『麦の穂』

ざざざざ……ざざざざ……

夕暮れの、ファム大農場。
そろそろ宿屋に帰らなければ連れが心配するかもしれないと思いつつも、少女はその光景から目が離せなかった。

夕闇押し寄せる、ほんのわずかな時。
紅く染め上げられた空。そしてその朱を受けて色づき揺れる麦の穂の絨毯。まるで燃え上がっているかの如く艶やかに輝くクリスタル。すべてが『赤』い。

麦畑の柵の前で、少女は大地に足を縫いとめられたように動けなくなってしまった。
ふと目をやったその一瞬に、言葉が浮かぶ間もなく視線はその光景に釘付けにされてしまったのだ。
息もできない。
指の一本すら動かせない。

吹き抜けていく風に、彼女の頭巾から流れ出た長い髪もなぶられ、本来の深みのある栗色に朱が差している。

ざざざざ……ざざざざ……

ただただ立ち尽くす彼女の目は、赤に支配されていた。

声がした。
まるで呪縛を解かれたかのように身じろぎし、少女は目を瞬かせた。
誰だろうと視線を巡らせる。また風が吹いた。大きく揺らめく麦の穂の中、同じ色なのに揺れない箇所があった。
その姿を視界に捉えた少女は、また瞬きした。

「……なにをしているの?」
「えーっと……、……まいご?」

投げかけた問いに、問いで返される。
がさがさと、麦の波の中を掻き分けて寄ってきたのは、宿で待ってると思っていた連れの少女。

この収穫の時期が近づき小金色に似てきた麦の穂と同じ色のはずの、彼女の髪も、今は朱に染められ、明るい『赤』。
長旅にも関わらず焼けることなく白い肌も、今は赤い。

「勝手に畑に入ったら、怒られるんじゃないの?」
迷子は“なる”ものであって、“する”ものじゃなかったような。そう思いながら、彼女は別のことを聞いていた。

「うん。そうだね」
生返事をしながら柵を乗り越え道に出ると、連れの少女は振り返って口を開いた。
「もう宿に帰ってるかと思ってた」

「帰ろうとしていたところだったの。そっちこそ、もう宿に帰ってると思ってたわ」
「あたしも帰ろうと思ってたんだけどね。ちょっと近道したら方向が分かんなくなっちゃった」

大農場と名が付くだけあって、この集落は広大な田畑ばかり。
あまり考えずに直感と思いつきだけでうろつく連れは、ついでに『道』に対する頓着がない。むしろ獣道などを楽しんで歩きたがるくらいに。
それで麦の海から出てきたか。

妙に納得していると、連れの少女が不思議そうに彼女を見た。
「でも、こんなとこに立ち止まって何してたの?」
「ちょっと、見惚れていたの」
本当は、見惚れていたなどという生半可なものではなく、意識を根こそぎ奪われていたと言った方が正しいのかもしれないけれど。

彼女の言葉を受けて、連れの少女は「ああ、なるほどね」と頷いた。
そして自分も、出てきたばかりの畑を振り返り、呟く。

ざざざざ……ざざざざ……

「きれいだよねえ」
その一言で、やっと気が付いた。ああ、そうか。

「そうね……きれいね」
きれい、そう呼ぶのだと。

それまでただ名前もなく、自分の胸に押し寄せていた衝撃は、『きれい』。
安堵とともに、じわりと切なく暖かいものが広がっていく。

二人の少女はそのまましばらく、『赤』が夕闇に飲み込まれてしまうまで、その様を眺めていた。

ざざざざ……ざざざざ……

っぐしゅん。
隣りから小さなくしゃみが聞こえ、風に当たり過ぎたのかもしれないな、と少女は思った。

軽く鼻をすすり、鳥肌の立った二の腕を擦っている連れの少女よりは露出は少ない服装だが、自分で思っているよりも長い時間立ち尽くしていたに違いない。
我に返れば、芯から冷えきってしまった身体がぶるりと震えた。

そのくしゃみが、合図になった。
「……帰ろうか」と、差し出された手を。
「うん。帰ろう」と、そっと握る。

言い知れないわずかな寂しさと郷愁を胸に、少女たちはただ無言で宿までの道を歩いていった。

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