『為り損なった男』

「どうなさったの、その本は」
「いつもの骨董商のところに寄ったら、いまだ出回っていないクリスタル・グースの原本だというのを手に入れたらしくてね」
「原本ですって? そんな大層なもの、あなた、いくらでお買いになったの?」
「いや。安くしてくれたんだよ、これでも」
「仕方ないわねえ。本当にあなたときたら、欲しいと思ったものはすぐにお買いになってしまうんだから。少しは家計のことも考えてくださいな」
「ああ、わかってるよ」

「大好きなクリスタル・グースの本を読むにしては、随分と難しいお顔をなさるのね」
「いやあ、どうやらこれは、贋物ではないかな」
「あらまあ、あなた。贋作を買わされたってことですの?」
「そうではないかな、という気がするんだけどねえ」
「その通り。それを書いたのは、わしじゃ」

「どなた? ノックもなしに入ってくるなんて、非常識ではありませんこと?」
「これは申し訳ない。しかし、いやはや、ノックはしたいが、腕がすり抜けてしまってのう」
「すり抜けるですって? ……そういえば、なぜかしら、あなたの向こうが透けて見えますわね」
「まさかご老人、あなたはもしや」
「まあ、ありていに言って、今のわしは幽霊とやらなんじゃろうなあ」
「いやだわ、幽霊だなんてそんな、非科学的なもの」
「しかしだね、お前にも見えているということは、私たちの間では確かのようだよ?」
「まあ大変。あなた、贋物だけではなくて、幽霊付きの品物を買わされてきてしまったのね!? なんてことなのかしら」

「あなたは先ほど、この本を書いたのは自分だ、と仰いましたが……まさか、クリスタル・グースだと?」
「いやいや、そうではのうて。ほれ、あんたが言った、その贋物を書いた男じゃ」
「そうですか。では、やはりこれは、クリスタル・グース自身が書いたものではないのですね」
「ああ、そうじゃ」
「なるほど。しかし、それにしても、よく出来ている」
「そうじゃろう、そうじゃろう。なにせ、それはわしが心血注いで作り上げたものだからのう。現存していた作品のすべてを読み漁り、何度も目を通してはその書き方を頭に叩き込み、字体の癖まで目に焼きつけ、自分はクリスタル・グース自身それ以外の何者でもないと言い聞かせ、納得のいく真似ができるまで何日も何月も何年も書き綴り続けた……」
「まあ、なぜそんなことを?」
「かの者への尊敬の念、その才能への羨望、それらを得てみたい。そう思った。……なりたかったのだよ、クリスタル・グースに……な」
「……それで、なれましたか?」
「…………満足のいくものが書けて、真っ先に旧知の研究家のところへ持っていったよ。わしが読んだ作品の数々は、ヤツが手に入れたいくつかの原本と、写本じゃったからのう。それらに混ぜ、何食わぬ顔をして返しに行き、散らかった部屋の中の隅に置いてな。ヤツのところには、買い集めた資料やら作品の写本やらが毎日山のように届けられておったから、ひとつやふたつ増えたとしても、すぐには気付かないじゃろうとふんでな。数日後に、ヤツは大喜びでわしのところへ来た。新しい、今までに見つかっていない作品が見つかったと、な……」
「それが、これですか?」
「ヤツが亡くなって、書庫にあったものは、仲間の研究家たちに形見分けとして全部持っていかれたんじゃ。そうして今度はその研究家も亡くなり、存命中に返せなかった借金の代わりに金貸しに持っていかれ、やがては価値を知らぬ商人たちに二束三文で売り叩かれ、流れに流れて……あんたが訪ねた店の主に買われたんじゃよ」
「それでしたら、なぜそんなにも暗い顔をなさるんですの? 努力は報われた訳でしょうに」
「……気付いたんですね?」
「ああ、気付いてしまった。あまりにも遅かったがのう。わしの作品も、クリスタル・グースの他の作品と同じように羨望を得た。いや、クリスタル・グースとしての羨望であったがのう。そう、所詮それらは全て、クリスタル・グースに向けられたもの。わしという存在をこの幽霊の体のように透けて通り抜け、人々が見つめる先にあるのは、この身体の向こうにあるクリスタル・グースという亡霊、それじゃった。……結局わしという存在は、飲み込まれただけじゃった。……あの才能にな……」
「……ここにこうして、私の前に現れたということは、何か理由があるんですか?」
「あんたに、頼みがあるんじゃよ。これが贋物じゃと気付けた、あんたにしか、頼めない」
「……なんでしょうか」
「どうか、燃やしてくれないじゃろうか。あんたが手にしている、その本をな」
「でも、これはあなたが何年もかかって作り上げた作品なのでしょう? 燃やしてしまうんですの?」
「もうこんな醜い様を残していたくないのじゃよ。死してなお、この忌まわしい存在に縛り付けられ、孫たちの魂にすら置いてきぼりにされた今でさえ、こうして漂い続けておる。これほどの苦行があるじゃろうか、のう?」
「……………………」
「頼む、どうか、どうか燃やしてくれ。もう何も残らないように……」
「……判りました」
「あなた……」
「おお、ありがたい。これでやっと楽になれる…………」

「……まあ、あっという間に消えてしまったわ」
「安心したんだろうさ。もう何年も苦しんできたんだろうね、あの老人は」
「あなた……、本当に燃やしてしまうの?」
「燃やすよ。約束を違える訳にもいくまい。ちょうど、暖炉の火もあることだしね」

「……ああ、優しい火だな……」
「せっかくお買いになったのにねえ……」
「いやなに、この暖かさぐらいの価値はあったさ」

「そういえば、結局あの本、いったい幾らでお買いになってきたんですの?」
「え、あ、いやその」
「……………………あなた」
「ええと………………」

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