その心は秘めたままに


              

 「また飲み歩いていたのか!」

似たような風体の男が路地裏に寝そべっていると聞きつけやってきたライル・ゲットーは、それが探していた当の
友人であることを確認すると大きくため息をついた。
「……帰ろう」
無責任に捨てられたゴミ屑と己の吐瀉物にまみれ酩酊しているフォムト・バーガーの頬を何度か叩きなんとか
目を覚まさせる。アルコールと、何日かシャワーを浴びてなさそうな饐えた体臭と汚れた衣服から漂う臭気に
気が遠くなりながら、ゲットーは薄汚れた友人に肩を貸し、足元のおぼつかないバーガーを無理矢理歩かせ
家路についた。
「ちょっと目を離すと直ぐにこれだ。いい加減にしろ」
本格的な冬にはまだ早い。寒い季節ではなくて良かった。官舎の一室であるバーガーの自室玄関で汚れた
衣服を全て脱がせ、ブツブツと何か言っているのを聞こうともせずシャワールームに押し込んだ。それでもくたりと
膝を折りその場で吐いた上に寝ようとするので始末に負えない。
仕方無くゲットーは裸足になりズボンの裾とシャツの袖をたくし上げ、シャワールームに入るとバーガーの全身を
洗い流してやるのだった。

 頭から湯をかけられ、ようやく正気を取り戻したバーガーは不思議そうに天を仰ぐ。
「……ゲットー……?」
一瞬、何故自分がここにいるかも分からないような顔をしたがその顔は直ぐに苦しげに歪んだ。
「俺、……」
怒っているのか泣いているのかよく分からない、醜く歪んだ顔にゲットーは容赦無くシャワーを浴びせる。
「いいから目を覚ませ」


 恋人のメリアを目の前で亡くしたことでバーガーは悲しみと自責の念に苛まれ続け、生きる術を見失い、
自暴自棄となって酒に溺れ刹那に身を委ねる日々を送っている。
荒れるバーガーから友人達は遠ざかって行った。懇意であったメリアの姉のネレディアさえ、変わってしまった
バーガーを直視出来ず彼と距離を置いた。
そんな中、ゲットーだけが以前と変わらずバーガーを支え続けていた。
一時期は独りで生活することすら難しく、精神を病んでいたバーガーだったが最近はようやく人間らしい生活を
送ることが出来るようになっていた。それでもまだ、油断するとふらふらと外へ出て行ってしまう。そして酒の勢いを
借りて騒動を起こし、軍に通報される寸前でゲットーが取りなしたことも度々起きていた。

 元々ゲットーはバーガーとはさほど親しい間柄ではなかった。年齢も違うし所属部隊も異なる。それなのにどうして
こうも彼の生活に立ち入るほどに面倒を見てしまうのか、放っておけないのか、その理由を考えようとするとき、
そして己の本心を見つめようとするとき、ゲットーはいつも躊躇してしまう。


 ―――ただ、哀れなだけだ。

貧しい者には施しを。弱き者には慰めを。それは富める者のつとめだから。
両親、特に母親からそういう教えを受けてきたせいだろう、とゲットーは自分に言い聞かせる。


「……ごめん」

「何度も言っているが酒場へ行くのは止めろ。呑みたければせめて家で呑め」
バーガーは煩わしそうに頭を押さえながら、それでもゲットーの言葉を大人しく聞き入れていた。彼にしたって、
酒場に行けば酒に飲まれて正気を失ってしまうことくらい百も承知なのだ。
だが彼の望みが現実からの逃避である以上、ゲットーの小言に従えるはずもない。裸のまま床にへたりこみ、
ぼんやりとこちらを見上げるバーガーの腕を掴み、ゲットーは「ほら、立て」と引き上げた。
「…大丈夫」
「そうであってほしいが、俺には大丈夫には見えない」
バーガーが濡れた体を拭い、衣服を身につけ、髪を乾かし眠る準備をこなしているかを監視しつつ、汚れた衣服を
片付け、「水を飲んで早く休め」と声をかける。
「すまない」
力の無い声でバーガーは答える。だが小さな一人用のソファに腰掛けたまま、ゲットーが差し出した水の入った
グラスを受け取りもせず、立ち上がりベッドに赴く気配も無い。
「ベッドに行け。いくらお前が頑丈でも体調を崩す」
「眠くない」
「嘘を言え」
「平気さ」
何を言ってもバーガーは動かない。しつこく言い続けると「もういい、帰ってくれ」と、うるさそうに頭を抱えゲットーの
言葉を遮断したがゲットーは引き下がらなかった。
「お前がベッドに入ったら帰る」
アルコール漬けの頭でも、さすがにそこまで言われてまで友人をないがしろにするほどバーガーは正気を失っては
いなかったようで、文句を言いたげに唇を尖らせたものの、じろりとゲットーを見上げつつグラスの水を飲み干し、
ようやく立ち上がったのだった。

「分かったよ、大尉どのの言うことは聞くさ。……俺の世話なんて……してる暇ないだろうによ、……」
訥々と独り言を言いながら寝室へと向かうバーガーの背を、ゲットーはどこか寂しそうな表情をし見送る。
「……なぁ、ゲットー大尉」
ふと足を止め、僅かにゲットーの方へとバーガーは顔を向けた。
「迷惑をかけて、すまない」
それだけ言うと、居心地悪そうにすぐ顔を背ける。そんなバーガーに対し、ゲットーは静かに
「……気にするな。……とにかく、眠れ。ゆっくり」
と、答えた。疲れ果てた心をそっと慰めるような、そんな声に送られバーガーは小さく頷き、寝室のドアの向こうへと
消えていった。


 暫くの間、ゲットーはバーガーを置いて帰宅しようかしまいか逡巡しつつ、部屋の主に代わって片付けをし、
帰宅の準備を始めていたが何やら寝室からうめき声が聞こえてくる。
「バーガー?」
寝室のドアを開けるとバーガーの姿はベッドの上に無く、ゲットーは慌てたが、やがて床の上に転がっている男の
姿を見つけ、近寄った。
ベッドのシーツは乱れていない。
膝を折り、バーガーを抱き起こすが彼は朦朧としていた。傍に空の薬包が落ちている。
ゲットーは目を伏せた。今もなおバーガーは酒や薬に頼らなければ眠れない。だが眠れば悪夢を見るから寝たくない
と言う。
候補生時代、多くの友人に囲まれ明るく笑っていたバーガーはもうここにはいない。

「バーガー。大丈夫か」
ゲットーの呼びかけにバーガーはうっすらと目を開いたがその視線が自分に向いているのかどうか、ゲットーには
自信が無い。まるで焦点が合っていないのだ。
「……」
「バーガー」
青い瞳にはかろうじて自分の姿が映っているが、彼はあらぬものを視ているように思えた。

「……メリア?」
正気では無い。まだ夢の中にいるのか、バーガーは奇妙な薄笑いを浮かべ、ゲットーを見上げている。
亡き恋人の名を呼び、嬉しそうに微笑むバーガーが哀れでならなかった。
「何だ、メリア……生きてたんだな、……」
違う、とは言えなかった。言っても彼は理解出来ないだろうし、彼の願望を壊したくはない。
「お前が死んじまう夢を見たんだ、……夢で、良かった……」
ゲットーが否定する間も無く、バーガーは静かに目を閉じた。
きっとこの時だけが彼の安息の時であり、いつだって、バーガーの心に住まっているのはあの愛らしい少女ただひとりなのだ。
そう思うと何故か心の隅がチリチリと痛む。

「良かった……」

安堵の呟きは闇に消えてゆき、閉じた瞼の隙間から涙がこぼれ落ちてゆく。
頬を伝う小さな水滴に指をそっとあてがうと、温かくゲットーの肌に溶けていった。その指を唇に押し当て湿らせる。
舐めると微かな塩気を感じた。それは棘となりゲットーの心に刺さり、小さくも鋭い痛みを与える。
ゲットーはそんな心の痛みに抗うようにいっさい表情を変えず、数秒間だけ目を閉じた。

 瞼を上げると思い直すようにゲットーはバーガーから目を逸らし、彼の両脇を抱えベッドに持ちあげた。
ベッドに横たわらせた力の抜けた体に上掛けを掛け、胸のあたりをぽんぽん、と叩きふう、と息を吐く。
バーガーは目を覚まさない。
そんな、悲しむことにすら疲れきった友人の顔に、古い記憶が甦る。


 『お母さん。どうして泣いているの?』
 暗闇に浮かぶ母の細い背中が震えている。俺はそっとその背に小さな手をあてがった。
 『お母さん』
 母はいつも優しく、強かった。辛いことがあっても子どもの前で泣いたことはなかった。
 そんな母が息子の問いに答える余裕も無いほど、まるで小さな子どものように泣きじゃくっている。
 ほつれた金色の髪の毛を撫でながら、見たことのない母の姿を前に、俺は次第に不安に駆られていった。

 『ライル』
 暗い声に返事が出来ない。アルコールをじっとり含んだ吐息が臭く、俺は息を止める。
 『私も彼のそばにいきたい』
 彼女の傍には空の酒瓶が転がっていた。
 

 俺はあのときの魂の抜けた母の顔を、子どものような泣き声を忘れたことは無い。
そして、そんな記憶のなかの母と。

 『メリアが俺を待っているんです』
愛する者を奪われ生きる術をなくし途方に暮れたバーガーの姿が重なった。
「だから俺は……お前を放っておけないんだ」
それだけだ。

それ以上の感情は、俺は持ち合わせてはいないはず。


 軍人に、そして戦闘機乗りになると決めたとき、自分は一生家族は持たないと決めた。
夫を亡くし悲嘆にくれた母や、目の前の惨めな男のように愛する誰かを悲しませたくないし、悲しみたくもないからだ。
無駄な感情はときに判断を誤らせる。軍人の俺には感情も、愛も必要無い。
そのつもりで生きてきた。そのはずだった。


「う……ん……」
ごそごそとバーガーが眠ったまま体を動かし、小さく口元を蠢かした。
「……ゲットー、……ごめ……」
目は開いていない。再びすうすう、と穏やかな寝息が聞こえてくる。
「いいんだ、バーガー」
そう言った途端何か胸が締め付けられるような気がした。心の奥深くから込み上げてくるこの奇妙な感情の昂ぶりは
一体何なのだろう?
「苦しまなくていい。俺はお前の傍にいるから」
ゲットーは眠るバーガーの髪をそっと撫で、囁いた。


 分かっている。自分の本心に向き合うのが嫌だっただけだ。
俺はずっとバーガーに友情以上の好意を抱いていた。明るく闊達に笑い、その大きな青い瞳でまっすぐに見つめてくる
この男に惹かれていた。彼の愛らしい恋人の存在は俺を落胆させもしたが、嬉しそうに微笑みあう二人の幸福を
願っていた。実際のところ、俺の恋情はその程度のものだった。バーガーへの欲望というものはなかった。
彼が幸せならばそれで充分、満足だったのだ。

 メリアが死ぬまでは。

 彼女の死はバーガーだけでなく、俺の人生をも変えた。
おかしなものだ。
情を排して生きてゆくつもりだったのに、俺は今、惨めなくらい感情に支配されている。

 決して触れることなどないだろうと思っていた。
こんな寝顔を見ることだって、一生無いと思っていた。
それなのに今、こうして俺はバーガーの寝顔を見つめ、頬に触れることも出来る。
この一年の間、振り返ってみれば俺は案外と幸せだったのかもしれない。

きっとこれ以上に自分とお前の人生が交わることは無いだろう。
メリアに魂を奪われたお前をどれだけ愛しても、想いが伝わることは無いだろう。
だが、それでいい。

フォムト。
早くお前の心の傷が癒えることを、それだけを俺は心から願っている。










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