豪雨。
墨を流したような雲を切り裂く閃光。
どこか遠くで蹲るように響く雷鳴。
茫漠、荒涼たる山。
常に荒れたる天候となれば、気にするほうがおかしい。男は窖から外を見るでもなく、明かりの下で書をめくった。
書物は相当読み込んでいるらしく、表紙はもとより中身のほうも綴じたあたりやいつも頁をめくるところはぼろぼろにくたびれている。
彼は雨宿りをしているわけではない。本と明かりの他は数枚の着物とわずかな食料、刀を置いたこの場所は、彼にとっては人間でいうところの『家』である。
人はおろか悪鬼魑魅魍魎の類さえ滅多に寄り付かぬ場所へ居を構える豪胆さがなければ、思わず耳を覆いたくなるような大音量の中でも平然と書を読んでいられるはずはない。
静寂を乱す轟音は、どうやら近付いている。
眉を顰めるでもなく文字の上を滑っていた目が、ふと止まる。そうして彼にしては珍しく、窖の外へと視線を移した。
「……なんだ……?」
元々耳は良いほうであったが、岩肌を打つ豪雨と神が怒りを振り撒いているかのような雷鳴のせいで、かすかな音を聞き分けるには困難である。
無視を決め込むのは容易であったが、再度その音を知覚するに及び、毛氈から立ち上がった。ひとつにまとめた長い髪が、動きにつられるように揺れる。
音は、聞き違いでなければ『声』であった。
それが人にせよ人ならぬモノにせよ、この地にとっては彼以外の者は招かれざる異分子に過ぎぬ。
愛刀を腰に佩き、大きな黒の番傘をさす。このような悪天候にも関わらず、傘の中にはいっさい雨粒は降り込みはしない。また人が使う傘より数段頑丈であるため、たとえ大嵐が来ようとも壊れることはない。彼は随分昔からこの傘を愛用していた。
「さて……」
声はいずこから。
相変わらず墨色の外を見回すと、すぐにわかった。窖を出て左手が人里へ向かう道だが、一里も離れていない場所に、白っぽい衣を着た者がいる。雷に驚いて声を上げたのだろう。
それにしても――いずこから迷い込んだか。
傍まで近付くと、その者は岩のわずかな窪みに膝を抱えて座り込んでいた。
「おぬし――」
「きゃあ!」
悲鳴は掛けられた声に驚いたのではなく、地響く雷鳴に驚いたものらしい。両手で耳を塞いでいるが、それがどの程度効果があるのかはわからない。
もう一度声をかけようとして、男は気付いた。よほど大声をあげねば、この者は声を掛けられたことにすら気付かぬのではないか。
仕方ないかと溜息し、男は片手でその者の体を掬い上げるようにして抱き上げる。
迷い込んだ異分子は、男が忘れかけた空の色を持つ子供であった。