婚相手の喜多に聞こえる場所でする話じゃねーだろ、それ。

 「何言うてんの、斉藤くん! うちはまだ、何やっても楽しーし嬉しーで。うちらはまだほやほややもん。はっぴーはーとふるな新婚生活中やもん!」

 ほらみろ。喜多がつられた。しかも喜多、声が大きいよ…… 立ち上がって大げさにガッツポーズを決めるのもやめてくれ……

 案の定、フロア中の人間が、なんだどうしたとこちらをうかがい始めた。あかん。おさまるどころか、騒ぎ拡大警報発令。

 「年齢差ゼロっちゅーのがええよな…… ジェネレーションギャップゼロっちゅーか、おんなじ目線で互いを見られるっちゅーか……」

 ……辻本、気づいてくれ…… おまえの表向きのパートナーは香苗さんだ。思いっきりおまえと同級生だよ。年齢差ゼロだよ。

 「でも、うちらの性別はちゃいますから、わからん部分多いですよぉ。しかもうち、中高と女子校やったから、そのころとかは、男の人のこと、別の種族の生き物やと思てましたしー」

 ……微妙だ…… 単純に男女差の話をしているようにも、辻本の相手が男性だということをほのめかしているようにも聞こえる……

 喜多の意図自体は完全に後者だ。ていうか、たぶんほのめかしですらない。喜多の発言に裏表はない。

 だとしたらまずい。社内には辻本の事情をまだ知らないやつも多いんだよ。どうしたものか。

 「……別の種族の生き物ね……それはそうかも……そういうもんかも……」

 お。男女差の話にシフトチェンジした。さすがに立て直しをはかったか。えらい、えらいぞ、辻本。その調子でそのまま口を閉じてくれ。そうすればこの場は何ごともなくおさまる。

 「おれにはあいつの世界はわからんからなー。見た目全然歳とらんのも、やっぱああいう、ヒトに見られる仕事をしてるからなんかな……」

 ……何ごともなく……おさまる……?

 「若く見えるっていうより、年齢不詳系ですよねぇ。ときどき性別も不詳。格好いいですよぉ」

 「性別不詳は、つきあい始めのころは、おれもちょっと思てた。けど最近はさすがにそういうふうには見えません。でも、やっぱ若く見えるよな…… 精神的にも若いっていうか…… そりゃなー。あんだけ若いやつらに囲まれて仕事しとったらなー」

 ……じわじわとまずい感じが押し寄せてきた…… でもまだ間に合う。この話の流れだとまだ、香苗さんの話をしていると聞こえなくもない。でもこれ以上は危険だ。頼むから口を閉じてくれ、辻本……

 「ああー。女子高生のファンとかもいてはりますもんねぇ。客席にいてても、こう、きゃーきゃー言ってる女の子たちがいっぱいいてたりしますもんー」

 喜ー多ー。具体的な話に誘導するなー。乗せられるなよ、辻本…… ここで軌道修正できないと、もう本格的にやばい……

 「男の子たちにももててはったりするんですかー?」

 「……うん…… こう、なんとも言えんきらきらした眼ぇで、おれの目標は佐々木さんですとか言われてんの見た…… そしたらあいつ……」

 ひゃ。名前が出た。もうあかん。限界だ。

 「辻本!」

 慌てて椅子を蹴って立ち上がると、辻本がとんでもなく情けない顔でこっちを見た。

 「おまえ、仕事にきりついてんねやったら、これからつきあえ。おれももう帰るから」

 「え、あの……」

 「したい話があんねやったら飲みもって聞くから。香苗さんのこととか、こういうとこでする話とちゃうっ」

 辻本はぽかんと口を開けたあほ面をさらしたあと。

 がくんとその顎を落とし、無言の叫びをあげた。気づくのが遅い。遅いすぎるよ、辻本ー。

 「えっと、あの、おれ、や、い、今のは、あの、えと、おれ、何言って……」

 「なんも言わんでええから! とにかくもうその口閉じろ。仕事中は私語厳禁!」

 辻本はかくかくした動きで机の上のいろいろなものをばらんばらんと落としながら、わたわたと帰り支度を始めた。

 ざっと社内を見渡すと、何ごとが起こったのかわからない顔をしているやつもいたが、肩をふるわせて笑っている人間が予想以上に多い。どうやらおれが思っていた以上に、辻本の家族事情をすでに聞き知っているやつが多いぞ、こりゃ。助け船を出したのがあほらしくなってきたな……

 やれやれ。




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