『The lovely weather,
you get after a storm.』

悪夢は少年を放してはくれなかった。
毎夜毎夜、彼を追い詰めていった。

もうこの後はどうなるのか、判っている。
知っている。見飽きるほどに。
それだけ深く深く脳裏に刻みつけられているからだ。
それだけ何度も何度も見せられているからだ。己に。

見たくないと意識で逃げようともがくことすら既に通り過ぎ、麻痺したように呆然と眺めるだけ。
早く終わってくれ、早く過ぎてくれと祈るだけ。

守りたいんだ。
守りたかったんだ。
なのに、体が動かない。
黒い大きな手が、少年の体を掴み放り投げる。
軽々と放られた小さな体が、雪の上にもんどりうって、落ちる。

痛みを感じないのは、夢だからだ。
夢だというのに、己の体が意のままにできない。
この後のことを知っている意識は、落ち着け、落ち着けと言い聞かせている。
夢だ。
これは、夢だから。

「ル、ルウから離れなさい!」

声がした。―― ああ、彼女だ。
鈍い音がする。少年の耳に届く。―― ああ、あれは彼女が納屋からとってきた武器代わりの鍬を振り上げて、あの男に殴りつけた音だ。
視界がぐるりと動き、その姿が、中に、入ってくる。―― どうして、どうして。

すべてが吹き飛ぶ。
それまで落ち着けと抑えていた意識が、怒りと恐怖に押しつぶされていく。
理性も冷静さも、すべて。
ざわざわと全身が総毛立つ。

音が、
痛みが、
冷気が、少年を取り巻く全てが戻ってくる。

ぎゅっと雪を踏みしめる音。
突き刺さる程の、冬の夜の空気の冷たさ。
打ち付けられ、殴られた痛み。
動かない体の重み。
全てが、押し寄せる。

引き攣れる喉の奥から、声を絞り出すことしかできない。
まるで、自ら忠実に、あの時を再現するように。
どうしてこの体は動かないんだろう。夢なのに。
どうして彼女は逃げてくれないんだろう。僕の夢の中なのに。

「逃げて、クレア!」

振り下ろされる、闇の色をした鉤爪。

「やめろーーーーーっ!」

「うるっさい!」

ゴッ

「……っっ!?」
怒声と共に、額にするどい激痛が落ち、少年は思わず頭を抱えて堪えた。
室内を照らす明るい光が、うっすらと涙の滲み出た目に刺さった。
明るさに慣れず顔をしかめながら、何事かと少年が起き上がると、そのすぐ傍に、ある意味とても見慣れた少女の姿。
桃色の髪の下から覗くその目は、この上なく凶悪な様をしていた。

「……って、ミ、ミント?」
慌てて周囲を見渡すが、そこは、このカローナの街で宿を営む女主人の好意により代金無しでとってもらっている部屋であり、彼自身が横になっていたのは間違っても遺跡の冷えきった床などでなく、白いシーツがきっちりと敷かれた、宿屋のベッドだ。
「な、なんでここにミントが?」

「あ・ん・た・がっ、あまりにもうるさいからっ、目ぇ覚めちゃったじゃない!!」
せっかくのお腹いっぱいの料理の山が! とがしがし床を蹴りつける。
その言葉で少女がどんな夢を見ていたのかが窺えた。どうやら彼女も同じ宿に泊まっていたらしい。そもそもこの街には宿泊施設は二つしかない。

「僕は……そっか、あの夢……。うなされていたのか……」
「どんだけ声出せば気が済むのよ、ほんっとに」

片手で顔に浮いた汗を拭い、重い溜息をついている少年を見下ろし、少女は冷めた視線に怪訝な色をあからさまに浮かべた。
「つーか、あんた、寝るときもその帽子かぶってんの?」
「!?」
とっさに頭の上にのったままだった帽子を押さえる。

まったくの偶然であったが、額を見られずに済んだ、らしい。
普段ならば、誰にも見られないと安心できる時、宿などで部屋に泊まる時にはもちろん、寝る間際に帽子を外し、傍らに置いてから眠る。
それは姉代わりでもあり母親代わりでもあった、唯一の女性に教えられた、生活習慣だった。だがここ数日は遺跡巡りで少々疲れており、うっかり身支度を解く前にベッドに軽く横になったまま寝入ってしまったのだ。しかしそれが、運が良かったとも言えた。

「別に、僕の勝手だろう、そんなこと。だいたい、なんでミントがここにいるんだい?」
「あたしはここの隣りの部屋に泊まってんのよ、なんか文句ある?」
「それは文句ないけど……そうじゃなくて、ここは僕の部屋だし」
どうやって部屋に入ってきたのだろうとドアの方を見るが、使い込まれた宿屋の木製のドアは別に蹴破られたような損傷の後もない。自分が鍵を掛け忘れていたのだろうか。だるさを訴える体を開けたドアの中に押し込んだ後の記憶に、鍵のことは残っていなかった。

「とにかく、もう出てってくれよ」
「しつれーな言い方ねー……まあいーわ。今度あたしの安眠を妨害したら、コブシじゃなくて飛び蹴りかますからね!」

失礼なのはどっちだろう。
さっきの衝撃は拳で殴られたらしい。ぐるぐると腕を回す振りをしてみせた後、少女はさっさとドアを閉めて出て行った。
廊下をどかどかと歩いていく音、隣りでドアの閉まるバタンという音がした後は、もう聞こえなかった。

部屋の中が一気にしん……となる。
少年が吐いた深い深い溜息が、部屋の中に響く。
すっかり目が覚めてしまった。
明日もおそらく、あの少女とはまた、行く先の遺跡でかち合うのじゃなかろうか。

(まったく、台風みたいな人だな……)
妙な、疲労感。
(……さっさと寝よう)
鍵を閉めるのだけは忘れずに。
そしてのろのろとした動きで身支度を解くと、少年はまだ温もりの残っていた寝床へともぐりこんだ。

明日もまた、大切な人のために、探し続けなくちゃいけないのだから。

その晩、少年は初めて、いつも夢の後に感じる哀しみと切なさと苦味と苦しみを忘れ、眠りについた。
そのことに気付くことは、なかったが。

□□□

「おはよー、カーサさん」
眠い目をこすりこすり階段を下りてくる少女を、かまどの前で鍋をかき混ぜていた女性が振り返り、暖かい笑顔で迎えた。
「おはよう、ミント。よく寝れたかい?」

「んー、あの後寝たんだけど、やっぱ途中で一度完ぺきに目が覚めちゃったからなー。ねえ、あいつ、本当に毎晩あんななの?」
「そうなんだよ。一度起きたみたいでも、また何度かうなされていたりしてねえ……。本当に辛そうで辛そうで……。―― でも昨日はミントのお陰で、あの後は静かだったよ。今日もついさっき、元気に出て行ったさ」
ありがとうねえ、と微笑む女性から目を逸らしながら少女は「別にぃ。まあ、カーサさんの頼みだったしね」と言った。

「それより朝ご飯! お腹減ったー!」
誤魔化すように張り上げた少女の声に、女性は笑って、はいよと応えた。

作品目次、に戻る