17 龍のトキヤと虎のレン

 ぴぴぴと高く鳴いた鳥が羽ばたいた音でトキヤは目を覚ました。窓の外はまだ薄暗い。  腕の中のレンは、稚いとも言えるようなあどけない寝顔をトキヤに向けている。 「……ン……」  もぞ、と動いたのはただの身じろぎだったらしい。目を覚ます気配はない。  トキヤはレンが目を覚さないように起き上がる。そうして、身支度を整えていった。着る物は年末にレンが選んでくれた半正装。これは形が少し違うものをレンも揃えてある。  体のラインに合わせた黒のインナーは顎の下まで襟がくる長さで、喉仏から胸骨の窪み下までくり抜かれ、薄いレースが張られている。首から肩にかけてのなだらかなラインは一部が切り取られて肌が見え、そこに半分重なるように短単衣、二枚の上衣の襟が重なる。胸許が普段より開くデザインだ。  上衣のうち一枚は体に巻きつけるように着付けるから、長い襟、衣が螺旋状に緩く巻きつく。その上の一枚は襟が毛皮になっていて帯までの長さまである。それから先の襟は繊細な刺繍が施され、これは帯で留まった長いカーディガンのように着た。  帯は幅広で、吉祥とされる柄が入り、腰には腰飾りや佩玉を提げる。佩玉の石も腰飾りもレンが吟味して選んでくれたもので、佩玉はアメジスト。首回りをゆったり飾るネックレスはアメジスト、ヴァイオレットサファイア、フローライトたちが贅沢にチェーンへ散らされている。これもレンの見立てだ。  レンはどうも稼ぎの大半をトキヤに飾ることへ使うことに決めたらしく、ここぞという服はレンが見立てて買ってくれる。そんなに使わなくても、とトキヤは思うのだが、レンが楽しそうに、嬉しそうにしているものだから、水を差すのは止めた。代わりにトキヤもレンを飾り立てているのだからおあいこだ。  すっかり着付けてしまうと、今度は牀に戻り、レンを足先まで暖かい毛布で包んでから抱き上げた。温石もいくつか仕込んだから、寒いということはあるまい。用意しておいた色付きのプラスチック片も二匹分懐に入れておく。  履物はまだ汚したくないから、ほんのわずか浮いておく。それから外に出て、裏山へと向かった。よくレンが登る樹があるほうだ。  外は薄明かりが徐々に明るさを増している。日はまだ出ていないが、そろそろ顔を出すだろうか。  一番高いところに到着すると、日が昇るほうへ向かって座り込む。胡座でレンを抱き込むと、まだ眠っている愛しの虎を揺り起こした。 「……ん……」 「ほら、レン、起きてください。日の出を見るんでしょう?」 「……んん……」  腕の中でもぞもぞとしたレンが、大きく欠伸をすると大きく伸びをする。目を擦り何度か瞬くと、ようやくトキヤを見た。 「……おはよ……」 「寒いでしょう? ほら、ちゃんとくるまって。日の出はあちらの方角ですよ」 「ん……」  毛布にくるまり直ったレンは、トキヤの差したほうを見る。いよいよお日様の頭が見えてきた。 「まぶし……」 「直接見てはいけませんよ。ほら」  懐から、濃いグレーに塗られたプラスチック片を取り出す。色は付いているが透明なので景色も太陽も見られる。目を保護するためのアイテムだ。  プラスチック越しに見る陽は、半ばほどまで顔を出している。 「……おまえとこうやって日の出を見るの、何回目かな」 「五度目ですね。……あなたがうちに来て、今年で五度、年を越しました」 「まだ五年くらいか……もっとずっといる気がするのに」  見上げてくるレンの視線を感じ、目を落とすと機嫌の良さそうな綺麗な顔が陽に照らされている。 「……今年もよろしくね」 「こちらこそ。今年もよろしくお願いします」  頬に口付けされたのをお返しすると、陽は名残惜しそうに地平から離れていく。 「……さ、正月料理をいただきましょうか。翔が張り切って作っていってくれましたからね」 「おチビは実家か……久しぶりなんだろう? いつも世話をかけてるし、ゆっくり休めてるといいけど」 「家の掃除などに駆り出された後は、きっとゆっくりしているでしょう」  レンを抱え上げたままで家に戻ると、すぐに台所へ行く。餅を焼く合間に用意されていた数々の料理を温め直したり運んだりした後で、焼いた餅を雑煮へ入れた。トキヤは三個、レンは五個。大きくて身が詰まった餅は器に五個も入り切らないから、二個は別の皿に盛った。追加でつゆや具も入れるつもりで、保温できる鍋敷きと鍋も食事室へ持ち込んだ。  他にも金時、焼いた海老、つやつやの黒豆、赤飯、魚介類の刺身や煮しめもたくさん用意されていた。品数が多くないのは、二匹が喜んで・好んで食べる物に比重を傾けた結果らしい。 「ん〜……美味しいねえ」  海老は有頭だがしっかり焼かれている。塩も振られていたが、レンは殻も剥かずに頭からバリバリと食べていた。トキヤは頭だけは取っている。 「さすが炎龍、火加減は文句なしですね」 「トキヤが作った黒豆も美味しいよ。甘みが控えめで、少し硬めなのがいい」 「ありがとうございます。あなたが作った鶏ハムもいいですね。うどんや麺類の具にしても良さそうです」 「いいね。正月以外にだって作るから、おチビが帰ってきたら頼もうか」 「そうしましょう。出汁はハムの煮汁が出ますから、それを使って……」 「……食べたくなってくるから、やめて」 「そうですね」  くくく、と笑いを噛み殺しつつ、カラになった杯に酒を注ぐ。レンの杯にもついでに注いでおいた。 「今日の予定はなんだっけ。挨拶回り……?」 「そうですね、族長と本家には行こうと思っています。……他の龍も大勢いるでしょうから、先に訪問時間はお知らせしましたが」  食事を終えて茶を飲んだら行きましょうと言うと、レンは「わかった」と頷いてくれる。留守番はイヤだと一年目から言っていたので、彼の中ではそろそろ恒例行事となっているのかもしれない。  本家も、はじめは「宰相への挨拶」が主だったが、今では奥方もハヤトも迎えてくれるから、親類の家へ行くような感覚さえあった。  駆龍も正月の間はめかしこむ。  ネックレスや胴飾り、尾には環も着けた。龍によっては鞍や手綱など、もっと飾り立てる者もいるが、トキヤは駆龍のほうが重くなるのではと心配し、ポイントを押さえた装飾に留めている。駆龍のほうもそれを気に入っているのか、ご機嫌な様子だ。  挨拶回りは身分が上の者から行うのが龍神族のお決まりで、だからトキヤとレンは族長の屋敷へ行った。  滞りなく挨拶を済ませ、今日ばかりは家から出られないオトヤに顔を見せ、軽く愚痴などを聞いておく。代替わりしたら彼が大勢の挨拶を受けなければならないから、今のうちから一緒に受けておいたほうがいいに決まっている。頑張りなさいと激励して辞去し、今度は本家へ向かった。 「いらっしゃいトキヤ、待ってたにゃ!」  元気よく迎えてくれた義兄に案内され、客を迎える迎賓館ではなく本邸の応接室へ案内された。 「あの、まずは宰相さまに挨拶を……」 「堅っ苦しいのは後回し! ここに来るのは父様であって、宰相さまじゃないよ」  トキヤとその父親である宰相は、いつぞやの宰相の誕生日――役所で棚に頭をぶつけ書類を散乱させた日――から多少距離は縮まっている。それ以前から縮まっていたハヤトと、ハヤトの母親である本妻との仲も良好で、本妻である奥方からは時々実の息子以上に可愛がられている向きもあった。  今の暮らしが気に入っているから彼らと一緒に暮らすことはしないが、何年か前のことを思えば、良い関係が築けていると思う。 「レンも、これ食べてみて。母様が取り寄せたんだけど、ビックリするくらい辛いんだ」 「そんなに?」  ハヤトに真っ赤な煎餅を勧められたレンが手を伸ばす。しげしげと眺めていたが、パリンといい音を立てて一口食べた。 「ン……本当だ。いい唐辛子と山椒を使っているね。舌がビリビリするよ」  美味しいと食べ進めるレンの舌は一体どうなっているのか。五年一緒にいてもよくわからないところはあるものだ。 「トキヤにはこっちね。栗きんとんだよ」 「ありがとうございます」  茶巾絞りされた栗きんとんは、栗本来の甘みが強い。栗のかけらがころころと入っているのも、トキヤの好みに合った。  こういうものは、きっと奥方さまが選んでくれているのだろう。何かにつけて気を回してくれるのは申し訳ないと同時に、嬉しくもある。  奥方さまに実の母の面影を重ねてしまうのは、二匹の顔が似ていると知った今では、やむを得ないことだと思っている。そうして、奥方さまのほうはトキヤを見てトキヤの母だった龍の面影を見つけては思いを馳せられているのだが、トキヤ自身はそれを知らない。 「まあ、トキヤさん。よく来てくれたわ。今日の衣もお似合いね」  趣味がいいわと女性らしく今日着ている物も褒めてくれるのは嬉しい。何しろ角飾りから靴まで、全部レンが選んだものだから。  淹れてくれたお茶は緑茶だ。どこで飲むものより香りが爽やかで甘味が強い。 「レンさんも。虎のものをアレンジした龍の衣装かしら? 華やかな色と刺繍がよくお似合いね」 「はい。トキヤが選んでくれました。装飾も」 「あら。じゃあトキヤさんが着ているものは……」 「……オレが選びました」 「仲が良くて何よりだわ」  安心ね、と奥方は上品に笑う。  少なくともここにいる龍はトキヤとレンがつがいだということを知っているから、言葉以上の意味はないのだとわかる。  その後は新年の挨拶に区切りをつけた宰相である父もやってきて、五匹で菓子と茶を囲んだ団欒のひとときを過ごした。こういう穏やかな関係になって、トキヤは初めてまともに父の顔を見たと思う。役所では宰相の顔で厳めしくしているが、邸宅では意外と穏やかな表情をしている。母の前でもそうだったのだろうかとこっそり思ったりもした。  昼前には本邸を辞した二匹は、散歩をしながら自宅へ帰ることにした。  正月は市場も店も休む。だからどの家も正月三日分の食事を年末に作るのだ。そのために年末の市場は大忙し、かき入れ時だった。そうしてトキヤの家でも三匹で三日分の料理を仕込み、充分に食べられるだけの料理が用意されている。三日間同じ料理ではないあたりも翔らしい。 「おや。正月からおまえは働いてくれたのですね」  途中、トキヤの飼っている通信龍が手紙を持って飛んできた。 「誰からだい?」 「……真斗どのですね」 「あいつから? なんだって?」 「新年の挨拶のようです。昨年は世話になった、今年も懲りずによろしく頼む、また遊びに来てくれ……と書いてあります」 「マメだな……去年も寄越してきただろう?」 「その前の年からですね。いかにも生真面目な真斗どのらしい。帰ったら返信しましょう」 「トキヤもマメだね。通信龍だって、ほとんどあいつとの手紙のやり取り専用みたいなものじゃないか」 「そこまででもありませんが、本も貸し借りしていますから、そのせいもあるでしょうね。おまえもよく働いてくれていますね。今日は食事を食べたら休んでいいですからね」  通信龍の頭を撫でてやると、目を細めて「キュウ」と一声鳴く。甘えているらしいと、レンにはわかった。 「招く? あいつを? この街へ?」  レンが素っ頓狂な声をあげた。  驚くのは無理もない。 「ええ。私とあなたはあちらの街へ行っているでしょう? それなら真斗どのを招いてもおかしくないでしょう」 「けど、それは……」  真斗は仮にも虎神族の跡取り息子だ。トキヤやレンとは立場が違う。一匹で仲の悪い神族の街には来ないのでは?  レンの心配ももっともだ。 「ええ。でも蘭丸さんがいれば話は別でしょう」  あなたをひとりで虎神族の街にやらないようなものですね、とトキヤは言う。 「ランちゃんか……それはまあ、たしかに」  蘭丸は商家の跡取り息子だが、腕っ節は虎神族の中でも上位だと思う。素早さと打撃の重さ、術の合わせ方が上手いのだ。龍とやりあっても引けは取らないだろう。 「それに、私が手を出させません。よほどの龍でなければ、私の客に手を出そうとは思わないでしょう」 「……おまえがどういう戦い方をするかは、決闘の時に知れ渡っちゃってるからねえ」  遺憾の意だが、今はその知れ渡ったものが周囲を牽制するのには役に立つ。 「それに、私の家なり妓楼なりに泊まれば安全でしょう」 「そうだね。花街なら争いは御法度だし……」  トキヤとレンも虎神族の街へ行く時には花街に泊まる。どんな種族の街だろうと、基本的に花街は安全だからだ。トキヤの家なら、結界を張ればひとまず安心と言えるだろう。  レンがじっとトキヤの顔を見る。 「……なんです?」 「あいつを泊まらせるなら、花街のほうがいいと思って」 「? 何故?」 「…………声が漏れるんじゃないかと思って……」 「……………………いつも結界は張っていますが……そうですね、万が一にでもうっかり見られては、それはそれで問題もあるでしょうから、そうしましょう」  心配がいつも杞憂になるとは限らない。  トキヤは頷くと、レンの提案通りにしようと提案を心に刻んだ。
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